(3-15-05)
1月にお送りしたメールへのコメントが間に合いそうもないので、2月末から決意してキ リスト教会へ通っています。洗礼も受けるつもりです。 あれからまったくエホバの証人の方とはお会いしていません。ある方のポストにはメモを 入れておきましたが、どう読まれたのか不明です。「ずっとつながっていようね。」と書 いてあった絵ハガキ風のものを、二つに折ってシールで止め、直接ポストに入れておきま した。 私の通う教会の牧師先生はエホバの証人のことを「キリスト教ではない」とはっきりおっ しゃいました。それはおそらくどこのキリスト教会でも同じ見解だろうと思います。 しかし、インターネットのホームページを見ると、京都のとある教会HPでしたが ”エ ホバの証人からも謙虚に学ぶ姿勢をとります” と書いてありました。 編集者さまのjwicサイトではおもに批判者が中心となっていますから、こんなことを 言うと怪訝に思われそうですが、私も ”謙虚に学ぶ姿勢” を崩したくない一人です。 「おまえはまだウラの顔を知らないからだ」と言われれば返す言葉もありません。しかし 私の知る限りでは、本当に謙遜で上品で小奇麗で、生活の模範としては憧れます。聖書の 言葉のとおりに努力してゆこうという思いを語られるときには、尊敬の念が湧いてくるの です。 教会の牧師先生のようにはあの人達をばっさりとは斬れないし、ましてや見下すことはこ れからもけっしてないだろうと思います。 良い面だけを見すぎたのかもしれませんが。 ただ一つだけ指摘したいことがあります。 彼らは自分たちのことを「クリスチャン」と呼んでいます。クリスチャンとはキリストを 主と信じる人たちのことだと思います。でも彼らは父なるエホバを主と信じています。三 位一体を否定しながら「クリスチャン」と呼称するのは何かおかしい気がします。
《編集者より》
お返事が間に合わずに申し訳ありません。しかし、前のお答えに書いた通り、教会に行くか、洗礼を受けるかは本質的な問題ではないというのが私の答えですので、あなたの決断には変わりはなかったことでしょう。エホバの証人をキリスト教の一派と見るかどうかは、見解の相違であり、世界宗教の分類の中でも、エホバの証人をキリスト教の一派と扱っている分類は多くあります。「謙虚に学ぶ姿勢」は基本的には大事なことであると思います。本来は全ての人々の中にどこか必ずいいものがあるはずですから、どのような人からも「謙虚に学ぶ」ことはできるはずですが、実際には感情的な思惑から「坊主にくけりゃ袈裟までにくい」という諺の通り、一度否定的に見てしまうと、全てが否定的に見られてしまいます。その一番好い例がエホバの証人の「キリスト教世界」への見方であり、既存のキリスト教がどのように良い方針や行いを打ち出しても、決してキリスト教から「謙虚に学ぶ姿勢」はエホバの証人にはありえません。第二次世界大戦前の日本の教育にも良い面があってそれを「謙虚に学ぶ姿勢」があってもいいのに、そんなことを言えば、「軍国主義」のレッテルを貼られ、軍国主義を否定するならその全てを否定しなければならなくなります。私はエホバの証人にせよ、軍国主義にせよ、そのような白黒の二極分化的思考を嫌いますので、あなたの言う「謙虚に学ぶ姿勢」は大いに結構なことだと思います。