このサイトの意図は、あくまで情報を広めることですが、その結果がものみの塔宗教への否定的な見方を広めるとしたら、それはものみの塔協会の行なっている情報統制が原因であって、自然の成り行きであると考えています。このサイトの姿勢は、「事実に物語らせる」ということです。多くの既成宗教ついては、既に情報が公開されており、それらの宗教を批判する情報はそれらの宗教を勧める情報と同様にどこにでも手に入ります。そのような宗教ではいくら「情報センター」を設けても、大した意味を持たないでしょう。エホバの証人の「情報センター」が大きな意味を持つとすれば、その事実こそが、ものみの塔宗教の情報統制の実態を裏付けるものであると言えます。
このサイトは宗教の勧誘の場ではありません。ただし、エホバの証人の宗教が聖書に基づいており、キリスト教と最も近い関係にあるために、エホバの証人をやめた方々がキリスト教に生きる道を見出すことが多いために、キリスト教との対比を多く取り入れています。また記事や投稿記事の中に、キリスト教の信者によって書かれたものが多くあります。
このサイトを訪れて、それがきっかけでエホバの証人をやめたり、不活発になった方は沢山いますが、それはこのサイトの直接の目的ではなく、必然的な結果に過ぎないと思っています。読者の広場の投書で何回もお答えしていますが、ものみの塔協会の欺瞞と偽善に気がついたエホバの証人が組織に留まるか、断絶するか、不活発になるか、は全く夫々の個人的な事情によって最もあった方法をとることを勧めています。実際、組織に留まる「目覚めた」エホバの証人の投稿が次々に来ていますが、それらの人々に「早くやめなさい」と勧めたことはありません。
掲示板(BBS)やメッセージボードを使わない最大の理由は、編集者が管理して対応していく時間とエネルギーがないからです。自由に書き込みの出来る場所を提供することは良い事ではありますが、それを管理するのは大仕事であり、現在の編集者の力では不可能です。ただし、読者の中でBBSを作っていられる方がいれば、リンクさせて頂きますのでご連絡下さい。
これはJWICの意図でもなければ、誰かのいたずらでもなく、関連のページを置いてあるヤフー・ジオシティーが勝手に付ける広告で、無料でページを設置させてもらっている一種の使用料のようなものです。インターネットを始めたばかりの人は、びっくりするようですが、最近では多くのサイトが広告で成り立っており、一般に広告を見ないでウェブサイトを訪れることはだんだん難しくなっています。ただ、最近ヤフーも営利化がひどくなり、昔の大衆に奉仕する姿勢が失われています。ひどい広告が増えてきており、近い将来に全てのページをヤフーから撤退する予定にしています。ポップアップ広告は実に嫌なものですが、ファイアーウォールを設定することである程度止めることができます。
このウェブサイトのページは全てシフトJISで書かれていますが、言語のコードをタグの中に含ませていません。ブラウザーの表示―>エンコード―>自動選択、あるいは日本語シフトJISを選べば文字化けせずに見えるはずです。最近サーバーのソフトウェアのアップグレードに際し、サーバーの側から一方的に文字コードを英語だけにしてしまったことがあり、その時に一斉に文字化けが出ました。今後、もし文字化けが起こりましたら、編集者までご一報下さい。アメリカのサーバーですので、気をつけていないと文字化けの起こることがまたあるかも知れません。
返事を差し上げられない最大の理由は、編集者の時間の問題です。時に非常に重要だと思われるメールには個別のお返事を差し上げていますが、多くの場合は、このウェブサイトの公共性を考えて、公開することによってより多くの人々の役に立つお返事を書くことを優先しています。内容を匿名や架空の名前を使って、公開しても差し支えない形にしてお送り下されば、読者の広場でお返事を差し上げます。
長文のものでも出来るだけ記事として取り上げたいとは思っていますが、編集者が読んで理解し、その主旨がこのサイトに合うものかどうかを判断し、その上でHTML文書に変換することは、時間と労力を要することですので、掲載が遅れます。また、その主旨がこのサイトと合わないものは、掲載をお断わりすることもあります。長文の随筆や論文のようなものは、ご自身でウェブページを作られて、リンクをこちらに申し込んでいただければ、それが一番簡単であると思います。
