「真実を求め続けたいエホバの証人」より−その3

(7-22-00)

@ 神への愛 or 楽園への愛?
  聖書が述べている最終的な希望は「天の政府と地上の楽園」と考えることと、
「神への愛か楽園への愛か」という問題について書いてみます。
 もし、創世記に書かれている天地創造やエデンの園の話を神話とか比喩と受けとめ
るなら、聖書が述べている「救いの希望」や「回復の時」というのも象徴的な意味と
なりますが、あの記述を事実として受けとめるなら、「救い」や「回復」の最終的な
意味は地上の楽園を意味することになります。創世記のあの記述をどう受けとめるか
に、すべてはかかっていると思うのです。私に関して言えば、あの記述は「事実」だ
と思っています。表現が非科学的なのは、事実をいわば子供向けに説明しているため
であって、「日」(一日目、二日目……)も時間を意味しているのでなく、区切りを
意味した子供向け表現だと思っています(一日は7000年かもしれないし、7050年かも
しれないし、7100年かもしれない、あるいは全然違うかもしれません。聖書に書いて
ないことなので成就した時に本当のことがわかると思います)。科学の長足の進歩に
よって、一層多くの人が、あの一見幼稚な記述に秘められていた科学性を理解できる
ようになっています。 例えば×印が点在している紙を見て、科学を感じる人はいま
せんが、科学の発達によってある物質を振りかけたら超高度な化学式が見えてきたと
いうのに似ているかもしれません(今一ついい例えではありませんが)。天の政府に
ついても、あって不思議はないと思います。人間が宇宙に存在して、このような文明
を作っているのと同じことですから、人間以外の存在がどこかで同じようなことをし
ていても「奇跡」とか「ばかばかしい」と騒ぐ程のことではないと思うのです。それ
で、「天の政府と地上の楽園」が聖書の述べている最終的な「救い」「回復」だと私
は思っています。統治体の説明に賛同なのです。(1日=7000年は断定できないと
思っていますが)。
 でも、そう信じることと、「楽園の希望がないと恐怖」とか「本音は楽園への愛
で、神への愛は建て前・カムフラージュ」ということは別問題です。この前も書きま
したように、楽園に入る前に、事故や犯罪や病気で死ぬ可能性は大きいのですから、
「生きて楽園に入る希望がなくなる恐怖」というのはありません。また死んでしまえ
ば眠っている状態ですから、復活できなくて眠り続けることになっても怖いというこ
とはありません。生きたまま楽園へ入れればラッキーくらいには思っていますけれど
も……。また、本音は楽園への愛、楽園への感謝なのに、自己欺瞞で自分は神を愛し
ているとか、神に感謝していると思い込んでいる人はいるかもしれません。でもそれ
は当人にしかわからないことですし、当人でさえわかっていない場合もあると思いま
す。
 万一、統治体が「楽園は勘違いでした。神のご意志は死後の天国でした」と発表し
たら、「楽園への愛と感謝」でやっていたある人たちはやめるかもしれませんが、多
くの人は気持ちを切り替えてついて行くと思います。この組織の魅力は「楽園の希
望」だけではないからです。でも私の場合はハムレットのように(?)苦悩します。
先ほど書いた理由で、神のご意志は地上の楽園を回復することだと確信しているから
です。真実を求め続ける姿勢を貫きたいと思えば、ついて行くことができないことに
なるわけです。
 初めは楽園行きの切符を買ったつもりでも(新しいときは多分みんなそういう気持
ちじゃないかと思います。それは認めます)、なかなか着かない列車に乗っているう
ちに、いろいろなドラマや展開があって、もっと大切なことを教えられるのです。な
かなか着かないからダマされたと思って途中下車するなら、とても残念だと思いま
す。また、自分が死ぬ前に着かなくてはいやだという考えの人がいるとすれば、困っ
たことだと思います。なかなか着かない列車でも、いつかは必ず「着く」と聖書は
言っているので、神が「乗っとれ」とおっしゃっている間は乗っていればいいと思い
ます。時々わがままを言いたくなる気持ちはエホバもイエスも十分理解してくださる
かもしれませんが……。乗っている間に本当にいろいろなことをわからせてください
ます。着かないことばかり気にしていると、せっかく教えてくださっていることに気
付かないかもしれません。ただ、いつ着くかわからないので、生活設計はきちんとし
ておいた方がいいと思います。
 
