広い視野を持ちたいと願う元研究生

(9-19-00)


まず、このようなHPを開設してくださった村本さんに感謝します。また、ここで沢山の
方々と知り合えることをとても嬉しく思っています。

少し私のことからお話しましょう。
私は今年24歳のOLです。去年まで海外で暮らしていました。何度か日本に帰ってきていた
ときにエホバの証人を知り、海外で聖書研究を始めました。教義には素晴らしいものがあ
るし、私も少しは楽園を信じていました。ただ、なんとなく腑に落ちない点があり研究は
止めてしまいました。しかし今でもエホバの証人の友人はいますし、彼らから強要される
こともありません。楽しくお茶を飲んだり、食事に誘い合ったりしています。
 
海外にいたときに、一人の日本人女性、Aさんと知り合いました。Aさんは今の私の信条
の基礎となるものを示してくださった方です。その信条を一言で表すのは難しいのです
が、簡単に言うと、‘全ての宗教は同じである’ということです。つまり、私たちに信じ
られないような偶然を与えてくれたり、願いをかなえてくれたりする’大きな力’のこと
を、人は‘神’と呼んだり、‘宇宙の力’と呼んだりするわけです。イスラム教徒は、ア
ッラーと呼ぶし、仏教徒はお釈迦様というでしょう。エホバの証人はそれを’全能の神エ
ホバ’と呼ぶわけです。
 
エホバの証人に関して言うと、色々矛盾があり、私が信じることと相容れない点がありま
す。その中でもやはり他の宗教を受け入れないことが、私には府に落ちません。手元に資
料がないのでどの雑誌に載っていたか、具体的にはどういった言葉であったか分かりませ
んが、たしか次のようなことがエホバの証人の雑誌に掲載されていました。
 
‘国際平和年であった****年、国連は世界の宗教家を集め、平和への祈りをささげる
運動を行いました。彼らはわけのわからない祈りの言葉で祈りましたが、真実の神エホバ
に向かって祈った人は一人もいませんでした。’

こういった記事で、信者の方は‘外の世界にはサタンの業であふれている’と教え込まれ
るのでしょうか。私は祈りは聴かれる、と信じていますが、たとえ信じていなかったにし
ても世界中の宗教家が一緒に祈るというのは素晴らしいことだと考えます。重要なのは
人々が今の不安定な世の中を何とかしよう、と考えることであり、こうした著名人を集め
たイベントを行うことで世界中の人に喚起を促せればよいのです。

確かに、今の世には嘆かわしいことで溢れています。私も生きていることが本当に嫌にな
るし、仕事も始めたばかりでとてもきついし、最近までは自分の本当にやりたいことも見
つからず、精神的に不安定でした。大学では芸術を専攻していましたが、この世界もかな
りシビアです。自分の信じる道を貫く力と、自分をプロデュースする勇気が要ります。今
は熱中できるものがありますが、それでも仕事との両立に悩んでいます。作業をしている
と、毎日寝るのが2時をまわり、次の日も仕事です。最近付き合いだした男性とも、しっ
くりいかないことがしばしば。エホバの証人の言うように楽園がきてくれたらどんなに楽
だろう、と考えずにはいられないこともあります。
 
それでも、前述のAさんの言うように、人は何か使命をもって生まれてきて、それに気付
く人と気付かない人がいる、という言葉に励まされ、毎日を送っています。別に、世界中
にわたるような巨大な影響力がなくったっていい、自分の信じる道を進んでいれば、‘神
様’は要所要所で少しの手助けをしてくれる、と思っています。そのほんの少しの手助け
を実際にしてくれる、周りの人たちにめぐり合わせてくれることが‘神’の手助けのひと
つであり、そういう素敵な人たちとの出会いに気付かない人がいわゆる‘霊的に低い人’
となるのではないでしょうか。そしてそういう必然的偶然が起こっている限り、神様は私
たちを応援してくれていると思います。つまり、私たちがいるべき道にいるかぎり、必ず
後押しをしてくれる人が現れてくれるのです。
確かに‘自分の道’を知るのには時間がかかります。それは仕方がないことです。でも、
私たちの身の上に起こることは全てなにかの経験になる、とAさんは教えてくれました。

