リヴァイアサン−匿名希望の現役のエホバの証人より

(5-14-00)

 宗教団体というものはブラックホールのようだ。司法も公安も入り込めない。内部
にはものすごい重圧があって、人間の理性も人格もひしゃげてしまって、いびつにな
る。考えてみれば、指導者層のあの権威はいったい何だろう。なぜわれわれは彼らの
不興を買うのをここまで恐れるんだろう? みんなは個人では、人間を創造した
「神」が実在すると真面目に信じているし、その神は聖書の中で見られる神であると
も認めている。だから、その神の意向に忠実に副いたいとも願っている。それなのに
なぜ、仲間の成員に対してこうも不寛容なのだろう。

 私は聖書がいうように、「自分の境遇について不平を言う」のではないことを自分
の良心にかけて言えると思う。われわれに絶対の服従を要求するのであれば、権威を
行使する側には「普通以上が要求される」、「より多くが委ねられている」からだ。
そうした権威に立っている人々はいつも自分を批判し、正しく権威を行使する自覚を
鋭くしているべきだ。違っているだろうか? 第一私はこれまで何ら反抗はしてこな
かった。筋の通った意見をした人が烙印を押されて会衆から追放されたのを聞いて
も、きっとエホバが介入して事態を正してくださると信じてきた。われわれはみな、
何か自分のアイデンティティを求めてこの団体に加入したのではない。人間が創造さ
れたのであり、創造者はわれわれを顧みてくれる人格者であると認め、信じたから
だ。われわれは宗教団体に献身したのではない、創造者エホバに期待を向けたのだ。
だからわれわれに対し、創造者は手を差し伸べてくださると信じてきた。権威を強権
的に行使するのは、人間の不完全さに由来するちょっとした誤りだが、われわれ「平
民」がそれから受けた打撃を述べて、権威の行使の仕方について指摘するのは「不平
を述べること」なのか? 自分が不完全であることを認めているのなら、そうした声
に進んで耳を傾けるべきではないか。自分について意見する芽をことごとく摘み取っ
てしまおうとするのはファシストの振る舞いだ。 
 
 何と言っていいのか分からない。こんなウェブ社会でぶつぶつ文句を言っていたっ
て何の解決にもならない。しかし、われわれが教えられているように、「エホバを待
つ」ということもたいした慰めにはならないようだ。 (エホバさんよ、私はもう二
十年近くあんたを待ってきましたぜ、その報酬がこの仕打ちですかい?) 権威を委
ねられた指導者層が気ままに、自己中心的にしか振舞わないのであれば、エホバを待
つ、というのは泣き寝入りするという意味でしかない。私は社会人としては何も持た
ない。失うのを恐れるものはほとんどない。命と、そしてエホバの証人の名簿に載っ
ている名前だけだ(たとえそれがブラックリストであっても・・)。老後の蓄えもな
いし、家庭もない。このまま自分の人生を終えてしまうのでは、どうしても腹の虫が
おさまらない。権威を振るうことを「エンジョイ」してきた巡回監督たち、長老た
ち、彼らをこのまま得意にならせておきたくない。でも何をすればよいのだろう。い
いようにおもちゃにされてきた私の人生の復讐、彼らの顔色が青ざめて、硬直するよ
うな仕打ちを返せるだろうか。人間は犯罪を犯したり、恨みをはらそうとするときほ
ど、才能や知恵が必要なのだろう。平凡な人間には何をどうすれば所期の目的を達成
できるのかがわからない。指導者層の人間をすっかり入れ替えて、再組織しなければ
ならないような事態に持っていければ、私の人生をおもちゃにしてきたことへの代価
をいくらか支払わせるのに成功した、と言えるのかもしれない。でもどうやってそん
なことができる? 今すぐに私にできることと言えば、寄付を止めることだ。それ
だって彼らには蚊に刺されたほどにも感じないだろう。誰か私に知恵を分けてくれな
いか?

 少しづつ分析していってみよう。そうすれば何かヒントがつかめるかもしれない。
 彼らの権威の正体はいったい何だろう。会衆の成員を審理委員会にかけて、屈辱に
塗れさせる権限だろうか。我々はみなそうなるのが怖いので率直に声を上げることが
できないのは本当のことだ。それとも会衆の成員ひとりひとりの心の中にある意識が
大きく関わっているのだろうか。聖書の中で、「自らの利益のために人物を称賛す
る」精神態度が糾弾されている。われわれは大きなピラミッド型の組織の中で、自分
がある場所を占めていられることにこの上ない喜びを覚える。だから自分にステータ
ス、あるいは立場を与えてくれる人物に権威と従順を帰し、命と人生をかけて彼らの
権威を擁護する。また当然のことだが、人間は自分の周辺が安定していることを望
む。自分に火の粉が振りかからないあいだは現状を維持しようとする強い意欲を示
す。それが権威者たちの安泰を保証する。こういった意識を突き崩すのはほとんど不
可能であろう。われわれはまず、組織は絶対不謬という前提であらゆるものごとを運
営し、判断して行く。あきらかに組織のやりかたに衝撃を受けても、意図的な違反や
誤りを見出しても、組織は絶対不謬という前提を肯定するような仕方で事態を理解し
ようとする。被害者の立場の方に何か隠されたとがめがあるに違いないという処理、
あるいは例の「エホバが介入されるのを待つ」という処理で決着をつける。だがそれ
は不正直で偽りごとだ。世の中と仕組みはまったく同じなのだが、宗教団体の内部で
は、「神のご意志」と言われればすべては何の批判もされず、正当化されるので、
人々に及ぶ影響ははるかに重苦しい。改善される見込みがないからだ。一人でこうい
う状況を改善しようと立ち向かっていっても、たちまち背教的な分子という烙印を押
され、排斥処分である。外から力で対抗しようとするのは、自分を傷つけてぼろぼろ
にするだけで、何も効果をあげない。