A 組織の外に救いは……?
  成就してみなければわかりませんが、あり得ると思っています。統治体も厳密に
はそう思っていると思います。以前の何かの記事で、「誰が救われて誰が滅ぼされる
かは神にしかわからない」と言っていました。滅びに値する人は、故意に罪や肉の業
(ガラテア5:19-21)を繰り返す人と、聖霊を冒涜する人で、それ以上のことは書
かれていません。組織の外に出た人が聖霊を冒涜していることになるのかどうかな
ど、心を読めない人間が境界線を引くのは神を踏み越えた行為になると思います。も
し、組織を離れた人を自動的に聖霊を冒涜した人とみなす人がいるとしれば、人間を
キリストより上にしている以外の何ものでもありません。イエスでさえ、「私を冒涜
することは許されますが、聖霊を冒涜することは許されません」とおっしゃったので
すから……。聖書を読んでいる人であればそんな考えは超僭越だとすぐわかるはずで
す。でもそう言えば、大分前の奉仕会で、「長老に反抗的な人は聖霊を冒涜すること
になる」というトンデモ発言をした会衆があったと聞きました。単なる聞き違いか、
聖書を読んでない兄弟の恥ずかしい発言かのどちらかです。事実だったら残念なこと
ですが、今後の成長に期待したいと思いました。
 「組織を出ること=滅びの道」という公式を協会が出すのは、世の中が余りに腐敗
していて、組織の外へ出るなら、コリント第二6:9-10とか、先ほどのガラテア5:
19-21で述べられているような道へ踏み込んでしまうことになる、1人で頑張ることは
ほとんど無理なので、「組織の中でもいろんなことがあるかもしれないが、出るな
よ」という、親心だと考えています。「滅びる」「滅ぼす」とエホバ神や組織が言う
のは、昔、親がワカランチンの子供に「そんなことすると地獄で閻魔さんに舌抜かれ
るよ」と言ったことと似ていると思うのです。本当にそんなことを望んで言っている
わけではありません。立派に育てたい、立派になってほしいという親心から出ている
言葉だと理解しています。人間は子供の頃からずるいところがあるので、最近のよう
に「ほめて育てる」という方法だけで果たしてうまく子育てができるでしょうか。素
質のいい子は別にして、普通の子はアメとムチを上手に使わないと手に負えないとき
もあるように思います。これから、「ほめられてあたりまえ。ほめられないとやる気
をなくす」とか、「ちょっと注意されたらキレる」大人が増えなければいいと思いま
す。ガラス細工の人間社会も息苦しいものだと思います……。
 脱線してしまいました。本題に戻りますと、ひどく機械的に、組織=神の側、組織
外=サタンの側と考えているエホバの証人もいると思いますが、ごく少数ではないで
しょうか。ほとんどの人は頭か心のどこかで、もっと柔軟性を持っている気がしま
す。古参の兄弟姉妹で、子供の頃、全体主義的教育を受けた人は、100%そう思って
いる人もいるかもしれませんが……。
 集会でこの種の注解をする人も、そう思わなくてはいけないと思っている程度だと
思います。どうしてそう思うわなくてはいけないと思っているのかはわかりません。
多分、統治体が「エホバの組織」と「サタンの組織」の二つしかない、あっちでなけ
ればこっち、こっちでなければあっち、と神は見ておられるような書き方をしている
からかもしれません。その根拠としている聖句はコリント第一10:20-21やマタイ
12:30ですが、聖書を読んでいる人ならば、コリントの聖句は偶像崇拝(金銭崇
拝、物崇拝、自己崇拝、人物崇拝等々各種ありますが)のことを言っていることや、
マタイの聖句とは逆も成立するマルコ9:40、41の言葉もかんがみて判断します
から、柔軟性のない仕方でそういう記事を理解しないと思います。
 統治体が言っているように、組織化した集団としては二種類だけでも、組織化され
ていない人たちで、神の目に「OK]とされる人はいると思います。だからこそ、記
事にも「誰が滅びて、誰が滅びないかはエホバがお決めになることで、私たちが決め
ることではない」ということが出るのだと思います。偶像崇拝(各種)にかんする
「エホバの食卓」と「サタンの食卓」は、先ほど言ったことと重複しますが、組織を
出て「サタンの食卓」から離れていることは非常に難しいですし、もちろん二つから
同時にいただくことは矛盾を来して不可能なので、再三注意されているのだと思って
います。でも、組織を出た人が全部、自動的に「サタンの食卓」でいただくことにな
るわけではなく、そうでない人もいる可能性はあると思います。
 聖書は自由な観点から読み、出版物は参考にする。補足し合うところを補足しなが
ら読むという姿勢が基本だと思います。聖書も出版物もゴチャゴチャで(頭から同一
視するような)、聖書の言葉なのか出版物の言葉なのかも区別できない取り入れ方を
すると、ちょっといびつになってしまうこともあるかもしれません。出版物に時々見
られる「裁き人」的要素や「早とちり」的要素は、聖書によって調整できますし、聖
書にある「なぞなぞ」的要素は出版物でヒントを得るという風に、互いの欠点を補足
する読み方をすればいいと思います。

