真実を求め続けたいエホバの証人(お返事)

(9-19-00)

これは「真実を求め続けたいエホバの証人」より−その3の編集者の返事に対する返事です。

@聖書の解釈と「一日」の長さについて
 神が伝えようとしておられる解釈は一つで、人間はそれを模索しているために、い
くつもの解釈があるように見えるのだと思います。(コリント第一13:12) そ
して模索の段階の今、どの解釈を真実に近いものと考えるかは、結局、個人的な決定
ということになりますね。
 「一日」の長さに関しては、創世記2章と3章の記述から考えますと、神が「七日
目」を神聖にされ、休みに入られた後、アダムとエバの例の問題が起きています。そ
してそれ以後、現在までずっと世の中はドサクサしたままです。神が神聖にされ祝福
された「七日目」(創世記2:3)と、このドサクサの現実はどういう関係にあるの
か疑問でした。聖書には七日目までしか書いてありません。一日が24時間前後だと
したら、今は何百万日目ですから(仮に)、七日目まではいきさつが説明されている
のに、それ以後が梨のつぶてというのは非常にアンバランスだと思いました。エホバ
の証人から学んだのは、今も「七日目」の最中という解釈で、そうであればアンバラ
ンスは解消します。ヘブライ4:4〜8が根拠で、その聖句は七日目の休みがまだ残
されているという内容でした。
 前回、書かせていただきましたように、創世記の記述を比喩として解釈するなら、
このヘブライ4:4〜8も比喩的に解釈するしかありませんが、創世記を事実と確信
している者にとっては、この聖句は七日目がまだ終っていないことを意味します。そ
して、このままの状態で七日目が終ってしまうとしたら、神が七日目を祝福し神聖に
されたことは挫折してしまいます。イザヤ55:8〜11とも不調和になります。です
から七日目のうちに神は地球を祝福された状態に戻し、神聖な状態で七日目は終ると
いう解釈は、筋が通っていてとても納得できました。
 さらに、聖書の年代計算によってさかのぼるとアダムが造られたのは紀元前402
6年なので、また「七」は聖書の中では完全数なので一日は7000年と考えられ
る、マタイ24章やテモテ第二3章、啓示6章に出ている終わりの日のしるしとも調
和するという説明でした。「日」は区切りを表し、「七日目」は進行中というだけで
私の疑問は解決しましたが、一日は7000年という説明も否定できませんでした。
アダムが創造された年代計算には諸説あるようですし、誤差も見込んで一日≒700
0年としたほうがいいとは思いました。

Aエホバの証人の多くは「人間についている」ということについて
 「万一、統治体が『楽園は勘違いでした。神のご意志は死後の天国でした』と発表
したら、……多くの人は気持ちを切り替えてついて行くと思います」と言いましたの
は、“楽園への愛と感謝”でやっている人たちの中の多くの人という意味ですから、
エホバの証人全体の中の多くの人ということではありません。少数だと信じていま
す。神への愛と感謝ではなく、楽園への愛と感謝でやっている人は(そういう人がい
ると仮定して)、どこか勘違いをしているわけですから、組織を絶対視するという勘
違いもしている可能性があり、何を言われても神がおっしゃっていると勘違いして付
いて行くのではないかと思いました。

