「私自身が見たエホバの証人の悲劇」−元証人より

(8-1-00)

「幸福な家族生活を送りたいと思いませんか」。
エホバの証人が家々を伝道する際によく用いる紹介の言葉である。

しかし、本当にエホバの証人から聖書の教えを受けて家族生活が幸福なものに
なるかと言うと、それは残念ながら不幸せの結果になることがあまりにも多い
ことを、世間の皆さんに知っていただきたく今回投稿させていただきました。

確かに、聖書の教えは良いものです。聖書の教え通りにしていれば、ある程度
家族生活は改善し、ある程度の幸福感を味わう事ができるでしょう。
しかし、エホバの証人の一員となると、話しは違ってきます。
それは「ものみの塔」という組織に縛られて生きることを意味し、家族は崩壊
し、子どもはもちろん、場合によれば本人自身も精神的な病を背負うケースも
あり、その他様々な強烈な「重荷」を背負って生きていかなければならない事を
意味するのです。

ですから、もしこれからものみの塔の教えを受け入れて、エホバの証人になろ
うと考えている人がいるなら、よくよく考えてから決意していただきたい。
それらを納得の上で、それでも受け入れるのは、それは信教の自由に属するも
のです。

では、長年エホバの証人としてやってきた、私自身がこの目で見てきた「エホ
バの証人の悲劇」を幾つかお話しして見ましょう。

●家庭の崩壊。

ものみの塔には、一般常識では考えられない様々な規則が山ほどあります。そ
れが未信者の配偶者との摩擦となり、やがて家庭崩壊へとつながっていくので
す。
実際私が見てきたケースでも、荒唐無稽な教えを受け入れられない未信者の配
偶者を選ぶか、それともエホバを選ぶかとなった場合、組織は間違い無くエホ
バを選ぶ事の方に圧力をかけ(これを彼らは「励まし」という)、泣く泣く離
婚に至った家庭を何組も見てきました。
反対する家族を「サタン」と彼らは教えるのです。そうすると、サタンからは
逃げ、エホバを選択するようになるのです。

しかも、その後の彼女たちの生活が悲惨を極め、まず経済的な貧困、離婚に
至ったと言う負い目から来る精神的な不安定さ、子どももその影響を受けて鬱
傾向を示すか、引きこもりになってしまうか。そんな状態の中でも、組織は
「宣べ伝えること」や「週五つの集会」に出席することを強要するので、多大な
疲れから「燃え尽きて」しまう人が後を絶ちません。

これは、決してものみの塔を誹謗中傷するつもりで述べているのでは有りませ
ん。私が見てきた事実をありのまま述べているに過ぎないのです。


●子ども達が抱える問題

親がものみの塔の信仰を受け入れて、エホバの証人になった場合、ほとんど子
どもにもその宗教を押し付ける事になります。なぜなら、ハルマゲドン、世の
終わりを強調するので、親は愛する子供を何とか生き残らせたいという一種強
迫観念みたいなものを植え付けられるからです。また、子どもにしっかりと宗
教教育を施すことが模範的なエホバの証人の条件の一つとなっていることもあ
ります。

私が見てきた子ども達は、子どもらしい伸び伸びとした生き方が出来ず、返っ
て裏表のある生き方をする子が多くいました。これは、その子に責任があるの
ではなく、そうせざるおえない状況に追いこんでいるものみの塔の教えにある
のです。ここにも、やはり荒唐無稽な教えの犠牲者としての子どもが存在して
いるのです。

特に胸の痛むこととして、親に従う事とものみの塔の教えを受け入れられない
その葛藤に悩んで、
また、伝道や集会出席の圧力に耐え切れなくなって、精神的に不安定になって
しまう子や鬱病になってしまう子など、本当に悲しくやり切れない子ども達の
ケースを多々知っています。
中には、薬に頼らざる負えない状況の中で思わぬアクシデントに遭遇し命を落
としてしまった若者もいるのです。直接的にではなくても、間接的にものみの
塔の教えは、子ども達を追い詰めている事実を是非知ってほしいと思います。
この点も、ものみの塔の綺麗ごとだけではなく、ありのままの状態を正しく多
くの人に認識してほしいと思います。


●所属する会衆の問題

エホバの証人になれば、かならずどこかの会衆に属する事になるわけですが、
そこでの所属にまた問題が生じる事が多々あります。
ものみの塔は自らの事を「愛の組織」とか「素晴らしい組織」と自画自賛してい
ます。
確かに個々の人は良い人が多いです。純粋で親切な人も中には多くいます。

しかし、この中でやっていこうとする事はやはり大変な事を意味するのです。
会衆には長老がいます。絶大な権力を持っています。中には支配的な独裁者み
たいな長老もいて、それは大変でした。個々の成員の中には彼らの機嫌を取る
ために贈り物をしたり、おべっかを使ったり、反対に全く嫌われてしまい長年
無視されつづけたり、あからさまないじめの対象となってしまったり、それは
それは見ていて辛く気の毒なものでした。
自分はそんな目には会わないとか、賄賂はしないとしても、それでも横でそれ
らの事を見るのは楽しい事ではありません。組織は公平な組織と言うかもしれ
ません。しかし私が見てきたかぎりでは決して公平ではありません。やはり、
資力のある人、世の教育のある人、社会的に高い立場にある人などがよく用い
られ重宝されています。それ以外の人達は、いわば雑役婦ぐらいにしか見られ
ていないのです。

