イエスキリストの神性について−2

(2-17-99)

       イエスキリストの神性について−2 
  
旧約聖書の中に出てこられる「真の主」とは誰のことか。 
イェアオイェローズ「八百万(やおよろず)」 「ヤーウイェ」「エホバ」 といろいろな呼び方をさ
れるが「創造主」であられる神、ヘブライ語でテトラグラマトンの四文字で表される方とはどんな
方なのか。この方に関して聖書の記録は人間がこの方を見ることはできない。この方を見て生きて
いられる者はいない。そのようにハッキリ述べています。 
 またソロモンは天そのものも「創造主」をお入れすることができないとその祈りの中で霊感を受
けて語っています。その存在とイエスキリストとなられた独り子の神とは別個の存在であることは
明らかなことなのです。ではなぜイスラエルの神とイエスキリストが同じ方だという意見が出てく
るのでしょうか。多くの方がこの見方に同意する根拠が確かに聖書の中にあることは明らかなこと
なのです。その事を屁理屈をつけて否定しようとするエホバの証人は実に愚かと言わざるをえませ
ん。イエスキリスト以前のイスラエルに対して「エホバ」の名によって活動した者はイエスキリス
トとなられた独り子の神だけではなく他の御使いがいたこともやはり明かなことなのです。さらに
驚くべき事に神の敵であるはずの「サタン」と言われる御使いもその名エホバによって活動してい
たと思われる記録があるのでです。最も明らかなものとしてヨブ記の中でヨブに災いを与えたこと
がその事に当たるのです。なぜならばサタンが勝手に災いをヨブに与えたのではなく「創造主」の
許可を得てそれを行ったのだという事実を見落としてはなりません。それは明らかに「エホバの名
」によって行動したことになるのです。さらに、ユダの書の中にモーセの死体の扱いに関してミカ
エルが語ったことが記録されています。この記録からモーセが死を迎えるに当たって「エホバ」の
名によって彼に対して行動していたのがなんとサタンであったことが分かるのです。 
 これらの聖書に書かれている記録から「エホバ」イコール「イエスキリスト」とならないことは
ご理解いただけるのではないでしょうか。 
 ではイエスキリストとなられた方はどなたなのでしょうかまた私たちは真の神であられる創造主
とどのような立場として彼を見るべきなのでしょうか。最初の論議の中で神殿に向かって祈るとい
う崇拝の方式がソロモン以後確立されたこと。また神殿の持つ権能を引き継がれたイエスキリスト
がその崇拝の方式を引き継がれていること。それ故私たちはどこにいようともイエスキリストの名
を通すことによって「真の神」に近づくことができるようになったのだと言うことを知ることがで
きました。このことをヨハネの福音書の中でサマリヤの女に向かって「霊とまことをもって父を礼
拝するときが来る。そうだ今来ている。」と語られたことが記録されていることからも理解できる
はずです。 
 私たちは聖書の記録から「父なる神」をイエスキリストに向かって礼拝する。つまりイエスキリ
ストの名を通して真の神に礼拝する、と言う崇拝の仕方を学ぶことができるのです。ここで見方を
変えるなら私たちはイエスキリストを受け入れたことによって「イエスキリストの名を通す」と言
うことを守るだけで実に大きな自由を手に入れることができたのです。私たちは特定の崇拝をする
ための礼拝堂のようなものを全く必要しなくなったと言うことなのです。このことを理解するとき
に、二人か三人がともにイエスキリストの名において集まっているときにイエスが共にいてくださ
るという約束は実に意義深いものとなることでしょう。つまりその場所が神殿であり礼拝堂である
ことを確証していただいたことになるからなのです。このような真理を初期のクリスチャンたちは
よく理解していたことが記録から分かります。彼らは礼拝堂も祭壇も持とうとしなかったために非
難されていました。しかし彼らはそうすることによって実際には崇拝の自由を確立していたことに
なるのです。そうした自由を捨てて崇拝の自由を捨て王国会館に崇拝の中心を定め神聖視すること
は「真の神」からどのように見なされるかは以前に説明した通りです。この初期のクリスチャンと
同じ考え方に立った崇拝を近代において確立したのはなんと日本の内村鑑三だったのです。無教会
主義とはこうした聖書の真理と崇拝の方式を表明したものだったといえると思います。またこのサ
イトを主催する村本さんもよくぞ言い当てたと申しましょう。と言いますのは。『イエスは目に見
えません。従ってその組織も見えなくとも存在する』とは見事な見識であると、そのように申し上
げたいのです。 
 そのような見方をするとき人間が作った組織というものに対するあるべき姿も明らかになってく
るはずなのです。と言うよりもイエスキリストご自身は国籍もあらゆる宗教も超越しておられて、
人間から手足のない偶像のように何かの世話を受けなければならない事などなにもないのです。そ
の事と付随して崇拝の仕方も誰かに取り決めてもらわなければならないわけではありません。つま
り、人間の宗教組織のいかなるものであれこのことに対する究極の権限を有してはいないと見るべ
きではないでしょうか。 
  私はまたロマ書を読んで一つの重要な点を見いだしているのです。あなた方も是非もう一度読み