 内部から崩れさせることはできるだろうか。人間は共同して違反を犯した場合、後
ろめたい気持ちで結束を強めることがある。レイモンド・フランズ事件や北海道広島
会衆事件、その他同様の事件、予防接種についての判断の誤りなどから大勢の死者を
出してきたことなどが、うそや誇張のない事実であったなら (私はフランズ事件や
北海道広島会衆事件についてはほとんどそのままを、つまりエホバの証人指導者層の
発表ではなく、被害者側の主張を受け入れていいと感じている。身近なところで似た
ような出来事があったからだ。もちろんそれは私の「感じ」であって、きちんとした
証拠を入手しているわけではない)、 彼らはその後ろめたさから強い結束を持って
いることだろう。彼らにとって弱気を起こすことはそのまま、権威を失墜させること
を意味する。それは彼らが彼らの心の中で、キリストの代表者ではなく、キリストに
取って代わった指導者になってしまっているからだ。キリストに対する責任を負う自
覚があれば、判断の誤りや自らの失敗、違反の発覚をあれほど極度に恐れたりはしな
いだろう。むしろ常軌を逸脱してしまうことのほうを恐れるに違いない。われわれは
これを 「敬虔な恐れ」 と呼ぶ。エホバ神に受け入れられたいという意欲、あるい
は神とキリストの評判を落とすことを忌避する恐れである。ところが人々の間での体
面を失うことを恐れて、誤りを隠し通すことは神とキリストの評判を落とす振る舞い
である。輸血に対する判断で一貫性を欠き、例外に次ぐ例外の許容を打ち出している
様子を見れば、彼らが心で後ろめたく感じているにも拘わらず、いまだ素直になれな
い心理を読み取ることができる。その後ろめたさが逆に彼らの結束とそして決意を強
める。自らの破局を悟った悪魔サタン (妖怪や怪物のことではなく、実在する人格
者。神とキリストによって創造された者で、後に神の支配権に反逆し、人類を配下に
収めた者とわれわれは説明する) が自暴自棄になって攻撃する心理と同様である。
どうせ破局するのなら一蓮托生、みちづれだというつもりなのだろうか。そういう結
束を持つ彼らの間に、内部崩壊を引き起こすには、われわれは彼らの状況について逐
一正確で豊富な情報に通じていなければならない。それは外からの闘いを行うより
もっと困難である。そうするには一人では不可能で、たくさんの人手が必要になる。
みんな自分を守るので精一杯なのでそんな危険な賭けに手出しはしないだろう。私に
は大勢の人間を集めたり、指揮したりする能力はない。

 「あなたは釣り針でレビヤタンを引き出すことができるか」。ものみの塔聖書冊子
協会の出版する聖書辞典によると、ヨブ記四十一章の 「レビヤタン」 はワニによ
く適合する、と説明されている。しかし聖書のほかの部分では、強力な支配を行うエ
ジプトなどの国家を例えて言う、とも説明されている。新世界訳聖書 (エホバの証
人による字義訳聖書、原文の意味をより正確に伝える目的で字義訳で翻訳されたも
の、と前書きにはある) の日本語版でレビヤタンとかベヘモトとか書き出されてい
る聖書の獣はヨーロッパでは強いもの、恐ろしいものを例えて使われることが多い。
強大な国家イギリスを例えてリヴァイアサンと言ったり、ドイツを支配するナチス党
をビヒモスと表現した書物も出版されている。愛が結合の絆となるはずのわれわれは
どうか。ものみの塔聖書冊子協会は恐怖による服従を強いたりはしないと主張できる
か。ヨブ記は続けてこう言う、「レビヤタンは鉄をただの藁(わら)のようにみな
し、銅をただの腐った木のようにみなす。矢もこれを追い払わない。石投げ(古代の
飛び道具。現代の銃に当たる。もちろん火薬などは使用されてはいない。振り回すこ
とによって石に加速度をつけて投げつける道具)の石もこれにはただの刈り株にすぎ
ない。これは投げ槍のうなる音をあざ笑う」。戦闘で使用される当時のあらゆる兵器
もレビヤタンには通用しないということだ。(現代でも、ワニの皮膚は、距離と角度
によってはだが、射程内で撃たれたライフル銃の弾丸をはじき返すこともあるよう
だ。機関紙「目覚めよ!」の記事による)。 組織はもはや個人の恨みなどではどう
にもならない怪物になった。道理も思いやりも持たないマシーンになってしまった。
私一人がここでわめいてもどうにもならない。私たちがよく知っている、世俗の強権
組織と同じものになってしまった。イザヤ書の二十六章では、レビヤタンはエジプト
帝国を指して使われている。曲がった蛇であるレビヤタン、おまえは何をしようとい
うのか。どこで狂ったのか。
 
