油注がれた者より、イエスの神性について

(2-6-00)

        この論議に必要な聖句を参照資料として明示する(新世界訳)


*** 聖8-参  歴代第二 6:18-21 ***
18 「それにしても,神は本当に人間と共に地の上に住まわれるでしょうか。ご覧ください,天も,い
や,天の天も,あなたをお入れすることはできません。まして,私の建てたこの家など,なおさらのこ
とです。19 −20 あなたの目が昼も夜もこの家に,すなわちあなたがみ名をそこに置くであろうと言
われた場所に向かって開かれ,あなたの僕がこの場所に向かって祈る祈りをお聴きになりますように
。21 また,あなたの僕とあなたの民イスラエルがこの場所に向かって祈るとき,その懇願をお聴きく
ださい。あなたが,あなたの住んでおられる場所から,天からお聞きになり,聞いて,お許しください
。

*** 聖8-参  歴代第二 6:32-33 ***
32 「そしてまた,あなたの民イスラエルのものではないのに,あなたの大いなるみ名と,強いみ手と,
差し伸べたみ腕のゆえに遠い地から実際にやって来る異国の人のためにも,また実際,彼らがやって
来て,この家に向かって祈るなら,33 そのとき,あなたが天から,すなわちあなたの住まわれる定まっ
た場所からお聴きになり,すべてその異国の人があなたに呼び求めるところにしたがって行なってく
ださい。それは,地のすべての民があなたのみ名を知り,あなたの民イスラエルと同じようにあなた
を恐れ,あなたのみ名が,私の建てたこの家に付されてとなえられていることを知るためです。

*** 聖8-参  歴代第二 6:36-39 ***
36−38 また,彼らをとりことして連れ去った者たちのとりことなっている地で,彼らが本当に心をつ
くし,魂をつくしてあなたに立ち返り,あなたが彼らの父祖たちにお与えになったその地,あなたの選
ばれた都市,私があなたのみ名のために建てた家の方向に向かって,彼らが本当に祈る場合,39 あな
たも天から,すなわちあなたの住まわれる定まった場所から,彼らの祈りと,恵みを求めるその願いを
聞き,彼らのために裁きを施行し,あなたに対して罪をおかしたあなたの民をお許しください。

*** 聖8-参  歴代第二 7:1-3 ***
7 さて,ソロモンが祈り終えるや,火が天から下って来て,焼燔の捧げ物と犠牲を焼きつくし,エホバ
の栄光が家に満ちた。
*** 聖8-参  歴代第二 7:12-16 ***
12 ときに,エホバは夜の間にソロモンに現われて,彼に言われた,「わたしはあなたの祈りを聞き,ま
たこの所を犠牲の家としてわたしのために選んだ。15 今や,この所で[ささげられる]祈りに対して,
わたしの目は開かれ,わたしの耳は注意深くあるであろう。16 そして今,わたしは,わたしの名が定
めのない時までもとどまるこの家をまさしく選んで神聖なものとする。わたしの目とわたしの心は
確かにいつもそこにあるであろう。


 まず村本さん並びに熱心なるキリストに属する人々へ、私からの愛と挨拶を送らせていただきます
。さらにエホバの証人の人々に対しても。そして聖書にある真理に従順であるようにとお薦めしま
す。エホバの証人はご自分が考えて物事を推論する能力をこのサイトにより培うことを願っており
ます。エホバの証人は考える力を奪われているという事実を知ってください。 さて、論議になっ
ているイエスキリストの神性についていくらか私の意見を述べさせていただきます。今回は特にこ
の論議を展開する前にお断りしておきます。エホバの証人の方で反論を述べたい方は聖書を実際に
読んで文脈をつかみご自分の頭で考えたご意見を伺いたい。決して出版物にある解説を鵜呑みにし
た反論をしないでいただきたい。
  それでは本題に入らせていただきましょう。まず聖書を読む場合に気をつけなければならないこ
とを述べておきましょう。聖書には一般に考えられているより多くの情報が簡明に記録されている
という事実なのです。そのためなにを知りたいのかという目算あるいは目標のようなものをもって
読まれた方がより理解しやすく意味のある読み方になるという事実なのです。そのことを思いに止
めておいてください。
  引用した歴代志下(歴代第2)6,7章をお読みになる前に次の点を知るように考えながら読ん
でください。
  1)まず第一に誰がどのような崇拝の取り決めをしたのかという点です。
 この点が理解できたなら次の点に関して再び読み返して再認識してください。
    2)このときから祈る方角はどちらでしょうか。
    3)神殿に向かって祈ることがどうして偶像崇拝にならないのですか。
    
