(5-20-00)
こんにちは。 はじめまして! John(仮名)といいます。 私は現在18歳ですが、小学生のころ母親に連れられて、 ものみの塔の集会や大会に幾度か参加させて頂きました。 私は父親の反対もあって中学の頃からは、ものみの塔からは離れています。 時々書籍を頂いて読むことはあるのですが、最近では集会および 大会に参加することはほとんどなくなってしまいました。 将来的に自分の意志をしっかりと持ってから、自分の意志で ものみの塔の真理につくかどうかを決めたいと思っています。 題名にもある通り、偶像崇拝についてのものみの塔の定義をお聴きしたくて、 Mailを書かせていただきましたが、御回答をいただければ光栄です。 <以下質問内容> 先日、母と二人で洋服を買いに行きました。 そのとき私が欲したTシャツは、絞り染めのきれいな模様のものでした。 その模様自体何の問題も無かったのですが、よく見るとその模様の上に 十字架がプリントされていました。 それに気づいた時点で、母はそのTシャツを買うことを嫌がり、 私はそのTシャツをあきらめざるを得ませんでした。 母の嫌がる理由としては、やはり十字架が印刷されているのが、 偶像崇拝に当たるということでした。 母の言いたいことはよく分かりますが、どうも納得がいきません。 (ここで、母が信者でないぼくに信仰を強制させたという問題は置いといて 偶像について考えたいのですが) 今の世の中では、十字架というものは、過去の定義とは変わってきている のではないでしょうか? 確かに、昔は十字架は崇拝の対象でしかなかったものですが、現在では、 ファッションの一つとなっています。 街では、十字架を身に付けた人を大勢見かけますが、彼らすべてが、 十字架を崇拝しているわけではなく、ファッションとして身に付けています。 →→崇拝の意図がない場合でも、崇拝対象となり得るものは、 →→偶像崇拝に当たるのでしょうか? たとえば、ヒンドゥー教などの宗教では動物が神であり、動物を崇拝します。 もし、私たちが動物園に行けば、または、ペットを飼ったり、 そのぬいぐるみを持っていれば、たちまち偶像崇拝となってしまうのでしょうか? 確かに、十字架が宗教道具でしかないという定義の下では崇拝ですが、 十字架がファッションでもあるという定義の下では、 それを崇拝と決め付けることはできない気がします。 <以上質問内容終わり> 長文および駄文となって読み苦しいかとは思いますが、 読んで御回答を頂けたら、と思っています。 よろしくお願いします。
《編集者より》
私はあなたの十字架と偶像崇拝に対する見方に全面的に賛成します。従って私からは何の反論もありませんし、この質問に答えるべきなのはエホバの証人でものみの塔協会の十字架と偶像崇拝に関する教理を信奉している人々でしょう。私がエホバの証人の立場に立ってこれに対する返事を考えるとすれば、それはエホバが嫌っていたものだから、たとえ現在崇拝の対象になっていなくても避けなければいけない、という論理です。ものみの塔協会はよく、「エホバの気持ちになってエホバの嫌っていたものを嫌う」という教えを行ってきました。しかしエホバは全知全能の生きた神である以上、昔崇拝の対象になっていたもので今は崇拝の対象になっていないもの、あるいはある人々にとっては崇拝の対象でも別の人にとっては崇拝の対象でないもの、それらのものの区別は知っているはずではないでしょうか。エホバの証人のエホバは、まるで馬鹿の一つ覚えのように昔の規則を振り回して現在のことを何も知らないような神ではないか、と私は思うことがあります。あなたのお母さんにこのことを質問してみたら如何でしょうか。