油注がれたものより、イエスキリストの神性について 3(聖霊)

(4-1-00)

 イエスキリストの神性について 3  (聖霊)

 聖霊について語ると申しましても、私は神学上の論議を仕掛けるつもりはありません
。また三位一体論を主張される方々が言う位格について語るわけでもありません。
*** 聖8-参 ルカ 1:35 ***
35 み使いは答えて言った,「聖霊があなたに臨み,至高者の力があなたを覆うのです。
この聖句は誰もがご存じのはずのマリアに御使いガブリエルが受胎告知をしている場面
の聖句です。この聖句を文字道理に読めば答えは明らかです。文法上も実質的にも聖霊
と至高者の力は同じものを別の言い方をしているだけだと言えないでしょうか。
この聖句を「至高者の力があなたに臨み、聖霊があなたを覆うのです」と言い換えても
何ら問題は生じないように思います。私は聖霊に関する意見をたくさん知っています。
しかし三位一体を主張する側も否定している側もこの聖句を考慮されたことがあるので
しょうか。あまりにも簡単に聖書自体が答えを明らかにしている場所ですし、あまりに
も有名な聖句であるだけになぜ頻繁にこの聖句が考慮されないのかと不思議な違和感を
禁じ得ないのが正直なところなのです、私としては。

 さてその聖霊ですが、それが働くとき必ず人格的存在と一対になっていることに注目
できるのではないでしょうか。また聖霊だけが行動しているとハッキリ見て取れる聖句
があるかどうかを調べてみてください。むしろ誰か人格的な存在が聖霊を分け与えてそ
の人の上に置いていくという記述は多いのです。
*** 聖8-参 エゼキエル 37:14 ***
14 『また,わたしはあなた方のうちにわたしの霊を置くので,あなた方は必ず生き返り,
わたしはあなた方をあなた方の土地の上に住まわせる。
 エゼキエルの中ではこの同じような表現が二度ほど出てきます。この表現と調和して
使徒業伝の中ではサマリアの兄弟たちの上に使徒たちが聖霊を置いてゆく場面がありま
す。この場合も使徒たちがサマリアに来て聖霊を置くまでは誰も聖霊を受けていません
でした。御使いや使徒たちのように聖霊を受けた者はそれを他の人に分け与えることが
できるようなのです。しかし聖霊だけが行動できるならペンテコステの時のように人々
の上に(見かけ上)聖霊だけが置かれていっていいはずではないでしょうか。 しかし見
かけ上聖霊が勝手に行動したように見えると言ったのはこれがヨエルの預言の成就であ
ることが明らかにされているため、聖霊が個々の人に分配され注ぎ出されたことが明ら
かにされているため、目には見えなくとも御使いが行動したことは明らかなのです。

 さてこれまでのことをさらに裏付けるように黙示録の冒頭でヨハネに与えられた幻が
「真の神」からどのような手順で与えられたかが明確に記されているのです。「真の神
」がイエスキリストに与え、それをイエスが御使いをヨハネの元に使わして見せたもの
だったのです。その時ヨハネは聖霊を感じたと証言しているのです。これ以上の説明が
いるでしょうか。

 この聖句は明らかに聖霊が人格的存在抜きに行動しないことを明らかに示していると
言えないでしょうか。 そのためイエスが弟子たちに助けてとしての聖霊が来ることを言
い表したときにあたかも人格的な存在であるかのような表見をした理由を知ることがで
きるのです。その聖霊を行使する人格的存在である御使いを念頭に置かれてその事を言
われただけだったと言うことだと結論付ける事ができるでしょう。 決してイエスがこの
ときだけ猪突に文学的な擬人法を用いられたわけではないのです。 また文字道理に聖霊
が人格的存在だと主張するとヨエルの預言の表現や黙示録の冒頭の記録がおおいなる壁
となって立ちはだかってしまうでしょう。

 こうした聖書の読み方は私の個人的なものであることをお断りしておきます。どこか
の権威ある方の後ろ盾や組織のお墨付きがあるわけではありません。単に聖霊について
知りたいとの祈りのうちに聖書を読んだ結果でしかありません。いかなる神学や研究資
料も参考にした見方でもありません。従ってこの世の権威はなにもありません。
 それでも私自身はこの結論に満足しているのです。それは自分自身の頭で考え、そし
て祈り、この結論を導き出したという自己満足です。 それでも単なる権威者と称する人
間の作り出した教理を鵜呑みにするよりましであろうと考えているのです。

最後に黙示録一章4節では七つの霊と表現されています。七人ではありません。他の人
格的な存在に対しては二十四人の長老と言うように「人」という言葉を使い人格的存在
を示唆しています。ともに霊的な存在に対しての表現なのです。この聖書の記録はなに
を意味しているでしょうか。 

