武道の解釈についての質問−体育教員の方より

(10-11-00)

HP、大変勉強になりました。

今、というか、前々から、この宗教につきまして、問題を感じております。
というのは、私は体育教員をしているのですが、ご存じの通り”柔道(武道)”の問
題です。

本人がしたくないというものをさせるつもりはありませんが、どうも、親が”する
な”と言っているように感じる学生・意味も分からず”神の教え”ということで参加
しない学生がたくさんおります。

いろいろな学生、保護者と話しているのですが、一向に話が理解できません。また、
今週にも、その保護者が”話がある”ということで会わなければなりません。

今のところ、”見学・不参加”ということで処理していますが、能力のある学生に、
10段階の5や6をつけざるをえない現状に大きな疑問を感じています。

今後、臓器移植の問題のようにこの宗教が変わっていく可能性はあるのでしょうか。
現状や今後について、ご存じのことがありましたら、また、”武道についての解釈”
等、お教えいただければと思います。お忙しいところ、誠に恐縮ですが、よろしくお
願いいたします。

《編集者より》
臓器移植、輸血に限らず、エホバの証人は様々な事柄を拒否します。拒否の理由は様々ですが、それぞれ聖書に基づいていると主張します。しかし聖書に書かれていることと現実に拒否している事柄との間が余りにかけ離れているので、ほとんどの場合拒否しているエホバの証人本人が、一体何で拒否しているのかわからなくなり、結局、親が言っているから、組織が教えるから、そしてあなたが経験したように、意味もわからず「神の教え」と言って拒否することが多くなります。このことは、なぜ血漿を受けいれてはいけなくて、アルブミンやグロブリンを別々に受け入れてよいのか、なぜ臓器移植はよくて輸血はいけないのか、の説明を求めると答えられないエホバの証人の心理と同じことです。以下に、ものみの塔協会が教師に向けて、武道拒否の理由を説明したパンフレットを引用して、あなたのご理解の助けにしたいと思います。

*** 学 29 教室での授業 ***

格技の授業: エホバの証人は聖書が次のように述べる人々の一人でありたいと思っています。「彼らはその剣をすきの刃に,その槍を刈り込みばさみに打ち変えなければならなくなる。国民は国民に向かって剣を上げず,彼らはもはや戦いを学ばない」―イザヤ 2:4。

聖書はまた,こう述べています。「できるなら,あなた方に関するかぎり,すべての人に対して平和を求めなさい」。(ローマ 12:18)これらの原則を生活に当てはめると,格技に対する私たちの態度にも影響が及びます。それにはボクシングやレスリングはもとより,柔道,剣道および相撲などの武道が含まれます。これらの武道は今日スポーツとみなされています。エホバの証人は,広くスポーツと呼ばれているものを学校が教育の一環として取り入れていることに異議を唱えたいとは思いません。しかし前述の聖書の原則を考慮するとき,ほとんどのエホバの証人は格技を練習することは良心的にできないと感じています。なぜなら,そのような技術は,実際に人と争うときに用いられることがあり,そうした技能に心得のある人は問題の解決法として腕力に訴える場合のあることが観察されているからです。ですから,エホバの証人はそのような格技には加わりません。証人の若者たちはそのような競技に参加することを免除していただくよう願い出ますが,授業時間内に行なわれる他の体育教育の教科課程には喜んで,できる限り協力いたします。

この拒否の理由も、理解に苦しみますし、多分大部分のエホバの証人自身、よく説明できないのではないでしょうか。根本的な問題は、技術そのものが平和を乱すのではなく、どのような技術にせよそれを使用する人間の問題であることを無視していることです。例えば同じスポーツでも、槍投げ、円盤投げや砲丸投げは太古には戦争の技術として使われていました。現代の世の中に人と争うために槍投げや砲丸投げを練習する人はいないでしょう。しかし、犯罪を意図した人がこれらを習得すれば、これも有力な殺人の道具となり得ます。それは槍投げや砲丸投げ自体が人を傷付ける道具や軍事活動なのではなく、それらをどのような目的で使用するかの個人の心の状態にかかっているのです。現在ものみの塔協会が体育の課題として砲丸投げや槍投げを拒否するようには教えていません。それに対して柔道、剣道、ボクシングなどは、これが人を傷付け、軍事目的に使用されるとの理由で、上に述べたように全て拒否することを教えています。この議論を使えば、台所の包丁を使って殺人をする人がいるから、包丁を使うことを一切拒否すべきである、ということにさえなります。どうか柔道を拒否するエホバの証人に次の質問をして考えさせて下さい。「あなたの聖書の引用は理解したが、それではその聖書の引用からどうして柔道は拒否しなければならないが、槍投げや砲丸投げは拒否しなくてよいのか、説明してもらいたい。柔道も槍投げもともに大部分の人は健全なスポーツとして行っているが、一部の人にとってはこれを人を傷付ける道具として使うこともできる。聖書のどこに基づいて、一方は拒否しなければならず、もう一方は拒否しなくてよいのだろうか」。