さらに、エホバの証人になればゆったりとした幸せな時間が過ごせるかと言う
ととんでもない。
「さらなる上の地位」を目指して、朝から晩まで伝道活動に狩り立てられるの
です。実際私がいた会衆でも、奉仕会で、また大会で、あるいは巡回訪問で
人々に会うためには正規開拓奉仕や補助開拓奉仕、さらには早朝の奉仕や晩の
奉仕までもが勧められていました。「勧める」というもんじゃないですね。半
強制的でした。会衆の長老達も巡回訪問のたびにチェックされるので、様々な
取り決めを設けて、会衆の成員に支持するように強制するのです。
ものみの塔が勧める、これらの事(伝道や集会の出席)を従順にこなしていく
と、間違い無く疲れてしまい、中には体を壊してしまう人や圧力に打ちひしが
れてしまう人もいるのです。

私が感じた一つの事は、組織は盛んに個人研究を強調します。毎日の日々の聖
句を討議する事、毎日聖書朗読する事、週五つの集会の予習、「これでもか、
これでもか」といった感じで、やるべき事を指示してきます。その時感じた事
は、そこまでしなければ、信者をコントロールする事が出来ないのかと言う事
です。自分で考える余裕が全く無く、組織の言う事をそのまま右から左に受け
入れるしかない状況に追い込まれてしまうのです。これでは、自らの意思を
持って信仰に生きるのではなく、操り人形です。手足に糸が付いていて、上で
ものみの塔が操っている人形とちっとも変わりません。実際、仲間の姉妹たち
は、ほとんどどんな事でも自分で考える事をしなくなり、日常のちょっとした
ことでも、長老の指示を仰ぎに行ったり、仲間内の影響力の強い姉妹にお伺い
に行くのです。
全くの個人的な事でもそうするのです。一家の主人に相談するのではなく、仲
間の信者の意見が大切になってくるのです。

組織の言う通りにしてきて、幸福になるはずだった大切な家庭を壊してしまっ
た人、自分の体を壊してしまった人、疲れ果ててしまった人、燃え尽きて今で
は白け切った態度で集会だけ参加している人。子どもの大切な人生を誤らせて
しまった人。鬱傾向や引きこもりになってしまった子どもに悩んでいる人、子
どもを亡くしてしまった人…。
会衆内の信者同士のねたみや争いに悩んでいる人、保険や年金をかけてこな
かった人、所得が少ないと言う事で国民年金の支払い免除申し立てていなが
ら、しょっちゅう海外旅行を楽しんでいる優雅な独身開拓者、そして終わりが
間近いということで家を建てなかった人、反対に家を購入してねたまれている
人・・・、その他たくさん有ります。
それでも、それらの人達は組織を恨む気持ちがほとんどないのです。これは重
要な点として、ものみの塔の巧みなマインドコントロールの恐さをまざまざと
表すものです。

これらが長年にわたって私が観察してきた事実です。決して法螺や誇張ではあ
りません。
これらの実態をきちんと理解した上で、それでも、ものみの塔の教えやエホバ
の証人に惹かれて入信されるのは、それはその人の自由です。誰も止めたりは
出来ないでしょう。

もちろんこれですべてではありません。もっと書きたかったことや、具体的な
説明の必要な部分もあります。書いているうちに、記憶が蘇ってきて次から次
にいろんなことが思い出されましたが、長くなると読む人が大変です。

しかし、私には長年この組織に在籍していた者として、世間の人達に、ありの
ままの状態をお知らせする責任があるのではないかと思い今回投稿させていた
だきました。

《編集者より》
長年のエホバの証人としての身を持った体験に基づいた貴重な忠告であると思います。今、エホバの証人に関心があり、その宗教に惹かれている方々にぜひ読んで考えていただきたい事柄です。

「裏表のある生き方」をする人がでるのは、人が背負いきれないような重荷を課せる宗教に共通のものだと思います。その規則や律法の重荷を耐えられなくとも、それから逃れる事が出来ない時、人は何とかして抜け道を探す事になります。エホバの証人の子供たちがそうなるのも当然でしょう。ものみの塔の規則はものみの塔誌や目ざめよ誌、王国宣教などの形で上から下へ一方的に下ってくるもので、それが奉仕の時間でも、集会の回数でも、医療上の決定でも、全ては服従しかなく、自分の心の自由を持たない人々には必然的にこのような悲劇が生まれるのでしょう。彼らは、神が一人一人の心に書かれた律法を持つ(ヘブライ10:16)のでなく、組織によって紙に書かれた規則を持っているからです。

それではなぜこんな悲劇の繰り返される宗教に多くの人がとどまっているのでしょうか。それは、聖書に書かれた希望が組織への希望にすりかえられ、どんなに不完全でもこの組織にしっかりついていれば希望があるという、組織によって巧妙に作り上げられた幻想が支配するからです。これをマインド・コントロールと呼ぶかどうかは意見の分かれるところでしょうが、どのように呼ぶにせよ、出口のない堂々巡りの思考の世界に閉じ込められていることだけは確かだと思います。