「私も真実をありのままに直視できるようになりました」−現役エホバの証人

(9-14-00)

はじめまして。現役のエホバの証人です。数年前までは熱心な開拓奉仕者でしたが、降りました。
自分で自分を欺こうとして必死になっていることに疲れたからです。私の会衆では露骨な不公正と
いじめがあります。数名の長老と、あろうことか巡回監督が加害者です。だれも巡回監督の権威には
逆らえません。あまりに露骨なので、自ら組織を離れていった人は合計二桁台をゆうに超えます。
その実数をみなさんが聞いてもきっと信じないだろうと思います。残っている人はみないじめの対象
になっていた証人を無視していました。私もその一人です。ものみの塔研究では、愛や気遣いについ
て勉強し、注解しておきながら実際の場面ではこの通りです。そういう注解はみな自分を顕示するために
行われていると言わざるをえません。

ある長老は牧羊の訪問に行ったさきで会衆の目立った成員や、他の長老の悪口を言っています。うそでは
ありません。信じがたいという気持ちはわかりますが、事実なのです。その長老はさらに信じがたいことに
聖書の知識のレベルはきわめて低いのです。また奉仕の面で熟練した奉仕者たちを冷や飯食いの処遇にします。
自分が安心できるようにするためなのです。こんな人間がなぜ長老という重責に推薦されたのでしょうか。
答えはきわめて単純です。推薦する側が同じ種類の人々だからです。ただ単に年齢とそれらしい風貌があれば
自動的に推薦されるのです。その結果、会衆のまじめな成員がどれほどいやな思いをするか、どれほど
エホバに幻滅するかということに、全く無頓着です。

私はかつては、エホバか事態を正されるのを待つと研究生に教え、ひどいことにいじめの対象になっていた
本人に何か隠された悪なり違反なり、未熟さなりがあるのかも知れないなどと言っていました。そう信じたか
ったのです。神の組織が間違っているなんて考えさえ及ばない発想でした。肉親がコンピューターを持つように
なり、私も使用するようになって、そしてこのHPに辿り着きました。ショックというよりも、「あぁ、そうか、
やはりこういうことだったのか」という感想でした。医療機関連絡委員会のメンバーによる報告にはさすがに
ショックを受けましたが・・。私が分からないのは、どうしてこれが社会的な問題として取り上げられないのか
ということです。村本さんはいつか日本の新聞にコメントを載せられましたね、輸血のことで。新聞社が村本さんを
知っているということは、このHPも知っているということです。当然ものみの塔協会のかつての指導である、
予防接種禁止の方針とその及ぼした影響も知っているはずです。これは犯罪にならないのですか。人権侵害に
ならないのですか。どうして宗教という羊の仮面を被っただけで容認されるのでしょうか。何か法律上のテクニック
があるのでしょうか。週間雑誌などは喜んでとびつく話題だと思います。「ものごとをありのままに見る長老」兄弟が
仰るように、賄賂がものみの塔協会から出て行ったのでしょうか。

探すのに苦労しましたが、例の札幌の集団背教事件の被害者(あえてこう言わせてもらいます)の側の訴えには
涙を禁じえませんでした。私の会衆のいじめられていた証人もきっとこんな気持ちだったんだ、と胸が引き裂かれた
ように感じました。ただ、「真実を求めたい証人」さんの投書に、それには外部の協会の牧師の差し金があったという
「うわさ」もお聞きになったということです。もちろんほんとうかどうか分からないということでしたが。
その投書でおもわず笑ってしまったのが、「組織から排斥されたことが、必ずしもエホバから排斥されてしまった
という訳ではない」というところです。もし本当にそのような陳述が協会の出版物に載ったのなら、協会は
自分たちをエホバの唯一の経路としては認めていないことになりませんか。なにもものみの塔協会に所属しなくても
良いのではありませんか。彼らの心のありかたを示すものだと思います。

レイモンド・フランズ氏の抄訳で腹が立ったのは、重要な教理が多数決で決められるという現実でした。また1914
年の教理に関する統治体のいくらかの成員の不誠実さです。重要な教理が統治体の承認が必要というのは「ふれ告げる
人々」の書籍で紹介はされていました。しかしそこで紹介されている、聖書の教理に対する真剣な態度と、影響力のある
統治体の成員が挙手すれば、彼ら影響力のある統治体の成員の主張が通るというのは全く趣を異にしています。後の方は
聖書の教えよりも彼らの信じたいこと、彼らの方針や解釈に都合の良いことを優先しているのです。これこそ
背教ではありませんか。何が何でも、自分たちの天へ行くという特権的な見込みを信じようとして、論理的な調査の報告書
(終わりの日 再考)を葬り、真実を知ろうとする人々を葬ったこのやり方には全体主義のグロテスクな恐怖を肌に覚えます。
近頃、ものみの塔の記事にねたみやそねみ、恐怖で人を引きとめようとする精神などがあからさまに論じられます。
あの統治体がよくあんな記事を承認したものだと思います。きっと執筆委員会の内部で「改革派」が頭角を現し
てきているのかも知れませんね。一般の会衆で、見て見ぬふりをされている醜い実態を指摘すると、不満の精神
にさいなまれているとか、消極的な精神だいう仕方で処理されます。批判的な意見を封じ込める、ファシストの
常套手段です。しかし、執筆委員会のような場所で、心の正直な人が指揮権を獲得するようになれば、こういう体質は
きっと解消するのに、と思います。

こうした問題は見て見ぬふりをしていてはならない、と私は思うようになりました。これが現実である、ということ
をふまえて、自分はこういう精神に染まらないようにしなければならない、と決意しました。そしてもし、また露骨な
いじめに遭うような人がいたら、今度こそその人の味方になってあげようと思います。間違いはあくまで間違いです。
例え組織であっても、です。事実を直視し、謙虚に事実を受け入れなければ、「理性による神聖な奉仕」というローマ人
の手紙の趣旨に反すると思うからです。

《編集者より》
どうしてエホバの証人問題が社会問題として取り上げられないのかという質問ですが、これには幾つかの理由があります。まず、日本やアメリカでは宗教を表立って批判することがタブー視されていることがあります。ヨーロッパの国々ではより自由な批判ができるようですが、日本やアメリカでは宗教がはっきりした犯罪行為を行ったり犯罪を幇助した場合(例えばオーム真理教)を除いては、いかに宗教がへんな行動をしようとそれは信教の自由で批判すべきではないという考えが、国民やマスコミの間に根強いようです。私はそれに対し、信教の自由は最大限に保護されるべきであるが、宗教を徹底的に批判する自由も同じように最大限保護されるべきであるという考えですが、今の所広い支持を受けるまではいっていません。

あなたが述べられた会衆内での腐敗とその放置、そして大量の脱退者の話は別の会衆についても聞いた事があり、嘘ではないと思います。あなたがこのような現実を見て自分の将来をどうするかは大きな課題です。簡単に断絶してしまう人もいますが、多くの人が様々な理由でそこまでは踏み切れません。私はそれはそれで仕方がないと思います。そのような人々は内部から腐敗に対して警鐘を鳴らし、内部批判と改革の提案を他のエホバの証人たちに様々な手段を通じて広めることをすべきだと思います。危険は伴いますが、あっさりとここで断絶してしまうより、内部から今の指導部の弱体化を図ることの方が、長い目で見てはるかに多くの人々のこれ以上の不幸を防ぐことになると思います。その後の進展を教えて下されば幸いです。