「真実を求め続けたいエホバの証人」さんのこれまでの投書に対する感想−「物事をありのままに考えるエホバの証人」より

(10-28-00)

「ものみの塔協会」は、これまでも、インターネットに対しては、警戒をしていましたが、最近になって、
インターネットに対する危険性に対するさらなる警戒の動きを強める方向を打ち出しています。最近の会衆
への巡回訪問において、以下のような点が指摘されました。

   1)インターネット・ポルノ(文書、画像、チャット等)によって害を受けている人がいる
   2)背教者のHPがごろごろしている
   3)インターテックはたとえ健全な使い方であるとしても、霊的に有用な目的のために用いることの
     できる貴重な時間が奪われることになる

従って、インターネットを禁止することはできないにしても、自制する必要性が訴えられました。ついでに、
ご丁寧なことに、会衆の中で、誰がインターネットを行なっているか(あるいはインターネットを使える環
境にあるか)まで調べていきました。ブラックリストでも作るつもりでしょうか。ご苦労様。


さて、私の関心事は2)です。エホバの証人に対する批判的なHP類には、傾聴に値するものも散見されま
すが、確かに、そうでないものも多々あるようです。そうした中でも、一番見苦しいのは、「ためにする批
判」です。これはどういうことかといいますと、批判するにしろ、擁護するにしろ、まず明らかな目的があ
って、それにあわせて、論理を展開する人たちのことです。そうではなく、まず事実があって、それに基づ
いて真実を追求する姿勢こそ大切なのではないかと考えます。

その点では、多くの「エホバの証人反対者」の論理には、不正確な事実認定や認識、誤解、偏見などに基づ
くものがあるので、注意が必要のように感じます。

また、同様な事柄は「ものみの塔協会」を擁護する立場でHPを開いている人たちにも言えることです。例え
ば、「エホバの証人記者クラブ」というHPがありますが、その大政翼賛会的あるいは御用クラブ的な姿勢
および論理展開は、エホバの証人の内部にいる者にとっても不快なものですし、見苦しいとしか言いようが
ありません。例えば、最近熱を入れている「投票」問題などは、「ものみの塔協会」自身も、従来からの見解
が変わっていないとは説明していないにもかかわらず、力を振り絞って、「変わっていない」と力説する姿
勢はピエロのようにさえ映ります。

その点、当HPは傾聴に値するものを多く掲載していますが、中でも「読者の広場」は、読者の生の声を知
ることのできる貴重なものとなっています。そのページに最近掲載されている「真実を求め続けたいエホバ
の証人」さんからの投書に、私は大変感動を受けました。当HPの編集者も同様に感じたようですが、私も
大変興味深いと思いました。それは、決して、「ためにする議論」ではなく、まさに本音を述べた貴重なご
意見と拝察したからです。


前置きが長くなってしまいましたが、「真実を求め続けたいエホバの証人」さんが、これまで6/24〜9/
19までに投稿された4回の内容について、私なりの感想などを述べさせていただければ幸いです。以下、
「真実を求め続けたいエホバの証人」さんの投稿から部分的に引用しながら、感想を述べさせていただきたい
と思います。投稿分については、段落を下げて表示します。


   真実を求め続けたいエホバの証人」より  (6-24-00) 

    最後にもう1つだけですが、ハルマゲドンが怖くてやっているエホバの証人は少数
   だと思います。個人差はありますけれども、批判的ホームページで力説されているほ
   ど、固執していないと思います。
    「地上の楽園」の本や、過去の多くの出版物の中に、「滅ぼされたくなかった
   ら……」とか「生き残るためには……」という表現が目に付きますから、そう思われ
   ても仕方ありませんが、多くのエホバの証人は、エホバが実在しておられることや、
   人々に愛情を持っておられることを、本当に真実として、いわば肌で感じています。
   エホバとの結びつきが強いか、組織との結びつきが強いかは個人差がありますし、本
   質的に同一視している人たちも確かにいることはいます。でも、そういう人たちには
   時期を見て言わないと、それが信仰とか忠節と思っていますので、私たちのような見
   方で物を言うと、不敬、不忠節、不信仰と受け取られます。通じる時まで待つしかあ
   りません。共通の部分も多いので会話は共通な点を選んでします。同じ本を読み、同
   じ話を聞いて育っているのに、こうした違いが出るのはなぜか、よく考えたことはあ
   りません。