このウェブサイトではものみの塔の出版物を多数引用していますが、私はこれは著作権法違反ではないと理解しています。本サイトはアメリカ合衆国に存在しますので、アメリカの著作権法によって規定されていますが、それによれば、批評、批判、報道、教育、研究などの目的で、既に公表されている著作物を引用することは、著作権法の違反にならないとされています。これは日本の著作権法でも同じ事であると思います。もちろん、そのような引用にも限度があります。著作権法によれば、次のような要件を満たす必要があります。1.出所を明示すること。2.どこからどこまでが引用であるかを明らかにして、自分の著作部分と混同しないこと。3.引用は批評や研究に必要な最小限に留めること。4.改変しないこと。本ウェブサイトでの引用は全てこの要件を満たしていると思います。
この質問はよく寄せられますが、これについては、ものみの塔協会に直接問い合わせてください。このような情報は、ものみの塔や最寄のエホバの証人が喜んで教えてくれるものですので、ここでは掲載しておりません。ちなみに、ものみの塔協会の住所は次の通りです。しかし、電話や電子メールでの問い合わせには応じていないようで、問い合わせの手紙を出すと多くの場合、返事が送られて来る代わりに、最寄の会衆からエホバの証人があなたの家に伝道に来るのが普通です。
〒243-0496 海老名市中新田1271 ものみの塔聖書冊子協会
エホバの証人の人探しは多くあり、どこかに情報があるのではないかと思ってこのサイトにたどり着く方がいます。しかし、エホバの証人の中でインターネットを使ってこのサイトを訪れる人の数は非常に少数であり、人探しの場所には適さないと思います。もしエホバの証人が会衆に登録していれば、本部に問い合わせて聞いた方が確実かと思います。
これも多く寄せられる質問です。エホバの証人は原則として信者同士の結婚を勧めているので、信者でない人間が信者と恋愛し結婚に至るには、複雑で困難な問題がたくさんあります。未信者との恋愛関係も多くの問題があります。まず、信者は婚前の性交渉を禁じれており、デートでは付添い人をつけるように指示されています。また関係が深くなって性交渉の危険がある場合には、きっぱりと断ることが勧められています。これに関しての規則は、ものみの塔の出版物、「若い人が尋ねる」に詳しく書かれているので、恋愛関係に入る前に、相手にこの書籍をもらってよく読んでみるとよいでしょう。よく聞かれる問題は、恋愛関係に入ってから「こんなことは知らなかった」と言って関係がこじれることです。
しかし、その一方エホバの証人のことを何も知らない、信者でもない人間とデートして恋愛関係になること自体、その人間のエホバの証人としての「弱さ」を示していますので、問題は更に複雑化します。すなわち、未信者と恋愛関係に入ったそのエホバの証人には一定の「弱さ」があり、近い将来恋愛の力で信者を辞める可能性が出てくるからです。この場合には、恋愛関係にあるエホバの証人が恋愛と宗教との間で身を裂かれるような苦しい決断に迫られます。このことは、人生の大きな危機であると共に、人生を深く省みるきっかけにもなります。つまり、「本来個人の決断であるべき結婚が、なぜものみの塔という宗教団体によって非人道的に引き裂かれるのか」という疑問は、この宗教の本質である、組織第一、個人は二の次という実態を悟らせるきっかけになるからです。
エホバの証人と恋愛関係に入った未信者の最大の悩みは、結婚を果たし相手や相手の家族を喜ばすために自分も信者になるべきか、という問題です。私は結婚や恋愛を目的として、宗教に入ったり宗教を変えるのは、邪道であり危険であると思っています。第一の問題は、そのようにして入った宗教は長続きしません。そして特にものみの塔の宗教のように、一旦中に入ったら中々出られないような宗教では、この問題は深刻です。最初の熱が冷めて、えくぼに見えていたあばたが、あばたとして見えるようになった時、あなたはこの宗教の実態を知って愕然とするかも知れません。残念ながらその時のあなたの傷の大きさと深さは、この宗教に入っていなかった時に比べて取り返しのつかない位大きなものになっているでしょう。もう一つの問題は、かなりのエホバの証人が、恋愛を信者拡大の手段として意識的にか、無意識的にか、使っていることです。この場合、恋愛関係にあっても、実は伝道の業が愛より優先し、愛を餌にしながら巧みに未信者を宗教に引き込むのです。このような犠牲者の傷の深さがいかにひどいかは、想像に難くないでしょう。