 確かに多くの人間をまとめて行くのはむずかしい。どうしても強権によって引きず
らなければならない場合もあるだろう。だが権威を失墜することを恐れて、無実の人
間に罪を着せて大勢の人々の前で辱め、あげくに会衆から追放するなどの暴挙を実行
するなどというのはあきらかに罪悪である。そいう行動方針が、いつもいつもでなく
ても実施され、隠し通す努力がいまだに払われていると言うのは常軌を逸脱してい
る。これは人間を抑圧するための機構である。工業の能率化という工程をナチスが人
間を殺害するために応用したように、奉仕の務めを能率的に行うための組織化を、人
間の序列を維持するための権力の一元化の目的に堕落させてしまった。一般の会衆の
成員たちと違って、自分たちはエリートであり、自分たちが判断しなければ会衆の成
員たちはクリスチャンの忠誠を果たせない、と言う誤った信念に取りつかれてしまっ
たのだろうか。聖書は一部のエリートのための書物ではない。全ての人間に意味が伝
わるように書き著された書物であり、それゆえ勤勉で系統だった研究を行う人すべて
に開かれた書物である。一部の選ばれた階級の人間のためのものではない。一般の伝
道者から報告されたレポートなどに瞠目すべき内容があれば、それは十分に評価する
べきだった。背教者の烙印を押して、悪いうわさを放置して心理的に追い詰めるな
ど、卑劣な手段をなぜ使用しなければならなかったのか。監督やベテライトといった
人々と一般の会衆の成員とのあいだに、必ず格差がなければならないと信じているか
らか。聖書を理解できるのは自分たちだけであり、彼ら一般の伝道者などではないか
らか。その信念を守るために、会衆の成員を選り好みするための巡回訪問その他の取
り決めなのか。審理委員会にかけられることへの恐怖でなければ会衆を服従させれな
いのはなぜか。

 言いすぎだろうか。ちょっと心が痛んできた。つくづく私はお人よしにできてい
る。善良さは美徳だが、お人よしというのは決して美徳ではないと、私は自分の経験
から思い知るようになった。それはただの愚かさでしかない。自分で主張しなくて
も、相手は理解してくれるだろうと甘えているにすぎない。いや、相手は理解するべ
きだという傲慢ささえあるのかもしれない。だが心にあることは率直に話さなければ
何事も進まない。率直に語ると恐怖の処置が待ち受けているというのであれば、やは
り健全な状況にはないという事だと思う。
 もう疲れた。愚痴を聞いてくれてありがとう。だが復讐をしたいという気持ちは捨
てられない。犯罪を犯そうと言うのではない。他の人間の人生をおもちゃにしたので
あれば、必ず代償を支払わなければならないことを思い知らせたい。ほんとうにそう
思う。聖書には「悪を行う者たちに激こうしてはならない。自分の道を(ルールを違
反して)成功させる者、自分の考えを遂げる者に対して激こうしてはならない」と書
かれてはいるけれど。でも現実には不可能に近いのです。ただ、組織全体にではな
く、誰か個人に対してなら可能性はずっと高くなる。

《編集者より》
あなたはこの読者の広場に投稿することで現役の身元が判明してしまうことを恐れておられるメールを別に下さいましたが、このフォーラムは掲示板や直接書きこみできるフォーラムではなく、編集者が完全にコントロールしているサイトですので、あなたの身元がこちらのウェブサイトを通して判明することは絶対にありません。従って掲載させて頂きました。あなたの投稿は組織が独走することの問題点をよく指摘していると思います。

なお、あなたは、「われわれは宗教団体に献身したのではない、創造者エホバに期待を向けたのだ」と書かれていますが、あなたもご存知の通り、バプテスマのために誓いの質問の一つに「あなたの献身とバプテスマは、あなたが神の霊に導かれた組織とかかわるエホバの証人の一人として確認することを理解しますか?」というのがあります。これは確かに宗教団体に献身したことを意味しませんが、少なくともあなたのバプテスマは創造者エホバに期待を向けただけのものではなく、組織の一員となることの誓いでもあったのです。この点はものみの塔協会が現役あるいは元エホバの証人で組織の方針に批判意見を述べたり、組織の方針で被害を被った人々を黙らせるためによく使われます。

なお、アメリカ・ヨーロッパでは協会から「被害」を受けたと感じる現役や元エホバの証人を中心にものみの塔協会に対する集団訴訟を起こす動きがあります。現在までの所、幾つかの法律上の困難があり、実現には至っていないようですが、アメリカ・ヨーロッパと法律体系が全く異なる日本でこのような集団訴訟が可能であるかどうかを検討することも意味があるのではないでしょうか。