B楽園行きの列車を降りて、本当に正しい列車かどうかを確認する必要について
 @の冒頭の言葉と関係しますが、列車に乗る前に皆、それぞれ乗っていいものかど
うか吟味して決定します。エホバの証人も「楽園行き」と聞いて飛び乗っているわけ
ではありませんし、途中いろいろ確認している人が多いと思います。体調不良et
c.の理由で1週間、2週間休む人の中には、その間に確認作業をしている人が案外
いるのではないでしょうか。長年やっているほど、人間関係、タッキング、間違い、
無責任、官僚主義等々考える材料は沢山あるのですから、長年確認作業をしないで来
れた人は、今の若い人が言うところのいわゆる“天然”か、批判的な人たちが言うと
ころの“思考の停止”証人かのどちらかだと思います。確認作業をした結果、その度
に再乗車している人も多いのです。同じ列車に乗っているということで、外から見た
ら区別はつかないかもしれませんが、全員が思考の停止をしているわけではありませ
ん。前回も書きましたけれども、全体主義志向の人たちは確かにいまして、確認作業
なんて不敬、不忠節、不信仰。思考の停止=忠節と思っている人も高齢になるほど見
らるようです。でもその人たちは、そういう絶対的思い込み信仰だったから(?)拷
問や迫害に耐えられたのかもしれませんし、神がどうご覧になるのか、私などがあれ
これ言える問題ではありません。いろいろなタイプの人たちがいるのは当たり前なこ
とですし……。
 また、不完全な人間が集まっているのですから、絶対的に完璧な組織というのはあ
り得ません。不祥事の被害に遭った人たちには何と言っていいか、本当に言葉がない
のですが、相対的に見て、やはりエホバの証人の組織は不祥事が少ないと思います。
むしろ人の良い面を伸ばす点で優れていて、双方を天秤にかけるなら、良い点を伸ば
す実績の方が圧倒的重みを持っているということを実感します。ハルマゲドン呪縛で
良い人を演じている人もいるかもしれませんが、私の実感としては、神への崇敬の念
や感謝の気持ちが、各人の良い面を伸ばしているのです。前回、組織は良いことも沢
山していると言いましたが、そのトップはこのことです。他の教会でもできるとおっ
しゃるでしょうけれども、そういう霊的な力は抜群だと思うのです。いい人がエホバ
の証人なるというだけでなく、エホバの証人になってますますいい面が伸びるので
す。
 少数いるらしいどうしようもない長老や、平衡を欠いた親が身近な人たちを苦しめ
るという事実は否定しませんが、巡回訪問の話や集会の話で再三注意されていますか
ら、減ってきていると思います。

C組織はいらない、聖霊だけで十分ということについて
 イエスは弟子たちを羊にたとえていらっしゃいますし、集まり合うことは聖書と調
和したことですから、人数がふえたときにいわばクラス委員長(全体的責任者)が決
まり、各委員(分野別責任者)が決まり、係り(補佐)が決まって、クラス全員を世
話するための組織ができるのは自然の成り行きだと思います。インターネットでも集
まり合えるから、組織化しなくてもいいということも「論」の上では成り立つと思い
ますが、やっぱり人間には、実際に顔を見、声を聞き、雰囲気を感じ取れる友が必要
な気がしますし、聖霊だけで十分でしたら、一世紀のクリスチャンのあり方は矛盾を
示すことになると思います(使徒15:1-32、ヘブライ10:24-25)。
ただ、エホバの証人の組織が神権組織の名のもとに専制的、官僚的になることは止め
るべき「時」だと思います。ちょうど21世紀になるわけですし。 例えば集会に関し
ても、律法下では確かに命令でしたが、年3回のいわば大会に出席が命じられていた
のは男子だけでした(出エジプト23:14−17)。仮小屋の祭りにはみんなで喜
ぶようにと言われていますが、命令ではありません。よく引用される申命記31:1
2は、前の10,11節に明記されているように、7年に1度ある安息年のときの仮小
屋の祭りに関する命令ですから、家族構成を問わず全てを連れて遠路でも集まり合わ
なければならなかったのは、7年に1度でした。命令されていなくても自発的に妻子
と共に出席していた家族は多かったようですが、当時は全員が神権家族ですから、今
とは状況が違います。逆にいえば神権家族でさえ無理な出席はしなくてもよかったん
だと思うのです。「励まされる経験」として載っている記事を読むたびに複雑な気持
ちがします。安息日ごとの地域の会堂での集まりの方は出席しやすかったと思います
が、週1回の安息日だけでした。神権家族で週1回は本当に「軽い荷」だったと思い
ます。しかも当時は書物が普及していませんでしたから、集まり合って聞くことは今
以上に重要だったはずです。それでも週1回なのですから、エホバは決して負担にな
るような命令をされなかったことをつくづく感じるのです。任意に神殿に来ること
や、任意の集まり、あるいは必要に迫られての突発的な集まりは別の話になります。
未信者の配偶者が多いからこそ、信仰を強めるために週3回の取り決めは必要だとい
う説もわかりますし、取り決めること自体は非聖書的と言えませんが、それを神のご
命令というのはどうでしょうか。神は本当に命令しておられるのか疑問です。出席で
きる人はもちろん出席していいわけです。ちなみに私は全部出席していて、休みたい
から言っているわけではありません。もちろん毎日個人的に聖書を読んだり、定期的
に少しずつでも個人研究することは基本的前提です。