追伸
 先回は気遣いして下さり、ありがとうございました。

 また、「組織外に救いは?」のところで、ゴチャゴチャ書きましたが、紙面(?)
の無駄だったような気がします。「神のみぞ知る」の一言で終ることで、成就すれば
はっきりわかるのですから。「神のみぞ知る」分野を人間がいろいろ推理しても、結
局は時間と労力の無駄なのです。エホバは知的好奇心を人間に与えてくださいました
が、霊的なことに関しては1歩間違うと「人間のおごり」になってしまいそうです。
気をつけないと……。
 こう書くと「統治体はおごってきたと思いませんか」と言われそうですね。間違い
をしたことはあっても、それがおごりかどうかとか、連帯責任なのか個人責任なのか
とか、諸々は神だけが判断できることでわかりません。私などが間違って大口をたた
くのとは違って、良いことも沢山していますし、体質改善して存続させるのではない
でしょうか。

《編集者より》
あなたはまず、聖書の解釈はただ一つではないということを認めていますね。一日がどれだけの長さを表しているかさえわからないとすれば、かなり多くの事がわからない、あるいは一人一人の解釈によって異なることにはなりませんか。そもそも「一日」と書いてあるのにいきなりそれが7000年かもしれない、などという突拍子もない解釈をするのは、余程書いてある事を捻じ曲げなければなりませんね。あなたが私に手紙を書いて、あなたの仕事が一日で終わりました言った時、私がそれでは7000年かかったのですねと言ったらあなたは私が気が狂ったと思いませんか。あなたは「一日は7000年かもしれないし、7050年かもしれないし、7100年かもしれない」と書かれていますが、なぜそんなに7000年にこだわるのですか。もし一日と書いてあってそれがはっきりしないのなら、「一日は23時間かもしれないし、25時間かもしれない」と考えるのが素直な考え方ではありませんか。あなたが7000年にこだわるのは、それがものみの塔協会の打ち出した聖書解釈の理論であり、あなたは聖書の文章を中心にして考えるのではなく、ものみの塔の理論を中心に考えているだけではないでしょうか。

