(3-20-05)
数年前から貴方のサイトを拝見させて頂いている元研究生です。 村本さんの読者に対するお返事をここ数年読ませて頂いて、感じる事の一つとして、ご自 分の家族のエホバ信仰に対する反発から物見の塔研究をはじめられ、キリスト教サイトな どからの反論を土台として、一時いわゆる正統キリスト教の教義の立場に共感し、ご自分 の研究を勧められる中で、キリスト教信仰を持たれ、その後多くのエホバの証人や元証人 の反論に対処するうち、徐々にキリスト教の立場をも脱皮されてきて、ご自身の精神神経 医としての研究も踏まえて、宗教多元主義的、あるいは科学者としての客観的な独自の立 場をおとりになってきたように拝見しています。 そこでお伺いしたいのですが、エホバの証人のみならず、キリスト教が他宗教に対する優 位性を主張する時に、必ず聖書預言の歴史的証明を持ち出すと思われますが、村本さんは 聖書の預言が歴史上成就してきたという立場に関して、どのような見解をお持ちですか? 私は物見の塔研究を始めた後、書物に書かれてあるご都合主義な解釈や独善性に欺瞞を感 じて、独自に聖書研究を始めたのですが、聖書の預言に関してはたしかにそれが歴史上は っきりした形で成就していると思われるものも少なくなく、否定することができないとい う結論に達しました。それと比較するとイスラム教や仏教、ヒンズー教にはそれに該当す る歴史的に追認できるような預言がないことを考えると、聖書に基ずく一神教が他の宗教 に対して客観的に優位な証明を保持しているように思えるのですが。・・・ 私は村本さんの心の変遷として、物見の塔に家族をマインドコントロールされた事に対す る憤りが、このサイトを運営する原動力となってきたと思うし、それが時を重ねるに従っ て、エホバの証人のみならず特定の信仰や教義を絶対化する立場に対する反発として、徐 々に鮮明化してきたように見受けられます。(それがあなたの最近の著書の執筆動機にも なっているということはありませんか。) たしかに個人的にはエホバの証人が自分の組織だけに対して、聖書預言の成就のように語 る、たとえばヨハネの預言をあつかった啓示の本などは、内容的にあまりに稚拙でこじつ けの塊だと感じますし、村本さんもそういう風に考えておられると思うのですが、それと 同様にイエスの弟子が福音書において旧約聖書の聖句をイエスに当てはまるメシヤ預言と して多く取り上げる事も同じ次元のこじつけという風に考えておられるのでしょうか? たとえばイザヤ書53章がイエス個人の事を預言しているのだとする解釈を私は否定でき ないのですが、村本さん自身はこの53章をどのように読まれていますか? あるいはキリスト教の立場で理解されている、旧約聖書においてなされているイスラエル 民族に関する預言(世界に離散したユダヤ人がパレスチナに帰還し国家を樹立した事など) や世界預言(たとえばダニエル書の預言がアレクサンダー大王とその後の世界について預 言している)などの解釈を、特定の教義を正当化するこじつけとして受け止められている のでしょうか?・・・それともどこかで聖書には人知を超えた力が働いているという風に 考えられたことがありますか? エホバの証人を離れられない方の多く(あるいはそれに反対の立場のキリスト教会の方) は、実際に聖書を読み進んでいく中で、この聖書預言の成就を無視できないでいる方が多 くいらっしゃると思います。 個人的に村本さんが、どの宗派、教義にも片寄らないために、あくまで客観的、科学者的 姿勢を維持されようとして、このことに関して明言されたくないなら、無理なされないで ください。 私はあなたツ人の率直な意見を聞きたいと思ってメールさせていただきました。
《編集者より》