 さて
*** 聖8-参 創世記 2:24 ***
24 それゆえに,男はその父と母を離れて自分の妻に堅く付き,ふたりは一体となるのであ
る。
*** 聖8-参 マタイ 19:5-6 ***
。6 したがって,彼らはもはや二つではなく,一体です。それゆえ,神がくびきで結ばれた
ものを,人が離してはなりません」
*** 聖8-参 コリント第一 6:16 ***
16 あなた方は,娼婦と一緒になる者が一体となることを知らないとでもいうのですか。
「二人は一体となる」と言っておられるのです。17 しかし,主と一緒になる人は一つの
霊となるのです。
 これらの聖句は一体という言葉が実際に聖書に書かれている部分です。男と女とが関
係を持つとその霊が一体となることを教えています。さらに主と一緒になる人は一つの
霊となると書かれているのです。これらの聖句から真の神とイエスキリストは一つの霊
となって一体であるという言い方は理解できるのです。たとえば夫婦の場合に霊、その
家族の目標や意志などは一体となります。それと同じように真の神とイエスは同じ御意
志をもたれるため一体であると見ることができるのです。でもお二方が一つの霊となる
とき一体となるなら三位一体の聖霊とは一体どのようなものであるかが分からなくなる
のです。決して皮肉や冗談ではなく位格というものや聖霊が人格的存在であるという見
方がよく分かりません。その言葉自体が聖書の中に存在しないため「聖霊」のようにそ
の言葉に注目して聖句を探すこともできません。
 これは私の正直な気持ちです。三位一体を明確に理解することが聖書を根拠として私
にはまだできません。それ故、分からないことに反論も、また肯定もできないと言うこ
となのです。 
 これまでの論議は全て聖書のみを根拠として論じてきました。しかし聖霊とは実際の
現象を伴う力であることを知っていただきたいのです。そしてその霊は実際にいろいろ
な現象を起こします。この聖霊が働く条件があります。それは一言で表すことができま
す。

        「信仰」です。

 この信仰という言葉はイエスキリストが「もし枯らし種一粒の信仰があるならこの山
にあちらに移れと言えばその通りになります」と言われた信仰なのです。そのような信
仰で救われた人が記録されています。血の流失に悩まされていた女の例です。彼女はイ
エスの房縁に触れさえすれば自分の病が癒されると信じて疑わなかったからなのです。
この癒しはイエスが意図されたのではなくこの女性の信仰によって聖霊が働いたよい例
だと思います。
 聖霊が働くこの条件は実に簡明です。エホバの証人が言うような事細かな条件などな
にもありません。彼らが主張するような利他的なものしか受け入れられないなどと言う
ことはありません。この聖書に記録されている女性のように自分自身の問題で何らかま
いません。
 しかしみじんも疑うことのない「信仰」だけが要求されているのです。このへんの真
理をどの宗教家も教えておられないのはどうしてなのでしょう。エホバの証人に至って
は『現在は奇跡をエホバは起こしません』 などと言って真の神に、人間が制限を課すよ
うな発言をする始末になっているのです。 この『』の言葉を聞いたときに見せる反応で
、実は本当の「信仰」をもっておられるか否かが分かるのです。この言葉『』はものみ
の塔誌に頻繁に登場する言葉です。この言葉によって彼らが「エホバ」を実際に生きて
おられる真の神として認識していないことを明らかにしていることになるのです。 全
知全能の真の神は奇跡を起こされるのに現在も過去もありません。また人間の意志に従
うわけではありません。全く「エホバ」の御意志のみに依存していることなのです。
 このへんの感覚も崇拝の形式を誰が定めるべきかの議論に似たところがあることにお
気づきでしょうか。そうです、真の神と人間との立場が逆転してしまっているのです。

 実はこの逆転が、偶像崇拝そのものの精神態度なのです。 

 多くの新興宗教が崇拝の対象を「彫像」「組織」あるいは「星」などに置くとしても
、それを操るのは皆人間である教祖であることに間違いありません。それが単数であれ
複数であれ全く同じ事なのです。この事実をご自分の属しておられる団体がどういうも
のになっているかを見分ける基準とされると良いのではないでしょうか。