簡単に言えば、伝統的な冠婚葬祭の宗教色を全て取り除くことが最も重要な点です。自分が身につけたり持参したりするもので、神道や仏教やキリスト教の意味や象徴があるものは、エホバの証人が最も嫌いますので、避けることでしょう。それさえ守れば、未信者が参加することは問題がないはずです。
簡単で一律に全ての状況にあてはまるアドバイスはありません。もしかしたら先ずは、あなたが家族の宗教をあなたの一存で簡単に変えられるかもしれないという、あなた自身のナイーブな考えをまず見直す必要があるかも知れません。エホバの証人になるプロセスは、その人の心の根本的な変容を伴っており、普通は家族が説得したり、脅かしたりして元に戻るものではありません。ある人々は、保護説得といって、それを専門にするキリスト教の牧師に頼んで、監禁状態で説得をする方法をとりますが、私はこの方法には反対です。これは「毒には毒を」の考えに似ており、洗脳された人間には逆の洗脳をする必要があるという考えに基づいていますが、私はものみの塔に限らず、全ての人、団体が、人間の脳を操作することに反対するからです。例外は、最初の洗脳が監禁、強迫、薬物などを使って行なわれた場合で、この場合には治療としての「逆洗脳」は必要でしょう。しかし、自由意志に基づいてエホバの証人になった人を、自由意志を奪って改宗させることは、倫理的に意味をなしません。
エホバの証人になった人の多くは、様々な事情から、簡単に辞めることはありません。しかし、家族は信者の行動が家庭の秩序を乱し、ある時は家庭が崩壊することから、どうしても辞めさせたいと思います。ある場合には、エホバの証人の宗教そのものが間違っているという認識から、辞めさせたいと思うかも知れません。いずれにしても、宗教の選択は個人の問題であり、家の問題ではありません。たとえエホバの証人が家庭内で他の宗教を選ぶことを許さないとしても、それを理由に個人の宗教を家の都合で変えさせることは、悪に悪を返す行為であり、私は勧めません。エホバの証人がかたくなにその宗教を守り続ける大きな理由の一つは、情報統制によるマインド・コントロールにあります。一部のエホバの証人は、組織の隠された実態を知らせる文書に目を通すことにより、自分の宗教を再認識して自発的に辞める場合もあります。その意味で私はエホバの証人の間に組織の実態を知らせる情報を広めることが最も重要であると考えています。しかしそのような情報を見ても、変わらずに心をかたくなにするエホバの証人が大多数です。それはそれで、個人の選択として尊重すべきであろうと私は思います。
家庭破壊が起こるか起こらないかは、家庭の状況によって大きく違ってきます。最大の問題は小さな子供がいる家庭で、子供をエホバの証人の偏った教育の仕方で育てたいとする証人の親と、その危険を食い止めたいとするもう一方の親との、夫婦間の熾烈な闘いに発展する場合です。これは一番困難な家庭崩壊の理由であると思います。エホバの証人の妻が家事をなまけて宗教活動をする、家庭の伝統的な宗教行事に参加しない、などの理由は夫婦が互いにある程度譲歩していく限り家庭を続けることはできるでしょう。それに対し、子供をどのように教育するかという問題は、エホバの証人の二世が受けてきた虐待や心の傷、高等教育の禁止などを考えると、譲歩できない問題であり、これについては必要であれば家庭裁判所を通した調停を求めることも仕方がないことであると思います。
エホバの証人の子供たちは、親の宗教によってしつけをされ、その宗教団体、ものみの塔協会が決めた規則に従って全ての行動が規制されています。校歌を歌うことは、国歌の禁止と同様の理由で禁止されています。国歌は、愛国心を称揚するからいけないと教えられていますが、それと同様に校歌は学校を賛美しているからいけないのです。その他応援歌にしろ、何かエホバ以外のものを賛美する内容の歌は全て拒否するでしょう。詳しくは「読者の広場」の2002年4月27日の投書、2004年4月18日の投書を参照して下さい。