  あなたは、「万一、統治体が『楽園は勘違いでした。神のご意志は死後の天国でした』と発表したら、「楽園への愛と感謝」でやっていたある人たちはやめるかもしれませんが、多くの人は気持ちを切り替えてついて行くと思います」と書かれていますが、この見方には私も同感です。多くの証人は、統治体がなんと言おうとその内容で判断するよりも、統治体、あるいは組織に何が何でも従うことが最終的な希望であり、目的であり、「真理」なのではありませんか。つまり、簡単に言えば神についているのでなく、「神の組織」と(自分で)言っている人間そのものについているのではありませんか。

「楽園行きの切符」のたとえは非常に的を得たたとえだと思います。もちろん乗っている列車が目的地に向かっているのかいないのかは、ただ列車に乗ってその列車(の運転手)をひたすら信じていてもわかりません。多くの人は途中の駅で降りてみてホームにいる人に聞いたり、別の時刻表や旅行案内と列車の走っている場所とを照らし合わせて、確かに間違った列車に乗っていないことを確認するものです。あなたはそのような努力をしたでしょうか。それとも「列車に乗っているうちに、いろいろなドラマや展開があって」列車の内部でのことに気を取られてそのような確認をしていないのではありませんか。あなたは「神が『乗っとれ』とおっしゃっている間は乗っていればいいと思います」と言いますが、神が間違った列車に「乗っとれ」と言うはずはありませんから、自分が今乗っている列車が本当に「神が乗っとれとおっしゃた」列車であることを確認するのはあなたを含めた一人一人の責任だと思いますが、いかがでしょう。もしあなたが偽の運転手の運転する間違った列車に乗っているのに、列車の中のことに気を取られてその列車が本当に「神が乗っとれとおっしゃた」列車であることを確認せずに乗り続けていたら、神はあなたになんと言うか考えてみて下さい。私は、神は「常に目を覚ましていなさい」という言葉をあなたが無視して、自分の列車を確認せずに乗り過ごし、列車の中でのドラマに気を取られていたあなたの責任を問うと思いますが、いかがでしょう。

前回のあなたへのお返事にも書きましたが、組織の外にも救いがあるというあなたの見方は、非常に重要なことです。正直に言って、私も「誰が救われて誰が滅ぼされるかは神にしかわからない」と思います。従ってエホバの証人であっても神が滅ぼす人もいれば、エホバの証人にならなくとも、あるいはエホバの証人をやめたり反対した人でも神が救う人はいると思いますがいかがでしょう。もし神の判断がその個人個人の状態によるのであって、ある組織に属しているかいないかで決まるのでないとすれば、なぜこれほどに組織が重視されるのでしょう。あなたは「1人で頑張ることはほとんど無理なので」「親心」から組織を強調しているという見方をしていますが、これは本当に聖書の見方でしょうか。あなたのおっしゃるように、個人個人は確かに弱いものです。それでは聖書は、個人では間違いを犯しやすいから組織に入りなさいと言っているでしょうか。いいえ、神はそのような弱い個人に対して組織でなく別のものを与えて下さいました。その答えは「そしてわたしは父にお願いし、父は別の助け手を与えて、それがあなた方のもとに永久にあるようにしてくださいます。それは真理の霊であり、...あなた方はそれを知っています。それはあなた方のもとにとどまり、あなた方のうちにあるからです。」(ヨハネ14:16,17)の中に見られます。イエスもパウロも当時の「組織」に属さない、社会の下層の人々や異邦人に救いを与えましたが、それは組織に属さなくとも聖霊が個人の「うちにあって」導いてくれるからです。確かに個人個人の選択や行動は違います。しかし神から出た聖霊が個人個人にあったように導いていてくれるとしたら、どうして人間の組織がそれらの人々を人間の規則で縛る必要があるのでしょうか。

私はあなたとの対話を非常に有益なものと考えています。あなたが最後に書かれた「神のみぞ知る」の一言も全く同感です。またお便りを下さい。お待ちしています。