(1-7-06)
同じ組織に長年いたもの(いわば、同じ釜の飯を食ったもの)でも見方が随分違うも のだなあ!というのが第一印象でした。また、指摘されている内容が具体性に欠けて いて、単に先入観で述べておられるように感じました。本サイトの編集者に対してな されている批判内容のほうにこそむしろ”リアルなエビデンス”の欠如があるのでは ありませんか?たとえで言わせていただければ、非常に”ものみの塔的”批判内容で す。それは格調高い表現ですが、一方向の情報伝達です。そして、それとなく他を見 下した、自分は神の正当な代表者であるという思い上がった表現が見え隠れしていま す。”巷の歪んだ「エホバ証人」批判と五十歩百歩でしょう。”というような表現に それが見受けられます。 本サイトの編集者の論考は、「多面的」な調査に基づいていると感じているのは私だ けではないと思いますよ!レイモンドフランズを筆頭に、他の元エホバの証人たちと 実際に面会し、取材もされておられますよ!そしてあなたのような皮肉っぽい方々を も含めた実に様々な立場の人たちとの議論をも貴重な時間を割いて本サイトを通して なさっておられます。実際、ご自分の愛するエホバの証人ご家族を持っておられ、エ ホバの証人の方々の抱えておられる諸問題に実によく通じておられます。エビデンス には事欠きません!私たちは他の方々の様々な論考を読むとき、無意識のうちにエビ デンスをきわめて注意深く求め、自ら検証をしているのです。たとえば、”良心の危 機”の本を読んだとき、長年、長老の立場にいたものにとって、それは実に信憑性に 富んだ内容であり、エビデンスを見出すことができるのです。 また、”生産的”という言葉を用いられましたが、私には実にむなしく響きます。生 産性などに全く無頓着なのが”ものみの塔のやりかた”だからです。個々の伝道者、 特に開拓者の方々の時間をどれほど無駄遣いすれば気がすむのでしょうか? 一人の姉妹がこう嘆いておられました。”巡回訪問中の集会で巡回監督が、’まさか 1時間だけの奉仕でよいなどと誰も思ってはいないと思います・・・’と言ったと き、私のことを言っておられるのだろうと感じました。ものすごく気落ちして帰りま した。反対している主人の顔が浮かんできましたが、もはや、それに耐える力はほと んど残っていませんでした・・・”(あなたが、イエス様がなされた、失われた羊の たとえ話を知らないはずはありません。しかし、あなたはそれを実践する組織にはい ません。私は、多くのエビデンスをもって断言しているのです。) あなたの神経を逆なでするようですが、あえて申し上げますと、あなたこそ、「エホ バの証人」の実情に全く疎いと思います。組織崇拝という偶像崇拝者独特の心のかた くなさが関係していると推察します。井の中の蛙なのです!それが私にはそれがよく 分かるのです。5年前までの自分を思い起こすなら、そのときの”私”がまさに”あ なた”なのです。
《編集者より》
これは「批判は自由。しかし、エビデンスは?」(10-19-05)に対する発言です。この方への私の気持ちは、そこに充分表明してありますので、参照して下さい。そこにも書きましたが、エビデンスを最高権威のように思っている現役エホバの証人の方のものの見方に、根本的な問題を感じました。形而上の問題(エビデンスを超えた問題−それが本来の宗教の問題なのですが)を形而上として見られず、形而下の他の問題と同様、エビデンスでしか判断できない、それがあの投書者も含めたエホバの証人の根本的な思考回路の問題なのだと思います。別の言葉で言い換えれば、聖書は文字通りに正しくてエビデンスに基づいているから信じている、逆に言えば、もし聖書は文字通りには正しくなくてエビデンスに反していれば、聖書の価値はなくて信仰もなくなる、これがあの投書者のようなエホバの証人の思考なのです。文字通りではない、エビデンスにも基づいていない形而上のものに、価値を見出すだけの目を開けないのでしょう。