「エホバの証人は本当に愛があるのか?」−二世の元エホバの証人より

(4-29-00)


私は性格の不一致で離婚をし、その後再婚をした為に排斥になった二世の元信者です。二世つまり私はこの宗教内で
育ったわけですから、友人や交友関係は全てと言って良いほどこの宗教内の人間です。宗教外の人との交友は基本的
に良いとはされていない為に宗教内部での交友になるのです。確かに宗教内には基本的に常識的な人がおりますが、
大部分は宗教的な常識を持って生活している人です。つまり外部の人からすれば非常識であると判断されても仕方の
無い人物が大勢います。私が排斥処分をされたとき私は自分の非(彼らの言う非ですが)見とめましたが聞く耳は有
りませんでした。私には排斥処分は今までの友人を全て無くす事を意味していたので排斥だけは避けようとも思いま
した。全ての罪を認め、考えられる限りの悔い改めを心からするように心がけましたが無理でした。私は結果全ての
友人や交友関係を一日でに無くしました。排斥の情報は既に排斥処分の前に発表されていた為に既に多くの友人や信
者が私の排斥処分に対して話がされており既に私は排斥者としての扱いを受けるように手配されていました。

実兄や両親はやはり家族ですから多少の影響はあったが基本的には問題は無いが、義理の姉などは全くの排斥者扱い
、私は兄の家には訪問はできない様子です。私は排斥者に対してなぜそこまで扱いを激しくしなければならないのか
理解できません。排斥から約1年。基本的には排斥者には憎しみを持たなければならない理由が理解に苦しむ。愛のあ
る宗教と言う看板は理解できないし、基本的には自分の宗教以外に人物は信用しない体質や、自分以外を悪と決め付
ける体質はこの宗教の問題であろう。ユダヤ人がアラブ人に対して本質的に憎んでいたり、一部の白人が黒人を憎ん
でいるのと同じで(対象が違うが、本質的に言って)基本的には差別的な見方を持っているのと同じではないでしょ
うか?

この宗教が愛を語る事ができるのでしょうか?本質的に自分の宗教信者以外には差別的な見方をしているのですから
不公平な見方が基本になっているのは確かでしょう。

私はこの宗教から離れてみて初めてその点を理解できました。勿論この宗教と共に育ちましたので未だこの宗教の教
えには影響がありますが、私に見えてくるのはこの宗教に対する不可解な部分、更に、一部の特権階級の優遇(べテ
ル奉仕者や監督と呼ばれる地位)や近年見られる若年層の指導者階級の就任により人生経験の無い人物が特権階級を
バックに多くの信者に時にその信者の人生を左右する問題に対しての判断をするような行為が見られる事は確かに嘆
かわしい事実でしょう。

特権階級者同士の癒着や特権に関する優遇、一部の幹部信者による不明瞭な決定判断等は、社会主義社会に見られる
特権階級者の癒着行為と類似しています。恐らく、一部の悪徳宗教に見られる性行為に関する不正行為や金銭に関す
る不正行為等は見られないとおもいますが(分かりませんが)、信者の生活や人生を左右する決定次項を自分らの地
位や宗教上の名声の為に左右されているのは事実です。更に、この宗教の若い信者には、社会的に地位や、名声を追
い求めることが出来ない為に宗教上の地位を追い求める傾向にあり、この傾向がこの宗教に無秩序な組織を形成させ
ているのではないかと感じています。

《編集者より》
ものみの塔宗教は自分たちの間に愛があることを誇りにして宣伝に使いますが、エホバの証人が自分達の間に「愛がある」という時、それは「条件付きの愛」であることを知っておくべきでしょう。エホバの証人は相手がエホバの証人か、あるいはエホバの証人に理解を示し協力してくれる人であれば愛を示しますが、排斥されたりいわゆる「背教者」とレッテルを貼られたものみの塔の組織に反対をする人は憎しみを示します。これは一般の人には信じがたいことかも知れませんが、ものみの塔の教えにしっかりと基づいています。たとえば次のものみの塔誌の記事は、神と同じ気持ちになって神が憎む(と考えられる)ものを憎むように教えています。

*** 塔93 10/1 18 『神よ,わたしをくまなく探ってください』 ***
エホバが憎まれることを憎む

11 神の言葉の研究は,頭に事実を詰め込むためだけに行なうものではありません。神のお考えを心に浸透させるとき,わたしたちはまた,神と同じ気持ちを抱き始めるのです。

この記事ではこれに続けて具体的に誰を憎むべきかを教えています。
しかしある人がエホバに対する激しい憎しみを示すとしたらどうですか。 15 そのような人たちについて,詩編作者はこう述べました。「エホバよ,あなたを激しく憎んでいる者たちをわたしは憎まないでしょうか。あなたに背く者たちにわたしは嫌忌の念を抱かないでしょうか。わたしは憎しみの限りをつくして彼らを憎みます。彼らはわたしにとって真の敵となりました」。(詩編 139:21,22)ダビデが彼らを嫌悪の情をもって見たのは,彼らが激しくエホバを憎んでいたからです。エホバに背くことによりエホバへの憎しみを示す人の中に,背教者が含まれています。背教とは実際のところ,エホバへの反逆です。(ものみの塔誌1993年10月1日18頁)
すなわちこの記事の教えを要約するなら、「背教者はエホバに憎まれている、従ってあなたもエホバと同じ気持ちで背教者を憎みなさい」ということです。これは、「ユダヤ人はキリストを処刑して神から憎まれている、従ってあなたも神と同じ気持ちになってユダヤ人を憎みなさい」という教えと同じ論理であり、ナチスドイツのユダヤ人迫害の根底にある思想と同じ、「聖書に基づいた憎しみ」となるでしょう。

私はものみの塔の元エホバの証人(いわゆる背教者)に対する憎しみの教えは、一部のキリスト教徒の間にあるユダヤ人に対する憎しみの教えと同じように間違っていると思います。その先ず第一の間違いは、全くの不完全な信者に対して「神と同じ気持ちを抱く」ことを教えて、その「神と同じ気持ち」の思い上がった心で他の人々を自分の基準で(それを神の基準と錯覚して)判断して憎むことです。そして第二の間違いは、キリストの教えではどのような戒律や規則や教えより、神への愛と隣人への愛が先行することを忘れて、ユダヤ人も元エホバの証人も全て分け隔てなく愛を分け与える対象であることが見えなくなっていることです。

この点で、私はあなたの見方に賛成です。エホバの証人の元エホバの証人に対する憎しみは、ユダヤ人差別の考えと根本的に同じルートを持っていると私も考えます。


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