教会に行く気になれない元エホバの証人

(8-23-00)

こんにちは、悩み事相談と言うコーナーがあったのでメールを送ってみようと思いま
した。若いころからもともと聖書に興味を持っていました。そんな折、ドアをノック
し聖書のお話を丁寧に親切にしてくれる信者さん達に出会いました。その人達がもの
みの塔の人達でした。いろんな場面で不審に陥ったり疑問に思ったり、しながらも聖
書の教えはどれも同じだと言う気持ちから学びつづけました。でもどうしても納得の
いかないことがありましたそれは伝道と祈りだけに焦点を合わせた教えについていけ
ずに出るけついをしました。もちろん洗礼を受けていました。でも長いこと脅迫観念
におされてなかなか抜け出すことが出来ませんでした。そんな時立ち寄った本屋さん
で見つけた三浦綾子さんの本の中に、ものみの塔や統一教会で悩んでいる人はすぐに
近くの教会へ行きなさいと言う、メッセージがあり本当に谷へ飛び降りるような決意
で、近くの日本キリスト教団の礼拝に参加しましたとても快く受け入れてくれたので
すが何回か通っているうちに、ものみの塔の信者であった事を告げると、慰めや励ま
しや抜けてきた勇気ではなく攻撃の言葉を浴びせられました。私はわらをもすがる気
持ちでしたので、何とかして頂きたい旨を伝えたら、それより洗礼の教育が始まりま
した。私としてはそう言うことではなく気持ちを癒されたかったのですが、牧師はそ
れが一番とのお話で来訪より何ヶ月もしないうちに洗礼を受けることになりました。
そしてその日のうちに仙台へ転勤となりました。そして紹介された教会へ行ったので
すが、その教会の中では牧師派とアンチ牧師派のふたつに信者達が分かれておりそれ
ぞれに口もきかない状態で、どちらともつかない信者達は右往左往していました。そ
んな中1年程、教会へ通いましたが、だんだんと行く気もなくなりました。そうこう
しているうちに牧師よりその教会からの退会の通知が一枚送られてきました。それ以
来、12,13年教会へは行っていません。私の中には、ものみの塔で叩き込まれた
信仰が今でも強く根づいているのを感じます。いまはそれを冷静にふるいにかけてい
るところです。家で聖書は読んでいますがどうしても、教会へ行く気にはなれないの
です。聖書には集い会いなさいと言う言葉があり、それが時々、私を苦しめます。誰
かにこの長い苦しみを聞いていただけたらと思ってメールをしました。

《編集者より》
まず最初にお断りしますが、ここは「悩み事相談と言うコーナー」ではありません。この編集者は悩み事を相談して解決のためのアドバイスができるという自信も責任もありませんので、どうかこの返事はあなたの悩み事を解決できるなどという期待を持たないで下さい。

さて、あなたはエホバの証人に納得がいかないだけでなく、既存のキリスト教会でも自分の信仰を強められる体験を出来なかったようですね。多分一般的に宗教団体というものに幻滅していられるのではないでしょうか。私はそういう方々の問題は、元エホバの証人に限らず、「宗教」あるいは「団体」に無理な期待と幻想を抱いていることにあるのではないかと思います。もちろんそのような「幻想」はエホバの証人の場合、「唯一の地上のエホバの組織」として「妄想」に近くなっていますが、既存のキリスト教派の中にも多かれ少なかれ、組織あるいは団体の至上主義的な所があります。あなたが仙台の教会で目撃した権力争いもその一つの典型的な現われでしょう。その現実を冷静に見られる目があれば、宗教団体に対しての無理な幻想や妄想はなくなるでしょう。

私は宗教団体は単なる同じ信仰を持った人々のグループであって、それ以上の意味をつけるべきではないと思います。それに属するか属さないかによって、個人の信仰が左右されるとは思いません。「聖書には集い会いなさいと言う言葉があり、それが時々、私を苦しめます」と書かれていますが、これはものみの塔がエホバの証人を集会に動員する殺し文句で、あなたは未だにエホバの証人として叩き込まれた考え方から抜けきれないようですね。もちろん、あなたが好きなグループがあってそこに集まることがあなたの信仰の助けになるなら、是非教会に行かれることを勧めます。しかしあなたが納得できず、興味も心の安らぎも感じられないグループなら、「集い会いなさい」という命令を文字通り守るためだけに教会へ行くのは賛成できません。特に現代のように通信の手段が信じられないような進歩をとげて、世界各国の人々と隣人と同じように「集い会う」ことができるようになった現在、ただ歩いて集まれる距離にある人とだけ「集い会う」ことにどれだけ意味があるでしょうか。一つの建物だけに集まれる人だけと「集い会う」のも一つの方法ですが、インターネットを通じて日本中、世界中の同じ信仰を持つ人と「集い会う」のも同じように意義のある集い会い方であると思っています。もし今、インターネットで私が付き合っている世界各地の人々と関係がなくなり、ただ地元の半径何十キロ以内の人とだけしか関係が持てなかったらどうか、と考えると「集い会う」という意味も時代によって変わっているのではないか、と感じざるを得ません。