(6-27-05)
連日の投書お許しください。 エホバの証人の研究生として過ごしていた日々のことを思い出しています。 週に何度も会っていたけれども漠然と心地よい以上の充実感がなかったことを。 新世界訳聖書を開くのは、ものみの塔発行の冊子やテキストに書いてある説明を 裏付けようとするためで、聖書自体は参考書扱いだったこと。また非常に穏やかで 親切で熱心だった人たちのこと。だけどプライベートな親密さ(たとえば外食を 共にするとか、映画を観に行くとか、お互いの家を行き来するとか)はまったく 皆無だったことなどです。 もっともお誘いしたこともありませんでしたが。何か遠慮してしまう空気を感じて しまい、もう一歩前には進めなかったのだと思います。 司会者だったかたが運転しながら通りすぎるのを何度か見かけたことがあります。 いつも同じ笑顔でした。どなたかが必ず乗っていて談笑されていました。 お元気ならいいけれど、府に落ちないのです。私が歩いてくるのを視界に認めて 急に方向転換して曲がって行ったような・・・・・。 私の勘違いであってほしいと思いますが。 プロテスタントの教会員になってからは、聖書の学び(他教会)をして疲れても 充実感があります。知り合った人たちとプライベートなお付き合いもありますし、 未成熟ながら神を賛美したいというひそかな熱意は消え去りません。所属教会との 問題がストレスを生み出していても、未だに私はこの教派が好きですし、働きの 一助になりたいと強く願っています。 仏教にも儒教にもイスラム教やヒンズー教などにも魅力はあるのでしょうが、私が 落ち着く場所はやはりキリスト教だったということなのでしょう。ただし以前のような 無所属気分ではいられないのも確かなことです。これを私は視野狭窄に陥る前兆として 受けとめ、膠着(こうちゃく)しないようにできるだけ意識的に自由な心を保ちたいの です。 たとえばバプテスマを受けなかった人のように。聖書を学ばなかった人のように。 イエスを初めて知った人のように。教会生活を知らない人のように。そしていつも 初めて体験するかのごとく神と出会いたいと思っています。 若い時からカルト宗教や人権問題に関心を持ち続けてきたために、私の教会の異様な 雰囲気にはどうしてもなじめず、認めるつもりもありません。改善すべきだと思います。 出る自由があるからそのままでよいというものではないと思うのです。 彼らとて同じです。 エホバの証人たちが無理して疲れないように。救いの条件だからと気負って笑顔を つくりながら集会へ出たり、戸を叩いたりしないように。友達をえらぶ自由や、読みたい ものを読む自由、進学する自由、信仰しない自由、従わない自由、それでも疎外されない おおらかな自由が彼らにも与えられますように。 私はこれらのことを祈り続けます。
《編集者より》
心の支えを「外」に求める人、それは「組織」でも「教会」でも「指導者」でも「楽園」でも皆同じことだと思いますが、本当に求めるものを得られることはないと私は思っています。一時的に「見つけた」と思っても、しばらくたつと幻滅が始まり、「外」のものの奴隷のようになり、自由はなくなります。それに対し心の支えを「内」に求める人は、それが自分と共に生きて、自分とともに成長し、自分と共に変化していくために、自分を縛ることも幻滅させることもなく、その人は常に自由を心の底から感じることができるのだ、と思います。そこが「外」型の宗教と「内」型の宗教の違いなのではないかと思っています。あなたの今後の更なるご成長を期待しております。