 ほとんどの方々はなぜそんなことをいちいち考える必要があるのだろうかと思われるでしょう。
実はそこが一番重要なことなのです。 なぜなら、どのような崇拝の方式をすべきかに対して、その
方式を受け入れるか否かは崇拝される側の「真の神」に決定権があるのだという大前提を思い起こ
させるものだからなのです。崇拝の取り決めは一宗教団対に任されるようなものではありません。
神の持たれる権利に対して挑むようなことは決してすべきではありません。このソロモンの場合に
も彼がこの取り決めを決めたのではなく「真の神」が決めておられるという記録を聖書から読み取
ることができるのです。この当時神殿に向かって祈ることが初めて「真の神」によって認められま
した。そのため人の手によって作られたものに向かって礼拝行為をすること(偶像崇拝となる行為
)が神殿に限り、それもエルサレムの神殿にかぎって許されたことを知ることができるのです。
 その後の歴史の中でエルサレム以外の場所の高きところに対しての「真の神」に対する崇拝に対
して、「真の神」が嫌悪の情を隠さなかったことは歴史的な事実となっているのです。その記録が
明らかに崇拝の取り決めに対する権利が誰にあるかを如実に表しているのです。この当時の「真の
神」に受け入れられる崇拝はエルサレムの神殿を通して、天におられる「真の神」に祈りを聞いて
いただくというものでした。 
  このこととイエスキリストの神性と何の関わりがあるのかとご質問がありますか。大いに関わり
があります。聖書を始めから終わりまで一度でも読んだことがおありであれば次に述べることをご
理解いただけるものと思います。それはエルサレムの神殿が予表するものはイエスキリストご自身
のことであったということなのです。福音書の中で神殿に関して三日で建て直すと言われたのはご
自身のこととして聖書に語られているとおりです。
 またパウロはイエスキリストが神殿であること、またイエスの名を通して祈り求めることを教えて
いる事からも理解できるでしょう。
  ココで私が言いたいことはソロモンの時代から神殿に向かって祈るという崇拝の方式が定められ
、現在に至るまで本質的になにも変わっていないことを知っていただきたいと言うことなのです。
ソロモンの時代に神殿を通して「真の神」に近づくことが行われていたのと同じように現在はイエ
スキリストという「神殿」を通して「真の神」に近づくことが定め置かれているのです。これが誰
も犯すことが許されてはいない真の神「ヤオ、ヤーウエ、エホバ」と呼ばれる方の御意志なのです
。
 私たちが唯一礼拝行為を許されているのはイエスキリストという神殿だけであるという事実。そ
れをクリスチャンであるというのであれば絶対認めなければならない重要な教義と認識しなければ
なりません。もしこの前提を受け入れるのであればマタイ14:33節でイエスの弟子たちが彼に
対して崇拝行為をしたからといってなにも問題にする必要はないのです。彼らは当然のことをした
だけであるということになります。

 このことがイエスキリストが神であるか否かの一つの答えをも与えていることに是非気付いてい
ただきたい。言葉を換えて言うならばかつてのエルサレムの神殿は神だったということになります
か。そうではありません。神殿は神そのものではないのです。しかし祈りを捧げる対象であること
は明らかです。イスラエルはダニエルの例からも分かるように異国の地からエルサレムに向かって
礼拝をしていたことがハッキリ記録されているからです。この歴史的な事実を軽く見るべきではな
いと申し上げたいのです。