なお、以下にもう一個所、ものみの塔協会の公式の出版物から、柔道を拒否する学生の心理を語る記事がありますので、ここに紹介します。この学生がいかにエホバ、エホバと心の中で叫んでも、自分の行っていることの論理の矛盾には全く気がついていない所に、この宗教の悲劇を見ることができます。

*** 目84 7/22 26-7 クリスチャンの良心と学校でのスポーツ ***

クリスチャンの良心と学校でのスポーツ

聖書は,真の神エホバの崇拝者は平和を愛する者でなければならないと教えています。例えば,イザヤ 2章4節で,「国民は国民に向かって剣を上げず,彼らはもはや戦いを学ばない」と予告しています。また,イエスも,「あなたの剣を元の所に納めなさい。すべて剣を取る者は剣によって滅びるのです」と言って,戦うことはキリスト教の道ではないことを追随者たちに話されました。(マタイ 26:52)こうした理由で,個々のエホバのクリスチャン証人は,それが厳正な中立の立場を犯すものであるゆえに,軍事的な活動の一端にあずかることを拒否します。

日本では徴兵制度がないので,若い人々が良心に基づく決定を迫られることはありません。しかし,学校に通う若い人の中には,在学中に聖書によって訓練された良心の関係する問題に直面する場合があることに気づいている人もいます。例えば,学校によって,男子生徒は剣道か柔道を行なうことが求められます。教師やそのほかの人々はそれをスポーツの一種とみなすかもしれません。しかし生徒本人は,その“スポーツ”に参加しないほうがよいと良心的に考えるかもしれません。その起源が武術にあり,それを学べば物事を解決するための手段として腕力を用いる可能性があると懸念するかもしれません。それで,柔道や剣道を行なわないことを認めていただきたいと敬意を込めて願い出ます。

学校の教師,特に体育の教師は,大抵の場合エホバの証人の生徒の要望に対して思いやりを示し,柔道か剣道の行なわれる授業中ほかの何らかの割り当てを果たすのを許してくれます。

エホバの証人は体育の授業を“免れ”ようとしているのではありません。ただ,良心上自分には参加できないと思う授業の代わりに,ほかのことを行なわせて欲しいと言っているにすぎないのです。

教師がその意図をくんでくれる場合は,普通の授業に何の差し障りも生じません。ところが教師の態度が強硬な場合や生徒に圧力が掛けられる場合,問題が起きることは目に見えています。

高校を卒業したばかりのある若者は,体育の課程で行なわれる柔道を免除してもらいたいと願い出たために3年間にわたって経験した事柄を語ってくれました。

『私の学校では柔道が正課として3年間組み込まれ,それを履修しなければ進級することができません』。この若者は自分の立場をすぐに説明すべきであることを知りつつも,それを延ばしていたと述べています。「柔道の初めての授業の前々日,クラス担任の先生に職員室の中で近づき,柔道ができないことを聖書から説明し,これから自分の取るべき行動についての指示を仰ぎました。その時ミカ 4章3節を開いたのを覚えています。(先に引用したイザヤ 2章4節と非常によく似た聖句)私は読み終えて簡単に注解を加えましたが,多くのことをあまり話すことができませんでした。すると先生は,今と同じことを柔道の先生に直接話すように勧められました。私は言われた通りにして,若い柔道の先生に証言しました。その先生は考えておくと言われました」。

『次の日,私は返事を聞きにその先生を再び訪ねました。先生は穏やかな態度で,柔道の時間中,道場の床に正座し,授業についてのレポートを翌日に提出することを割り当ててくださいました。

『しかし,2年に進級すると柔道の担当の先生が替わり,事態はとても厳しいものとなりました。今度私に割り当てられたことは前年とは全く異なったものでした。

『まず,柔道の時間が始まる前に,クラス全員の柔道着をロッカーから出して来ることから始まりました。次いで,道場で準備体操をした後,一人でグラウンドに出て,腕立て伏せ,腹筋体操,懸垂,平行棒,クライミングロープをしました。言われた回数を授業時限の50分間にすべて終わらせることには相当の難儀を覚えました。時間が終わって休み時間になると,道場の清掃があります。この仕事が私にとって最もつらいものでした。畳100枚以上の道場をほうきで掃いてぞうきんがけするのは1時間の運動をした直後ですからかなり骨が折れました。道場は学校の敷地の最も外れにありましたから,バケツの水を取り替えるのも一仕事でした。時には,ぞうきんを絞る握力さえ衰えてしまうこともありました』。