Aさんは、また、ある本を薦めてくれました。‘聖なる予言’という小説ですが、英語版
では‘The Celestine Prophecy’というタイトルです。エホバの証人の組織について疑
問をもっている方には読んでもらいたい本です。この本には’実践ガイド’があり、そち
らの方が分かりやすくなっています。ただ、輪廻転生(りんねてんせい・仏教語で人は生
まれ変わる、という概念)を主題としており、抵抗を感じる方は避けたほうがよいかも知
れません。
 
この本に書いてあること全てを信じてほしい、というわけではありません。もう3年以上
読みつづけている私にもよくわからないことが沢山あります。別に書かれてあること全て
を信じてほしいというわけでもありません。でも、実践ガイドの中の、‘権力闘争’とい
うところには、はっとさせられます。自分が今までにあったことのないタイプの人に接す
るときの接し方、権力の奪い合いはなぜ起きるのか、私たちが生まれ育った環境が人格形
成に与える力など、そしてそういった悪い影響の克服のしかた。人は育成期間で必ず周囲
からの悪い影響を与えられます。それはどんなに私たちが頑張っても避けられないので
す。でも、少しづつ矯正することはできます。

エホバの証人であることで、強迫観念を感じている方、何もかも嫌になった方、沢山おら
れると思います。この本が役に立つかどうか、分かりません。でも世の中にはこういう考
えもあるし、勉強の一環として手にしてみるのも悪いことではないと思います。もちろん
この本は人の手で書かれたものであり、証人の言うところの‘神の基準を満たす’もので
はないでしょう。ただ結局のところ、世界の大多数の人は証人ではないのです。いろんな
人の考え方でよいところを自分のものにしていったらいいのではないでしょうか。
 
この本には続編もあり、‘第十の予言’(‘The Tenth Insight’)とい
い、これにも実践ガイドがありますが、日本語で出版されているかは分かりません(両実
践ガイドは別売)。興味のある方はこちらの方もどうぞ。

嫌なことも沢山あるけれど、私はこの世の中が好きです。科学の発展でオゾン層の破壊だ
とか、ダイオキシンの問題だとかを耳にするのは精神的にもつらいことですが、私たちが
少しづつ気をつければ解決されるんです。地球には傷を癒す力があるし、私たちが努力す
れば将来を悲観することもないと思います。また、科学の発展で地球が狭くなっているこ
とでいろんな人と出会い、時には傷つき、でも成長していけるこの環境に私は感謝しま
す。

証人であることに疑問をもっている方々、もし証人であることをやめたい、でも勇気がな
い、と思わないで下さい。みなさんは人と違う宗教を選んだことで、もうすでにすごい勇
気を身につけていらっしゃるのです。自分の未来は自分が決めるんですよ、それだけは神
にも決められない。そして、証人として生きていくこともひとつの選択です。また二世の
方、親からの影響は絶大なものがあります。プレッシャーもあるでしょう。生きていく限
り誰にでもつきまとうことです。でも聖書にもあるように、神は耐えられない状況に私た
ちを置いたりはしません。また、私たちを試したりもしないのです。ただ選択肢のひとつ
として私たちの前に提示してくれているだけです。こういう選択肢は私たちの人生のあら
ゆる場面にあります。私は将来の見えた単純な生き方よりも、将来の見えない未知の世界
を選びたいと思います。

そろそろ終わりにしたいと思います。ここまで読んでくださった皆様、本当にありがとう
ございました。インターネットには懐疑的であった私ですが、こうやって皆さんとの討論
の場に参加できることを感謝します。村本さん、お忙しい中、編集作業に追われて大変だ
と思いますが、お体に気をつけて頑張ってください。これからも更新を楽しみにしていま
す。

