(7-30-05)
編集者様が冒頭で余り当てにはしないでくださいと書かれていましたが、 予定としては8月更新とのことですから今のうちに投稿しておこうと思います。 そしてこれが最後の投稿になればいいなと思います。 或る日、私が食事をしようとしてとあるお店に入ると、同じ店にエホバの司会者 だった方がたも来ておられ、私に声をかけてくれました。彼女たちの座っていた テーブルを何度か行き来した後に、背後から名前を呼ばれて振り向くとなつかしい、 また半分忘れかけていた人たちの顔がありました。お元気でしたかと問われながら 気の利いたこともいえず、エホバの証人となっている同級生の現在についても 尋ねる言葉を呑み込み、何か遠慮する気持ちが働いてあまり会話がはずみません でした。とても残念に思います。いつもこうして親しき交わりを築けない自分の 欠点と遭遇するはめに陥ります。ため息さえつきそうになりながら彼女たちと 別れました。安否を気遣う意思があるなら電話をしてみればいいのに、なぜ 私にはそれができないのかとがっかりします。あるいは「伝道」しなかったかと。 その辺がエホバの証人たちの熱意とはちがうところでしょう。それとも戸別訪問 以外は伝道しない人たちだったでしょうか。 一般のキリスト教会ではありのままのアナタで良いと云われています。それは 条件つきのエホバの証人の救いの考え方とはちがう。でも私たちはいつまでもそのままで いいとも云われていない。キリスト者は成長することを期待されています。 私は前回の投稿でクリスチャンとなった今、そこに安住して膠着することがな いように、受洗しなかった者のように、いつも新しい気持ちで神と出会いたい という思いをお伝えしました。でもなかなかに難しいことでした。 自分は何々教会の教会員の・・・、という意識から脱却できないことが例とし てあげられます。 受洗した教会をやめるためいろんな教会に顔を出していますが、今よく言われる ことは「あなたと神様との関係がどのようなものか」という問いかけです。 今日もある教会の牧師にそのことを問われました。私の祈りの言葉を聞き、私に 欠けていると思われるものがそれだったのかもしれません。″御心″とはどの ようにしてわかるものなのか。″平安″だったらそれが御心なのか。私の都合で しかないものと″御心″とを峻別することは果たしてできるのか。 その牧師先生に教えられましたのは、繰り返し祈ることとみ言葉を聞き続けるこ とでした。私にはまだ祈りが足りないようだと仰るのです。迷いの言葉がが多い のでそのよ、に言われたのかもしれません。 私だって「結論」や「これが平安」「これが御心と思える」といったものはすでに 与えられてはいるのです。しかし判断しているのは自分です。ここに私の不確かさ に対する恐れがあります。昔はみ使いや神の声などが直接、民に告げてきました。 現代ではオカルトめいた怪しい逸話として見られるかもしれませんし、自分の 体験してきた夢や幻覚などいったい何の証拠になるのでしょう。与えられたもの は平安であるかぎり良きものとして受け取るべきなのだろうかと、揺れ動く毎日 です。 今回は何が言いたいのかを申し上げますと、仕上げはイエス様にお任せして、 私も神を信じる一人として全ての人の救いがそれぞれにありますようにと 願い求め続けることをしようということです。私にやれそうなことはもちろん やりますが、やれないこともやれなかったこともイエス様が過不足無く仕上げ てくださることを信じます。一人一人にその人にとってふさわしい時を与え、 御心のご計画にそって救いのために神様がはたらいてくださることを信じます。 それでは村本様お元気で。
《編集者より》
強調される活動が「集会と奉仕」から「繰り返し祈ることとみ言葉を聞き続けること」に変わったことは、もしかしたら心に抵抗があるのではないでしょうか。片や、皆から見られて成績表(奉仕報告書)にまで記録されるものが第一であるのに、今度は目に見えない個人的な体験が第一なのですから、「何の証拠が」と、エホバの証人のように見えるもの、数字に表れるものに惹かれていく気持ちもわかります。しかし、私はそこにこそエホバの証人の本質と問題があると思っています。見える「証拠」は必要かもしれません。しかし、それはエホバの証人のように他の人や組織に見せるものではありません。あなたが見えて、あなたの神が見えればそれは充分な証拠なのです。長いこと沢山の投書をありがとうございました。あなたも、またこのサイトを卒業されるようで、今後も引き続き真摯な探求を続けることを祈っています。