返してほしいのです2章12節から3章までの間の聖句です。ここに書かれていることは一つの重
要な真理を表しています。ものみの塔のように日ごとに変わってしまう真理ではありません。多く
の宗教を主催する組織にとって耳の痛いものかもしれません。と言いますのは。極論すれば終わり
の時にキリスト教を主催し人々には立派な人と見られていたとしても、実際には悪を行うものであ
るなら救われず。イスラム教やヒンズウ教、あるいは仏教徒でありながら義とされる事を行ってい
た者の方が救われるという教えなのです。この言葉はなんと組織宗教そのものを否定した言葉なの
です。自分の組織にとどまらなければ救いは無いという教えはこの聖句によって真っ向から否定さ
れてしまっていると言えませんか。しかもここに書かれている聖句に異議を申し立てることのでき
る人はいないはずです。これこそ真理なのです。他の聖句でも主は独り一人を裁かれるとあるから
です。そして特にパウロはローマ人への手紙の2:16節でこのことが福音によるとハッキリ述べ
ているのです。誉れは人(組織)からではなく神から来るとあるとおりです。 
 さて少し脱線してしまいました。イエスの神性に戻りましょう。この方に関する表現に「独り子
」というものがあります。この言葉は一人っ子他に兄弟のいない子供のことです。そして聖句によ
れば他の全てのものはこの方が存在させたと書かれているのです。つまり創造主が直接生み出され
た方は独り子だけだったと言うことになります。 
 天使たちもサタンも皆イエスを通して存在するようになったと言うことになります。そして「献
身のバプテスマ」の最初の方となられ、「死人からの復活」の最初の方となられました。このこと
は全てのことの初穂と「独り子」がならなければならないと言う「真の神」の御意志にそうもので
あったと見ることができるのです。これらのことからイエスキリストが「真の神」の持たれる権利
の相続人である長子の権利を持たれる方であると言うことが確証されるのです。 ところで「真の神
」は死ぬことがありませんですから人間のように親が死ぬことによって権利を相続すると言うこと
はありません。 しかし人間であっても生前相続という法的な手段があるように親が生きていながら
相続すると言うことは法的に可能なことなのです。ですからイエスは神性を持たれるのかとの問い
に対しては『ハイと肯定の答えを出すべきだと思います。しかしイエスは慎み深く謙遜な方である
ため「父と同等の権威を求めず真の神に栄光を帰しておられるのです」。さて実際にはご自分の血
によって人類を買い取っておられるので私たちの現在の主となっておられるのはイエスキリストで
あることに間違いはありません。その事を分かり易く人間的なことに置き換えてみましょう。ある
国の王様に独り子の王子様がいました。その王子様が婚約料を支払って隣の国のお姫様と結婚しま
した。このお姫様の主はどなたになりますか。言葉を換えてこのお姫様は王様の所有になるのでし
ょうか。この例えで明らかなように法的な見方をするまでもなく当然このお姫様は王子様の所有す
る妻となることは明らかだと思うのですがいかがなものでしょう。ところがエホバの証人は自分た
ちはエホバの所有する民であって自分たちの主はエホバであると主張しているのです。このへんの
論理はどうなるのでしょう。 さてそのご主人様の意向に添うのが私たしたちの務めであることに
なりませんか。その私たちの主が「父なる神を崇拝するように」と求めておられるならその意向に
添うのが私たちのつとめではありませんか。いかがなものでしょう。 
 これまでの私の論理の展開で一番重要な点は何でしょうか。それはこの一点に集約されると確信
しています。それは「真の神」も「主イエスキリスト」も私の目の前に現実に存在している方とし
て。実際には目に見えない方を目に見えるかのように見ているという基礎の上に成り立っている論
理であると言うことでしょう。それ以外の基礎の上に立つ論理を展開される方とは決して一致を見
ることはないでしょう。特に使徒たちにさえ師と呼ばれてはならない師はイエスキリストだけであ
ると言われた命令を無視して主イエスキリストの全権を委任されたものであると主張する者たち、
またイエスの座るべき座に座している者たちにには理解していただけないだろうと思っています。
それらの人々は実際には特定の宗教団体を神と見なしているかある人物たちをそのように見なして
いる者たちであるからなのです。その論理の展開が全て人間の側からのものとなっていることに注
目してください。教会の教えは、エホバの証人の見解は、と発言されるときそれはまさに今私が述
べた人間主体の論理となっているからです。 
 私たちが聖書の真理に近づこうとするとき、私たちの主イエスキリストを生きた土台として議論
し会うことはいかがでしょうか。その土台をはずして本当の信仰の家をうち立てることはできない
はずではありませんか。みなさんの忌憚のないご意見を伺いたいものです。次回は聖霊についてこ
の土台の上に論議を展開したいと思っております。 

《編集者より》
あなたの見方は、宗派、形式を超えたキリスト教の中核となるものでしょう。多くの読者の考えの糧となると思います。