 誰にでも理解できることである筈です。エホバの証人の統治体の人々以外は。エホバの証人には
このことを言う権利がないのでこのような言い方をあえてしました。なぜかと申しますと、彼らは
マタイ14:33節で使われているギリシャ語のπροσεκυνησαν と表記されている訳を
「敬意」と訳しています。そして全く同じギリシャ語を用いている啓示5:14節では「崇拝」と
訳しています。もし「敬意」と「崇拝」が同じ意味であるというのなら良いのですがそうでない事
は明らかです。
 彼らは三位一体の教理を否定しやすくするために聖書を自分たちの教理に会わせて訳したことは
間違いないでしょう。おそらく。
 このような行為が聖書的にはどう見られるかの議論はおいておきます。(ものみの塔発行の行間
逐語訳ギリシャ語聖書による)
  エホバの証人はこうした理由から全くこの重要な聖書の真理を理解していないことを自ら聖書を
改竄するという愚かな行為によって明らかにしてしまったのです。そして自分たちの主張を信頼性
のないものとしてしまいました。
  三位一体を言うにしろ言わないにしろこの事実をふまえていなければ(イエスキリストが現在の
神殿である)必ずその論理に矛盾が生じてしまうのです。たとえば三位一体を言うためにこの事実
を無視すれば多神教の嫌疑を晴らすことが難しくなります。またエホバの証人のようにイエスキリ
ストが神殿であることを単なる文学的表現の象徴にすぎないと言うのであれば。彼らはイエスキリ
ストの贖いの教理を実際には認めていないことを証明することになるのです。実際彼らは贖いの教
理を口にはしますがまさに象徴的な実質のないものと自らの教義によりしている事実は多くの方の
認めるところとなっています。
  少なくとも彼らは今、自分たちがキリスト教であると唱える根拠を持っていないのです。 私が
今日ここに展開した論議はパウロ同様に「書かれていることを越えてはならない」という聖書の規
定に沿ったものとなっているはづです。このことによって聖書に書かれていない三位一体を肯定も
否定もしません。私はあくまで聖書の中に記されている真理をありのままになにも混ぜもののない
純粋な乳としてすう嬰児であることを願っているにすぎないのです。この点に関してこのサイトに
寄稿しておられる聖職者の方々並びに油注がれた者であることを表明しておられるレイモンドフラ
ンズ氏らのご意見を伺えるとありがたいのですが。

最後にもう一度私が聖書を読んで理解した事柄を列挙しておきましょう。

 ソロモンが神殿を「真の神」に献納するに当たり、神殿の中庭を神聖なものとして祭壇を置き天
に向かって公の祈りを捧げたと言うこと。

 その時天に向かってではなくこの神殿に向かって祈るという崇拝の仕方を「真の神」にお願いし
た。

 その祈りを「真の神」は受け入れられたことを奇跡的な出来事により全ての人に知らしめた。

 さらにその夜「言葉」によってその取り決めに確証を与えられた。その結果、贖罪と祈りを聞か
れることとが神殿を通してなされるという崇拝の取り決めが法的に確立された。

 そしてイエスキリストは不完全にしかなしえなかったエルサレムの神殿の贖罪の行為を完全な形
で成し遂げられた。その結果としてご自身の血による贖いにより完全な形で天から神殿の機能を果
たしておられる。

 現在も「真の神」がご自身で確立された崇拝の方式をそのまま適応しておられる。霊的な神殿で
あるイエスキリストを通すという取り決めとなった。この取り決めにより「真の神」の神殿がけが
されるということがあり得なくなった。

以上が私が聖書を実際に読んで理解した事柄です。どうか他の見方ができるとおっしゃるのであれ
ばご意見を伺わせてください。宜しくお願いいたします。

《編集者より》
キリストの神性と三位一体の議論は、エホバの証人と伝統的キリスト教とを分ける教理の大きな違いですが、この点は、元エホバの証人の方々にとっても「ひっかかる」問題であると思います。聖書にキリストの神性について言及している部分は沢山ありますが、それだけで説明のつかないことも沢山あることも確かであると思います。あなたのおっしゃるような、「聖書に書かれていない三位一体を肯定も否定もしません」という見方は、レイモンド・フランズを初めとする元エホバの証人の多くの人々の見方のようです。