追伸 その2
 集会の件は、神のご命令というのならせめて週1回で、週3回というのはマタイ2
3:4になってしまうのではないかと思いました。集会は来ても来なくてもいいとい
う意味ではありません。念の為。 本当に無理な人、道理にかなった以上のことが求
められる状況の人には、組織の側(無理ではない人全てを含めて)こそが歩み寄っ
て、「指を動か」して、テープをとって持っていったり、交わりを通して交流したり
(今もしていますが)、いろいろな方法があるのではないでしょうか。そういうやり
方の方が、本来の律法下のイスラエルの状況に近いと思いますし、神のご意志と調和
した方法といえると思いました。自ら歩み寄られたイエスのお手本もそれを示してい
ると思うのです。これだけの大人数をまとめるのですから、取り決めに従うことを重
視するのも時として必要ですが、基本姿勢が違ってしまうと、形や言うことはともか
く、中身は神が意図しておられるものと全く異質な組織になってしまうのは必定で
す。

追伸 その3
 後からいろいろ思いつくものですから、こんな形になってしまいました。集会のこ
とから、関連して思ったことです。
 イエスが来られたとき、羊飼いに放り出された状態になっていた人達は、なぜそう
いう状態になったんだろうと考えますと、宗教指導者の作ったルールが神の律法と同
等に重視され、それについて来れなかった人達が置き去りにされたわけです。神の律
法は、病気の人や孤児ややもめ、母子家庭の人がついてこれないものではなく、族長
たちが援助して、ついて来れるものとなっていました。でも人間の作ったルールを基
準にし始めた当時の組織や組織を支持する人達は、ついて来れない人たちに歩み寄ろ
うとしませんでしたし、歩み寄る必要さえ感じませんでした。でもイエスは憤然とそ
ういう勝手な基準を作った指導者を糾弾され、置き去りにされた人達の中からふさわ
しい人達を集め、新しい組織を作られました。聖書と調和しないルール(暗黙のルー
ルも含めて)を作って、ついて来れる人は聖霊の援助をうけている人、神に是認され
ている人、ついて来れない人は聖霊の援助がない人=神の祝福がない人=努力が足り
ない、ふさわしくない人=神に愛されてない人という公式で、信仰や内面は神の基準
に達している人を疎外してしまう組織は変です。そしてそれを何とも感じないで愛や
忠節を語る支持者は怖い存在です。支持者あっての組織ですから、持ちつ持たれつ、
共同責任になるのではないでしょうか。会衆に部分的に見られる妖しい雰囲気、愛を
口にしながら、高々と無価値なプライドを持っている雰囲気は、そういうところに原
因があるのかもしれません。そういう人達がたいていトラブルメーカーになっている
ようです……。個人研究というのは調べものをするという外面的なものだけでなく、
もっと内面的な作業ですが、どうもそういう大切なことをしないで、奉仕時間や研究
生の数(結構そういうことは得意だったりするのです)、開拓者学校やMTSに行っ
たかどうかとか、著名とされている兄弟と親しいとか、ベテルは別格とか、そういう
何か恐ろしく表面的なことが主な関心事だったために、より重要なことに関しては新
しい人以下の意識しかないという場合もあるようです。にこにこしているけど、ご機
嫌を損じたら怖いですよー。人に気を使わせるし、全く“さわらぬ神にたたりなし”
でいたずらに近づかないのが知恵の道です。「バベルの塔」は「誇りの塔」でもある
わけで、気をつけなければなりません。古代の宗教指導者やそういう人たちは、悔い
改めれば見捨てられなかったのですが、プライドが高過ぎて自分が間違っていること
を認められず、あるいは直そうとせず、見捨てられてしまいました。組織はノアの箱
舟だからということで、入っていれば何でもかんでも許されるというのは全く聖書的
ではありません。ノアの箱舟の話は、ただ、真の意味で忠節な人を神は家族単位で救
う(ひどい人は家族でもだめですが)ということを意味しているだけかもしれません
よ(コリント第一7:14)。統治体は聖書と調和しないルールを作らないように、
また無思考に支持して改善の道をふさがないようにし、双方の協力で神のご要求と本
当に調和した組織にしてゆく責任があるのではないでしょうか。