さて「聖霊」ですが実体験からも聖書からもハッキリ言えることなのですが、私たちが
受ける感覚も作用もそれだけでは「悪霊」と区別ができません。「聖霊」を神格化され
る方からはおしかりを受けることを覚悟の上で申し上げるのです。これは私の実体験か
ら申し上げていることなのですが実は聖書自体がその事を教えていることに気づきまし
た。
 パウロはこう言っているからです「霊感の表現全てを信用してはなりません」。
さらに「イエスが主であるということを否定する表現」「イエスが肉体で来られたこと
を証しない、つまり贖いの教理を曖昧にしてしまう表現」これらは全て悪霊からのもの
であるというパウロの警告なのです。よく聞く話で「聖母マリア」が何かを言ったとか
、ものみの塔が主張する天の組織論のようなものはすべてこの悪霊の表現である可能性
が高いと聖書は言っていることになります。私の実体験もこのことを肯定せざるをえな
いのです。 その様な分けで、残念ながら、「聖霊」であるかないかはパウロがそうで
あったようにその内容によって見分けるしかありません。
 このことは「聖霊」も「悪霊」も同じ「真の神」から与えられた力を作用させている
ことを示していると言えないでしょうか。片方は「聖なる事に」もう片方は「邪悪なこ
とに」用いた同じ霊であると。 このことは同じ人間を「善人」と言ったり「悪人」と言
ったりする事に例えられるかもしれません。
 このことから霊そのものに善悪はなく、あくまで「聖なる方」の御意志を反映するも
のが「聖霊」となることを私たちは理解することができるのではないでしょうか。
 パウロはこれらのことと関連して「肉の体」が存在するように「霊の体」が存在する
ことを証言しています。御使いのミカエルもサタン、ルシファーも共にその霊の体を持
つ者たちであることに違いありません。そして擬人ヨブを痛めつけたその力は全く同じ
「真の神」からの霊の力によって為されたことは明らかなことなのです。
 私たちはこのような知識から一つの現実に直面することになるのです。多くの人々に
とって霊界や天界は現実味のない異次元の世界か架空のSFの世界でしかありません。
しかし現実には目に見えないと言うだけで電波のように存在しているものなのです。そ
れも我々よりかなり高度な生命体であってこの宇宙の同じ次元と空間に存在し活動する
者たちだと言うことです。
 彼らの活動範囲は我々人類とは異なります。我々人類は時間的制限だけでなく物理的
に今の体では太陽系の外に出ることは不可能でしょう。私たちは太陽風に守られて存在
しています。おそらくもう少し太陽に近い軌道を地球が回るか、何か外宇宙からの影響
を防ぐ手だてが地球を覆うなら我々の寿命は数百歳のオーダーになることでしょう。と
ころが彼らは「火の石の間を歩めり」とあるように恒星間を移動できる存在なのです。 
彼らの存在とその力は我々人類とは桁違いのものなのです。
 ここで改めて聖霊を含めて霊の存在が我々の世界の単なる延長線上にある高度な世界
であるあると言うことを念頭に置いてください。
 さてここで今までの宗教的概念で聖霊を理解していた人々は聖霊を何か卑しめている
ようなお気持ちを抱かれるかもしれません。しかし私は決してその様なことを申し上げ
ているわけではありません。むしろかえって聖霊を今あなた方が理解している聖なるレ
ベルよりより勝ったレベルに引き上げようとしているのです。以外に思われますか。
 聖霊を我々が理解しようとするとき例えると分かりやすいものがあります。それは私
たちが意志を伝えるときに用いる道具「言葉」なのです。さて私たちは「言葉」を良い
目的にも悪い目的にも用いることができます。それでも同じ「言葉」なのです。次に申
し上げることが重要なことなのです。その同じ「言葉」であっても使う人の身分や権威
の違いで重要さがまるで異なることがあると言うことなのです。
 このことをこんな事に例えてみました。ある会社の平社員同士が喧嘩をしてお互いに
「お前なんかは首だ」と罵りあったとしても、それだけで首になることはないでしょう
。しかし会社の社長が「お前なんかは首だ」と言ったとしたらどうでしょうか。その場
合には言われた人は間違いなくその職を失うことを意味しています。
 どうでしょうかこの例えでご理解いただけるでしょうか。その言葉を使う方の権威の
違いでその言葉自体が持つ意味の重さが大きく異なってしまうことをご理解いただけた
のではありませんか。それと全く同じように聖霊もそれを使う方の権威によってより聖
なるものとなるのです。それ故真の神の御意志を表す聖霊に対して言い逆らうものに対
してイエスキリストは厳重な注意を促しました。ご自分に言い逆らうものは許されても
真の神の聖霊に言い逆らうものは今の世においても来るべき世に置いても許されません
と警告をしたのでした。それはまさに今説明したような理由によるのです。
  その様なわけで今現在は死人をよみがえらせるほどの聖霊の力を行使できるイエスキ
リストに言い逆らうことが許されます。でも真の神の御意志に言い逆らうことが永遠の
死を意味することを知るときに、その権威の高さ聖の聖なるその崇高さを思い知らされ
ているのです。聖霊に言い逆らうとは本当に恐ろしいことなのですが、そうしたことを
