「批判は自由。しかし、エビデンスは?」

(10-19-05)


貴殿のHPの全体を拝読しましたが、「エホバの証人」のことを知っているよう
で、殆ど知っていない(「理解」とは異なる)印象を受けました。何に関して
も、数理科学を除き、何とでも言えるもので、一つの「事実」に対して、何百何
千もの勝手な論考は常に可能であり、それが所謂「文化」というものの特性です
が、貴殿の文章で気になるのは、リアルなエビデンスの欠如です。また、ヘブラ
イ語やギリシャ語の知見も無いために、いささか失当な議論も散見されます。キ
リスト教会史に関しても、偏った狭い知識でしかなく、巷の歪んだ「エホバ証
人」批判と五十歩百歩でしょう。

論考というものは、「多面的」な調査、取材、面会、議論、体験等によって、初
めて成立するものですが、自分の気に入った「点」、たまたまの偶然に眼に付い
た「点」だけを、感情で書いても意味の無いことです。

巷には、何十万という宗教があり、奇怪なものも相当数存在していますが、そん
な塵芥の評論よりは、自分の信念はこれこれであると宣言し、独自の思想を啓蒙
する方が、よほど生産的でありましょう。

《編集者より》
投書者はエホバの証人で高学歴のコンピューター関係の仕事をされている方のようです。(掲載していない部分にある情報です。)まず、全ての人間が「事実」を文章にする時に、そこには全て解釈が入りますので、あなたの言う「勝手な論考」になることは共通する現象です。これは私の「論考」も、あなたの「論考」も、ものみの塔の「論考」も、学術論文からゴシップ週刊誌に至るまで、人間の認知活動の宿命です。それはどんなに「多面的」に調査しても、抜けられない宿命です。なぜなら、あなたの論考も別の専門家から見れば、あなたの専門以外の領域では「偏った狭い知識」にならざるを得ないからです。それが「文化」の特性であることは賛成します。あなたは「エビデンス」を問題にしていますが、一体何を証明するためのエビデンスかが問題です。多くの論考は意見であって証明でないことがあり、その場合にはエビデンスは重要ではありません。また、哲学の論議、特に形而上の議論(宗教の教義や、ものみの塔の世界観は多くが形而上の議論ですが)これは本来エビデンスで証明できるものではありません(それだからこそ「形而上」なのです)。あなたはコンピューター関係の専門家のようですが、人類学、社会学、宗教学などの「エビデンス」は理工系のエビデンスとは全く異なるものです。このサイトの主な「エビデンス」は、ものみの塔が出版した発言内容で、それは全て原典(ものみの塔誌、協会の出版物、CDなど)を参照して正確に示している積りです。ものみの塔の欺瞞を啓蒙するのに一番良い証拠(エビデンス)は、その出版物の内容に明らかな矛盾と欺瞞があることを示すことだと思っています。それ以上の解釈は、確かに感情問題かも知れません。それは「意味の無いこと」かもしれませんが、それはあなた一個人の意見であって、夫々の筆者、読者が決める問題です。全ての人々が、あなたと同じように、意味があるかないかにかかわらず、自分の意見を自由に述べることはできると思います。最後に、私はこのサイトの様々な部分で、自分の信念を宣言しています。よくお読みください。


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