「元・研究生の一人として」−12

(6-26-05)


エホバの証人の研究生と呼ばれ、研究生をやめて一年後にプロテスタントの教会で受洗し、
その教会でいくつものつまずきと立ち直りを経て三ヶ月が過ぎました。
以前の投書で編集者さまより大変有り難い過ぎたコメントをいただいて恐縮でした。
しかし実体は破れに満ちていることをお知らせしたいと思います。
 
「反抗」と言われても仕方ないのかもしれません。
私たち教会員数名が牧師の宣教メッセージやプライベートなやりとりを通して、
牧師から傷つけられているということをお互いに話し合い初めて知ることとなりました。
わたしたちは傷ついた時に各々が随時、自分自身を責め、イエスを見上げては
乗り越えて来たことを今、ようやく知り得て分かち合うことができたのです。
 
このたびの総会ではある姉妹が監査報告をしようとするたびに牧師・執事からいちいち
横槍が入り、
「愛をもって言ってほしい」「やさしい気持ちで」「愛情をもって指摘してほしい」
などなどの失礼な要望のお説教で中断されてしまう。最後には監査補佐が報告をするのは
おかしいと言われ発言自体を拒絶されていました。
なぜもっと信頼し合えないのか、会計の問題は淡々とやるべきではないのかと私にとって
幻滅の最たる現実を味わった一日でした。
この姉妹はご自分の体験から私を慰め、励まし、ほかの教会やFEBC放送があること
などを教えてくださったかたです。今は血尿が出ているので病院へ通っておられます。
 
牧師はその総会の席上で言いました。
「私は変わるつもりはないと言ったのは、信仰において変わらないと言ったのです」
「私を信じていれば傷つかないはず」
「私がいちばん愛がない人間なんです。あるがままの私を受け入れてほしい」
執事は言いました。
「還暦に近い年齢でもあるし、疲労困ぱいの牧師の体力がもつわけない。いつまでたっても
終わらない。だから按手をやってもいいと決断してほしい。」
「この牧師で決めなければ他の牧師をお呼びすることはできない」
「ほんとうに我々が心を砕かないと教会解散になるというほどの大きなできごとである」
教会員の半数以上が委任か欠席でありながら結局、按手式は行われることになりました。
そして私たち数名はこの教会をやめようと決意しています。
 
敵を愛せ、迫害する者のために祈れと言われております。しかし現実は隣人さえ愛せない、
愛し抜けないという弱く情けない私たちです。
それでもGホバの証人ではなく、私たちを受け入れてくださる一般の教会を求めて動いています。
悲しい現実がありながらなぜそうするのかというと、強制ではない自由があるからだと
思います。エホバのなかには善良な良いかたがたくさんいらっしゃることは承知しています。
でも自由がない。彼らは解釈ひとつ自分からは選べない。そして規律に違反するとグループ
から罰される。しかも救いに与るのはものみの塔の者だけであるとすれば、選択の自由は
自ずと脅迫的な選択となってしまいます。
愛そのものである神が私たちに解放の喜びを告げておられながら、人間が他の者を縛り、
さばく行為はやはりキリスト者のものではない。そういうわけで私は牧師への反発をいったん
矛に収めて按手式のための準備委員となったのでした。辞める、離れる、それでも救いに
漏れることがないという逃れの道がなかったならば、私の教会もエホバと同じだったと
言えるでしょう。新しい道を用意されていた主に感謝します。
 

《編集者より》
教会も牧師も不完全な人間の集まりで、何も特別な「神懸り」ではないのだということを心に留めていれば、様々な問題があっても、赦したり、見過ごしたりできるでしょう。出るのも入るのも自由であれば、補修の不可能な腐敗を見つければ出ることも可能です。ものみの塔の大きな違いは、不完全でもエホバの唯一の組織という認識があることで、そうなれば出ることは考えられず、腐敗の中で一生腐りつづけることになるでしょう。その意味で、あなたはクリスチャンの本当の自由を手にすることができたのかもしれません。


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