《編集者より》
多岐にわたるお話ですが、その中でいくつか特に私が共感を覚えたことがあります。その第一は宗教間の和解の問題です。ご指摘のように、エホバの証人は一貫して自分たちの宗教のみが真の宗教であり、それ以外はすべて偽の宗教であると教え、信じてきましたから、他の宗教と和解できることもなければ、そのような世界的な動きを常に軽蔑してきたことは、あなたのご指摘の通りです。そしてここにエホバの証人の大きな病根があると思います。歴史的に見て独善排他の教条主義の宗教はエホバの証人に限らず、カトリック教会やイスラム原理主義など多くの宗教が同じような立場に立ち、自分の立場を自賛して「神」との特別な関係を標榜すると同時に、それ以外の宗教を「異教異端」として排斥し迫害してきました。このような独善排他の宗教は歴史的に常に悲劇を繰り返してきました。十字軍や宗教革命、より最近ではパレスチナをめぐるユダヤ人とイスラム教徒の血みどろの戦い、そしてエホバの証人について言えば元証人に対する不当な差別と迫害などがあげられるでしょう。最近になって始めて、幾つかの大きな宗教同士が、いつまでもそのような対立と悲劇を繰り返すべきではないことに気づき、信仰の違いを乗り越えて互いの立場を尊重し平和に共存しようという動きを始めたことは、歴史的に見ても画期的なことと言えるでしょう。宗教の違いが今でも昔でも多くの悲劇の元となったことを考えると、いわゆる「信仰合同」のこのような動きは人類に希望を与えるものでしょう。しかし、ものみの塔指導者にはそこまで見る能力はないようです。彼らが自分達も世界の中に沢山ある宗教のほんの一つに過ぎないという現実を冷静に見定めて、他の宗教と仲良くしていくことを学ぶには時間がかかるようです。それはちょうど、わがまま一杯のお山の大将であった幼児が学校に入って他の子供といかに仲良く平和に共存して行くかを学ぶような過程と同じと言えるでしょう。その点で言えば統治体は老人性痴呆に陥りながらも、精神的成熟度ではまだ自分が世界の中心であると思っているお山の大将の幼児と同じ程度としか言えないでしょう。

もっとも最近は、興味あることにこれらの既成の大きな宗教とは和解できなくとも、いわゆる「カルト」「新宗教」と言われる団体とは連携をとってお互いの利益を守り合おうというCESNURの動きに参加しようというのですから、この「幼児」はまともな大人への成長をとげるのでなく、歪んだ幼児集団の一員になろうとしているのかもしれません。(CESNURとものみの塔協会の関係についてはこのページを参照して下さい)。

もう一つあなたのおっしゃることで共感を覚えるのは、将来に対する希望です。それは宗教指導者が勝手に作り上げた教義の希望ではなく、人々の努力の積み重ねへの希望です。それに付け加えれば私は人々の愛の力にも大きな希望を持っています。イエスも言ったように隣人への愛をいつまでも忘れずそれを第一にして行く限り、私は将来に計り知れない大きな希望があると思っています。確かに世の中の矛盾と悪はなくならないでしょう。しかしそれにもかかわらず人々に希望があるのは、宗教指導者が絵に描いた楽園の希望だからではなく、人々の愛と努力は必ず認められるという希望があるからだと私は思っています。信仰合同も社会福祉も医療の進歩も、すべてそのような希望が空しいものではないことを語っています。確かに貧困も、戦争も、疫病も、飢饉も完全になくなるわけではありません。歴史の全ての時代と同じようにこれらの悲劇は繰り返されます。しかし現代は、歴史になかったような人類同士の愛と助け合いが国境や人種や貧富の差や宗教の違いを乗り越えて起こっていることも確かなのです。ものみの塔のように「世の中はどんどん悪くなっている」と言いながら、実際には自分達の宗教を広める以外になにも世の中をよくする具体的動きに参加しない態度は、自分の行動そのもので自分の預言を成就しようとしている、日本の裁判にかけられているどこかの宗教指導者と共通するものではないでしょうか。そのうちに多くの人々がものみの塔指導者の矛盾に気づくことを私は祈っています。


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