10分の休み時間にこの掃除をやり終えて次の授業に時間通り行くのは無理なことが分かりました。最初の時遅刻してしまい,この若者はその教科の先生に説明しようとしましたがそれは許されず,半強制的に教室を退場させられ,廊下でノートを広げなければなりませんでした。しかし,授業が終わってから,若者は先生と一対一で話すことができ,協力と理解が得られました。それは結果として良い証言になりました。

さて,3年生になって,どうなったかを若者は次のように語っています。「柔道の先生は比較的年配の先生に替わりました。……その先生は柔道の技の『型』を勉強するよう強く勧めました。[しかし]私は,柔道の技の『型』や『受け身』と呼ばれる防御方法を勉強するのはおろか柔道着を着用することさえ献身したクリスチャンとして避けなければならないと自分に言い聞かせました。すでに2年間過ごしてきましたので,いわば妥協はしたくないとの強い願いをもって先生の勧めをお断わりしました。

「私の強い態度に先生はしびれを切らし,『さもないと退学だ』と言われました。私は先生がとても感情的になってきたのに気づき,その日はその場を退きました」。

数日後,この若者は退学したくないとの意志を固めました。そして先生に近づき,どうしたらよいか尋ねました。先生は審判をするように言われました。しかしこの若い生徒はそれもできないことを即座に告げました。それからこの生徒は起きた事柄を母親に話しました。献身したクリスチャンである母親は息子に励ましを与え,こう言いました。「エホバはもうすでに道を備えておられるのです。ただ私たちにはそれが今のところ分からないだけなのです。その少しの間私たちは忍耐してエホバに依り頼むよりほかにはありません」。若者は自分がエホバに全幅の信頼を置くことを忘れていたのに気づきました。それで,忍耐して,エホバ神のみ業と導きを待つことにしました。

さて,柔道の授業のある日がやって来ました。その生徒は過去2年間してきたように,体操着に着換えて道場に入り,その一番端に正座していました。先生が出席を取り始めましたが,その生徒の名前は飛ばされました。やがて練習が始まりました。「先生が私のそばへ来て,『そこで何をしているのか』と尋ねました。『はい,何をしてよいのか分かりませんので,こうして座っています』と私は答えました。すると,先生は竹刀で私の背中を数回強打してから邪魔になるから出て行けと私を場外へ追い出しました。私はいよいよどうしたらよいのか分からなくなり,柔道場の入口に立ったままエホバ神に祈りました。

「その日のすべての授業が終わり帰宅しようと廊下に出ると,数人の柔道部員が私を待ち受けていて,話があるから道場に来るようにと言い,私をせき立てるようにして道場へ向かいました。何が起こるのか私にはだいたい予想できました。4人の柔道部員は問答無用でいきなり私につかみかかり,順番に私を投げ飛ばしては締めつけました。私は心の中でずっと,『エホバ,エホバ』と助けを求めていました」。

それら柔道部員はその生徒に思い知らせようとしていたのです。彼らは,『よく分かったか。これが質実剛健というものだ』と言いました。 引きちぎれたシャツとあごの血を見て,若者は何があったのかを改めて知りました。とても一人では歩けませんでした。

ところが,道場のドアを開けると,クラスメートの一人が心配そうな顔をして立っていました。ずっと道場の外で待っていたのです。若い生徒はこう述べています。「これはエホバの助けだとすぐに感じました。友人のおかげで1時間半の電車での道のりを帰宅することができました」。

家に帰るとさらに驚くことがありました。未信者の父親が家にいたので,若者は洋服がボロボロになったことや傷を負っている理由を説明しなければなりませんでした。驚いたことに,父親は若者に反対するどころか,こう言って励ましました。『自分のほうから退学などしてはいけない。しかしたとえ退学させられても自分の信念を曲げてはならない』。若者はこの言葉に非常に勇気を得,それもエホバの助けであることを認めました。

次の日,柔道の先生が若者に近づき,優しく話し掛けました。若者はこう話しています。「2年生の時の柔道の先生が,私のことを,彼は非常な努力家で考えのしっかりとした生徒であるから退学させないで面倒を見て欲しいと現在の柔道の先生に口ぞえしてくれたようでした。前の年の私の努力が認められたことを知り,とても大きな喜びを感じました。さらに,今年,柔道をする代わりに,校庭の芝刈りを割り当てられました」。

確かに,迫害や試練は喜ばしいものではありません。しかし,それを忍耐するなら清い良心を保つことができ幸福です。またエホバ神にさらに依り頼むことができます。この生徒は卒業の数か月前に全時間の伝道活動(正規開拓奉仕)を開始し,エホバ神の祝福をますます味わっています。この若者はコリント第二 4章7節から9節のパウロの言葉を身をもって経験しました。読者もエホバに対して同様の確信を持つことができますように。