私も、この件では、「真実を求め続けたいエホバの証人」さんに賛成です。かつて、「説得」を書いた大泉実
成氏も、潜入した会衆の姉妹たちの言動などについて言及した際に、正確に覚えていないので概要だけを示
しますが、会衆の中のたくましい姉妹たちは、「ハルマゲドンなんでどうだっていいよの!」という太っ腹
な態度を示していたようです。もちろん、すべての人がそうではないですが、一部の姉妹たちは、確かにそ
うした態度を示していました。

これは、私の感覚からは、理解できることです。最初はハルマゲドンが怖くて聖書の勉強を始めた人でも、
やがて、神への愛に目覚め、あるいは、日常の惰性に流されながら、歳月を重ね、いつしか、ハルマゲドン
が怖くて入信したことなど、記憶が薄れてしまうか忘れてしまうのではないでしょうか。

もちろん、若い人たちの中には、特に、若くして開拓奉仕を始めて、この世から「良いもの」を何も得てい
ないと感じている若者たちは、真に良いものがあふれているはずの「楽園」が早く来ることを心から切望し
ています。ですから、彼らは、ハルマゲドンが怖いというよりも、楽園が来ないと困ってしまうというタイ
プかもしれません。


   「真実を求め続けたいエホバの証人」より−その2 (7-6-00) 

   @ ハルマゲドンは怖い?
   A 真実はこれから明かになる?

の2点について論じられていましたが、特にコメントはありません。おっしゃる通りだと思います。


   「真実を求め続けたいエホバの証人」より−その3 (7-22-00) 

   A 組織の外に救いは……?
   ・・・・・
    聖書は自由な観点から読み、出版物は参考にする。補足し合うところを補足しなが
   ら読むという姿勢が基本だと思います。聖書も出版物もゴチャゴチャで(頭から同一
   視するような)、聖書の言葉なのか出版物の言葉なのかも区別できない取り入れ方を
   すると、ちょっといびつになってしまうこともあるかもしれません。出版物に時々見
   られる「裁き人」的要素や「早とちり」的要素は、聖書によって調整できますし、聖
   書にある「なぞなぞ」的要素は出版物でヒントを得るという風に、互いの欠点を補足
   する読み方をすればいいと思います。

何という柔軟な態度なのでしょう。私は、このような柔軟な態度のエホバの証人に、これまでお会いしたこ
がありませんでしたので、つい感激してしまいました。実は、こうした考え方は、聖書を最高の権威と認め
ている「ものみの塔協会」としては、当然の態度であり、協会も形式的には、そうした考え方を支持してい
ます。しかし、残念ながら、実際の運用上はそうなっていないのです。

一番分かりやすいのは長老の行動基準を何が律しているかです。その最終的なものは、決して聖書ではあり
ません。間違いなく、「ものみの塔」誌の一語一句が、長老たちの決定を左右しています。小さいこととし
ては、会衆の様々な取り決めをどのように行なうか、比較的大きな事柄としては、悪行を犯した人を裁く審
理委員会において、どのような判断を下すのかなど、聖書が無視されるわけではないものの、やはり最終的
な決定は、「ものみの塔」誌に書かれている表現、あるいは、協会から長老たちに送られた「手紙」などによ
って決定が左右されています。そこには、聖書的な判断を個々の長老たちがくだせる余地はないのです。協
会の文書がこう述べていると言えば、それで決定の根拠としては必要十分なのです。ですから、複数の意見
が食い違ったりした場合に、聖書が検討されることはまずありません。そうではなく、協会が何と述べてい
るかだけが検討されるのです。

残念ながら、事実はそうなっていることをお知らせしておきたいと思います。


   真実を求め続けたいエホバの証人(お返事) (9-19-00) 