誰も将来の事を正確に予見できないというのは、当たり前ですが、私の基本的な立場です。しかし、ある程度の予想が立つことも確かです。多くの預言は、詩的表現の中で語られる漠然とした予想で、それがある程度当たるのは当然だと思います。私が、あと十年以内の内に世界のどこかでマグニチュード8ぐらいの大地震が起こり、沢山の人が死ぬでしょう、と「預言」すれば、それが当たっても不思議はありません。また、そのような預言を意識していると、観察する方の側もその預言を意識して、その成就に当たることを探すでしょう。その良い例が、あなたも書いたシオニズムでしょう。これは預言を成就させるために、人々が努力して、何とかそれに近い形を作り上げようと努力して半分成就したように感じるよい例でしょう。私から見れば、何も成就しているとは思えません。イザヤの53章も同じことが言えるでしょう。キリストをメサイアと信じる人は、キリストの全てをこれに当てはめて見るようになり、記録(福音書)もその見方から書かれるのは当然でしょう。しかし、ユダヤ人はメサイアは別であり、キリストをその成就とは見ていません。何が成就かを判断する人間の心(脳)がそれを決めているいい例だと思います。
あなたも指摘されるように、私の宗教観は多くの変遷を遂げて来ました。私の本にも書きましたが、宗教の本質は、誰の心にもある「良心」のようなもので、それだけでも宗教の本質は実践できますし、多くの人が無意識のうちに実践していますが、いわゆる宗教家はこれに満足できず、見えるもの、触れるもの、読めるものに頼る体制を築き上げて来ました。これが宗教組織であり、聖典であり、寺院であり、宗教指導者であり、偶像であるのです。そして宗教体制の権威付けには儀式や奇跡は、聖典と共に不可欠のものでした。あなたがこだわっている預言は一種の奇跡の範疇に入るでしょう。これもまた、人間の認知機能に密接に関係する現象です。私の本に詳しく書きましたから読んで頂けばわかりますが、たとえば認知不協和の解消は、実験的に「奇跡」を作ることが出来ますし、現に今のこの時点で世界中に奇跡が起こり、それによって宗教の信者が増えています。日本のことはよく知らないので、アメリカの事例で話せば、最近、シカゴの高速道路のコンクリートの支えに聖母マリアの像が現れて「奇跡」として、多くの人々が押しかけて、それにお参りして大騒ぎになったことがあります。確かに写真で見ると、マリアが頭を垂れて、手を合わせて拝んでいる姿に見えないことはありません。これは冬にアメリカの高速道路では雪を融かすために塩を撒きますが、その雪解け水が鉄のさびやアスファルトの粉などと混ざって様々な色の水となって、高速道路の下に流れてもれて、染みを作ります。このマリアの像はそのような染みの一つです。もちろん奇跡を信じる人々もこれが高速道路の雪解け水が作った染みであることは否定しないでしょうが、それがマリアの像になったことに奇跡を見るのです。またそれがたまたまローマ法王パウロ二世の亡くなった数日後であったためにますます信憑性が出てきました。これは本当に「奇跡」なのでしょうか。私は、それを信じる人にとっては奇跡であるが、その「奇跡」である理由はその人々の認知機能の中にあるのであって、染み自体には何の意味もないと思っています。アメリカ中に同じ様な高速道路の支えは恐らく何万とあるでしょうし、そこに様々な染みが色々な形と色とでしょっちゅうついては消えているでしょう。誰かがたまたま通りかかって、「あ、これマリアの像に見えない」と言うと、「そう言えば」ということになり、それが広がって多くの人に共通する「確信」になるのです。私の本ではエルビスプレスリーの生存神話の発生が同じ様にして起こったことを例にして取り上げていますが、このシカゴの高速道路のマリアの像もまた、自然発生的に奇跡の神話が作られる良い例なのです。
人は本来、偶然とか不確定性とかいうものを嫌い、はっきりとした確信に惹かれる傾向があります。どちらにでも解釈できるあいまいなものに直面した人間は、どうしても魅力ある確信性のある解釈に引かれるのです。預言も神話も奇跡も全て、私は人間の認知機能の特殊性のたまものであると思っています。ただ、ここが一番のポイントですが、私はそれだからと言って無神論を提唱するものではないということです。神と宗教の起源を人間の脳の機能の中に明らかにすることで、全ての宗教家が共通点を見いだしてより謙虚になり、世界的な宗教合同(ものみの塔が最も嫌うことですが)が起こることを夢見ています。