行ってしまう状況があるのです。その一例を考えましょう。
  最も有名なのが蛇がエバを欺くときの言動です。真の神が園の木の実を食べても良
いと言ったその言葉を悪引用して神の言われたことと逆のことを言いエバをたぶらかし
ました。その結果はサタンである蛇に対して永遠の滅びが宣告されたのです。このこと
とよく似たことがものみの塔の出版物に出てきます。ある問題に対して権威者の言葉を
悪引用して信者をたぶらかすあのやり方です。その事と関連してイエスキリストに置く
べき権威を天の組織に置き換えてしまったあの論議も同じようにエホバから最も嫌われ
ることでしょう。なぜならばそれは彼らの言う真の神「エホバ」の御意志に真っ向から
言い逆らうことになるからなのです。なんと恐ろしいことをしたのでしょう。
 そうした行いによって聖霊に対する正しい見方の一面を与えられていたにもかかわら
ず、その様な真理でさえあしざまに言われかねない彼らの言動は重大な裁きを受ける危
険をはらんでいるのです。
 なぜ信仰の人々の間でこのようなことが起きるのでしょうか。なぜならこれらのこと
が行われた理由が確かにあるのです。しかし人間的なものではないのです。
 それはこうしたことがあると、なにも事情の分からない人々はまともな信者が一人も
いないと思われることでしょう。ところが そうではありません。むしろ逆なのです。特
に純粋に信仰の道を歩まれる姉妹たちには頭が下がります。それらの人々の信仰がいい
加減なものであるように思わせようとする悪霊のこうかつな働きなのです。
 また真理を知る者はそうしたまがい物に満足しません。それ故霊的に敏感な人々はそ
うしたものに疑問を投げかけることになるでしょう。それがねらいでもあるのです。真
実を語るものを見つけだして迫害させようという。その事はまさにイエスが終わりの時
に起こるだろうと言われたことなのです。(残りの者たちも惑わされるという)
 言葉のマジックに惑わされては成りません。イエスキリストの全権を委任されて持つ
と言うことは、自分たちはイエスキリストだと言うこととイコールだと言うことを知っ
てください。 「全ての持ち物をつかさどる」と「全権委任」とは法的にイコールで結び
あわすことのできるものではありません。その事を会社の社長とその車を任された運転
手に例えることができるでしょう。その運転手は社長の信用を得てその車の全てを任さ
れるでしょう。それがつかさどると言うことなのです。でもその車で勝手にドライブに
行くこともできなければ売り飛ばすことなどできるわけがありません。
 しかし全権委任であればその車を持ち主と同じ権利を行使できることになります。つ
まり売り飛ばして代金を自分のものとしたところで不法を行ったことにはなりません。
何しろ全権委任なのですから。
 もうお分かりとは思いますが鈍い方のために申し上げておきます。全権委任であると
言うことはその社長と全く同じ人になったことに等しいと言うことなのです。
 このことをものみの塔に当てはめるならどうなりますか。
ものみの塔は終わりの日には自分がイエスキリストだという偽予言者が現れると主張し
てきました。自分たちはそういう団体とは全く異なると主張してきたのです。
   ところがどうでしょう、彼らは自分たちがイエスキリストの全権を委任されていると
主張することにより、まさに自分たちがイエスキリストであると公に宣言したことにな
るのです。これは彼らが言うところの偽キリストに他なりません。
 人はそれとは知らずにその心の中にあることを語るものであるとは真実です。
私たちはイエスの次の言葉に注意すべきではないでしょうか。
*** 聖8-参  マタイ 23:10 ***
また,『指導者』と呼ばれてもなりません。あなた方の指導者はキリスト一人だからです
。
 私たちはイエスキリストのこの言葉に聖書の権威を認めるならば従わなければなりま
せん。それ故に、自らを指導者であると主張するものはこの聖句からも自分をキリスト
であると言ったことになるのです。彼らは決して自分を「イエスキリストである」とそ
の言葉自体は使いません。しかし泥棒が「自分は泥棒ではない、黙って借りあるく人で
ある」と主張したところで意味はありません。罪が無くなるわけではないのです。それ
と全く同じ事なのです「自分を思慮深い奴隷」と呼んだとしても。ところがマインドコ
ントロールの罠に落ちた人々はその様なまやかしにも気付くことができなくなるのです
。おそらくここまで説明しても。

   ご自分は心の正直な人間であるというならばこの単純な言葉の罠に気付くことができ
なかったという事実を正直に見つめてください。

 それは知らずにマインドコントロールされていたと言うことなのです。

  私は不思議な気持ちになっています。聖霊はここに書かれた真理をものみの塔がもは
や主張することを不可能にされたのです。なぜならば彼らは私を背教者と定めたからに
他なりません。主イエスは不思議な形で裁きをされたことになるからなのです。
  こんな形の完全な復讐というものがあるのですねー・・・・。
   彼らに悔い改めるように言ったのに・・・・。  

《編集者より》
元エホバの証人としてキリスト教の教義を見直してみることは意義のあることでしょう。ありがとうございました。