《編集者より》
一日の解釈についてですが、あなたが詳細に書かれた込み入った計算は確かに魅力的な解釈で多くのエホバの証人が「分かった!」と思い込んで信じている見方ですが、これは幾つもある解釈の中のほんの一つで、他の多くの解釈と同じように、いずれ変更されるのではありませんか。あなたは「アダムが造られたのは紀元前4026年」と書かれていますが、これは「七日目」が24時間でなく現実と合っていないのと同様に、全く現実と調和していません。1万年以上前に既に現在の人類と同じ人々が、道具を作り建物を建てて生活していたことは無数の証拠から揺るぎ無い事実となっています。従って、4026年の解釈もまた、変えなければなりません。そこでまた別の解釈を出す必要が出てきます。今度は7000年を70000年にしますか。いずれにしても統治体指導者の脳みその中の限られた思い付きであり、これは堂々巡りになるのではないでしょうか。

私の見方では最も素直で道理的な解釈は、あなたも書かれたように聖書に書かれていることと今私たちが見ている現実とは調和していないように見えるが、それがどのように調和するかは神のみが知ることで人間の勝手で恣意的な解釈ではない、ということです。人間は不完全です、神の深淵な計画や真理を全て知り尽くすことは出来ませんし、出来ないのが当然であることは聖書自体に書いてあります。問題はある人が勝手な恣意的な解釈を作り上げ、たとえば1914年だとか1975年だとか特別な年を打ち出して、それがあたかも聖書に基づいた神の意志であるように宣伝し、それが間違いであるとわかると「人間は不完全」と言って開き直ることです。元々不完全であることは最初から分かっているのだから、どうして分からないことは分からないと素直に最初から言わないのでしょう。その理由は「地上の唯一のエホバの組織」という自称から来るプライドです。自分達が不完全であるというのは、間違いの言い訳の時に使われる表現で、間違いが発覚するまでは自分達がいつまでも正しく、批判者はいつも間違っているのではありませんか。

本当に正しい列車かどうかを確認する必要については、少なくともあなたご自身に関する限り、かなり確認作業をされているようですので、特にこれ以上申し上げることはありません。今後も確認作業を常に怠らないようにお願いします。

人が集まりあって交流すること、その集まりの中で人々の間に役割分担が出来ることは何も悪いことではなく、当然なことであることはあなたのおっしゃる通りだと思います。ただ人間が集まりあって組織化する時にはそれなりの問題が必ず生じます。人類の歴史始まって以来、聖書の記述も含め、いかに人間の組織が腐敗しやすいかは、注意深く歴史を分析すればすぐにわかります。「聖霊だけで十分でしたら、一世紀のクリスチャンのあり方は矛盾を示すことになると思います」とあなたは書かれていますが、まさに一世紀のイエスの時代とその直後から、既に組織の腐敗が始まっていることは聖書に書いてある通りです。そして歴史を通してその腐敗した組織に警告を鳴らし続けたのは、決して組織の指導者でなく、その外で迫害された人々でした。イエスはそのような「組織」の外にいて組織を批判し迫害された究極の存在でした。それ以後の様々な組織の歴史をみれば、ローマ教会でも、ソビエト共産党でも、日本の多くの政党でも、ものみの塔協会にしろ、すべては希望に満ちた出だしの後、長年のうちに腐敗の巣窟となっていくのではないでしょうか。私は教会にしろ会衆にしろ、人が集まり合うこと自体に何も反対はしません。ただ人が作った組織は単に交流の場、メンバーへのサービスに徹すればよく、人の作った組織に神懸かりの特別な権威と意味をつける時に、腐敗と独善主義が忍び込むのだと思います。

集会の回数に関して組織がもっと柔軟であるべきであるというあなたのご意見には全く賛成します。特に付け加えることはありません。

最後の「追伸その3」にあなたが書かれたことも、私は全く賛成です。あなたはそれでも「組織」にも多くの良い点があるとお考えのようですが、あなたは良い点と悪い点とを秤にかけて、今の所良い点の方が勝っているから組織についているのでしょうか。それとも「聖書と調和しないルール(暗黙のルールも含めて)を作って」真に個人として聖霊に導かれて生きている人々(組織の中でも外でも)を縛り付ける独善的権威主義の組織の存在そのものが聖書と調和しないとは思いませんか。確かにどんなに間違ったものでも一部に良い点はあるでしょうし、どんなに良いものでも一部に悪い点があるのは当然です。そのような細かな比較も大事かも知れませんが、もう一度聖書の原則に立ちかえって組織そのものを見直してはいかがでしょうか。