   C組織はいらない、聖霊だけで十分ということについて
   ・・・・・
   ただ、エホバの証人の組織が神権組織の名のもとに専制的、官僚的になることは止め
   るべき「時」だと思います。ちょうど21世紀になるわけですし。 例えば集会に関し
   ても、律法下では確かに命令でしたが、年3回のいわば大会に出席が命じられていた
   のは男子だけでした(出エジプト23:14−17)。仮小屋の祭りにはみんなで喜
   ぶようにと言われていますが、命令ではありません。よく引用される申命記31:1
   2は、前の10,11節に明記されているように、7年に1度ある安息年のときの仮小
   屋の祭りに関する命令ですから、家族構成を問わず全てを連れて遠路でも集まり合わ
   なければならなかったのは、7年に1度でした。命令されていなくても自発的に妻子
   と共に出席していた家族は多かったようですが、当時は全員が神権家族ですから、今
   とは状況が違います。逆にいえば神権家族でさえ無理な出席はしなくてもよかったん
   だと思うのです。「励まされる経験」として載っている記事を読むたびに複雑な気持
   ちがします。安息日ごとの地域の会堂での集まりの方は出席しやすかったと思います
   が、週1回の安息日だけでした。神権家族で週1回は本当に「軽い荷」だったと思い
   ます。しかも当時は書物が普及していませんでしたから、集まり合って聞くことは今
   以上に重要だったはずです。それでも週1回なのですから、エホバは決して負担にな
   るような命令をされなかったことをつくづく感じるのです。任意に神殿に来ること
   や、任意の集まり、あるいは必要に迫られての突発的な集まりは別の話になります。
   未信者の配偶者が多いからこそ、信仰を強めるために週3回の取り決めは必要だとい
   う説もわかりますし、取り決めること自体は非聖書的と言えませんが、それを神のご
   命令というのはどうでしょうか。神は本当に命令しておられるのか疑問です。出席で
   きる人はもちろん出席していいわけです。ちなみに私は全部出席していて、休みたい
   から言っているわけではありません。もちろん毎日個人的に聖書を読んだり、定期的
   に少しずつでも個人研究することは基本的前提です。

興味深いご意見だと思います。現在、エホバの証人の多くは、確かに週3回の集会に集まることに疲れを感
じ始めています。火曜日に出席したら、木曜日は休み、次の日曜日は出席、そして、火曜日は欠席という具
合に「臨機応変」に自分なりに集会の出席を調節し始めた人たちが、会衆内に20〜30%程度はいるでし
ょうか。

たとえ週に3回集まっていたとしても、ただ体だけそこにあるだけで、心そこにあらずという人の何と多い
ことでしょう。だからといって、週1回の集会にして、密度を濃くして、それで霊的な活力が得られるかど
うか、私には自信がありませんし、統治体もなかなかそうした決定に踏み切れないでしょう。

しかし、このまま無味乾燥で意味のない集会を開きつづける方がもっと罪が重いと思います。この問題を解
決できないと、明日のエホバの証人はないかもしれません。それとも、これこそが、終りの時のまさに眠気
を誘われる事態だったのかもしれません。こうした試練を乗り越えることのできる少数の人だけが救われる
のでしょうか。私には定かなことは分かりません。


さて、最後になりましたが、私なりに、あなたの一連の投稿に励まされてきました。これからのさらなるご
活躍をひそかに期待してあります。


2000年10月28日
「物事をありのままに考えるエホバの証人」より

《編集者より》
ハルマゲドンの恐怖については、エホバの証人として活動している人々のあいだにはこの感覚が少ないことは、他の方々の投書にもあり承知しました。しかし、子供時代にエホバの証人として育てられた人々が、幼心に出版物のハルマゲドンの絵を見てその恐怖をいつまでも心の底に焼き付けられたという証言は何度も聞いています。幼児虐待の問題も含め、私はエホバの証人の子供たちの心理的な発達にハルマゲドンの恐怖が働いて、健全な成長を妨げて来た可能性はないかと考えています。

「真実を求め続けたいエホバの証人」 さんは一連の投書を終えてお休みのようですが、またこの場を使って「物事をありのままに考えるエホバの証人」さんとの意見の交換をされたらいかがでしょうか。