多くのエホバの証人は、世間一般の人々と接する時には常識を踏まえていますので、あなたが信頼できる人と見て雇った家庭教師であれば、直に心配することはないでしょう。多くのエホバの証人は、仕事に忠実です。仕事で知り合った人に伝道活動をする人もいますが、仕事と宗教を切り離している人も多くいます。それでも、時にはそっと出版物を渡したり、エホバの証人についての話をそっとする可能性は充分あります。お子さんと対話を絶やさずに、もしお子さんの方の情報から、家庭教師の方が宗教について子供に影響を与えるような言動をしていることが分かったら、直に家庭教師の方と話し合って、宗教に一切触れないことをはっきりと約束してもらうことがいいかも知れません。もちろん、それも心配であるなら、家庭教師を変えることをお勧めします。
今までの人々の経験から、最も簡単で安全な方法は、何らかの理由をつけて集会や伝道の活動を静かに減らしていずれ停止し、不活発化することです。この方法は排斥や断絶と異なり、組織に残る家族や友人との関係を壊すことなく、実質的にエホバの証人の活動を停止することが可能です。また、形式的にでも組織の中にいるために、組織の内情や内部の人々との交流を保つこともでき、あなたの後に続く人々を引っ張ることもできるでしょう。
エホバの証人を辞めた後の第二の人生は、人によって様々です。頭の切り替えが簡単にいく人は、問題が少ないのですが、エホバの証人として叩き込まれたものの見方考え方がいつまでも残っていると、一般人の世界に溶け込むことは困難です。エホバの命令として与えられていた戒律に縛られ、「サタン」の恐怖を感じて組織の命じることを常に気にしながら生きる生活から、自分の頭で独自の判断をして、自分の創意工夫で生きていくという、創造的な人間の生き方に切り替えるのは容易ではありません。多くの人は心の傷を隠して、失われた時間を取り戻すように必死に生きています。私はエホバの証人として得られたものを全て捨て去ることは勧めませんが、時間をかけてでも徐々にエホバの証人として鍛えられた、組織依存の消極的な生き方から、自発的に工夫して人生を切り開く態度を身につけることが必要であると思います。そしてその過程で非常に大きな助けになるのが、同じ道を辿った元エホバの証人たちと情報を交換することです。インターネットはそのような交流を可能にしました。このサイトも幾つかのそのようなサイトにリンクしてありますのでご利用ください。
これは全くその人の宗教に対する見方によることで、一がいには言えません。エホバの証人は辞めたが、聖書は真理であると信じ続け、同じ信仰を持っている人々と直接会って交流したい、という気持ちの人は、キリスト教の教会の門を叩くのがいいでしょう。一方、聖書の言葉を信じてはいても、現代の組織化した宗教に失望し、より個人的な信仰を求める人、あるいはエホバの証人の経験から「もう宗教はこりごり」と感じる人は、単に宗教の「乗り換え」をしても失望に陥るだけであり、お勧めしません。
ものみの塔の出版物やCDは、ものみの塔の宗教を研究する人々にとって、それはその宗教に賛成するか反対するかに関係なく、貴重な資料になります。物置の奥にでもしまっておける場所があれば、とりあえずは廃棄処分にしないことをお勧めしています。しかし、日本の住宅事情を考えるとそれほどの余裕のある人もそう沢山はいないようで、廃棄されることも多いと思います。引き取り手を探すのには、このウェブサイトの読者の広場で提供を申し出られるのも一つの方法です。その際は、どうか直接の連絡方法を記載して下さい。古い文書を提供したいが、あくまで匿名でメールアドレスも電話番号も明かすことが出来ない場合、提供者と希望者がうまく出会う可能性はここでは難しいと思います。他のメーリングリストなどを使うのも一つの方法かもしれません。
編集者は特定の宗教団体に属していません。編集者は神を信じていますが、その「神」の概念と「信じる」という行為の内容が他の人々と異なるかもしれません。なお、編集者の神に関する見方は、最近単行本に書いて「神の神経学」という題名で出版しましたので、興味があったらお読みください。
編集者は、宗教は究極的に個人一人一人の問題であると固く信じています。歴史的に見て宗教は部族に属したり、国家や政治指導者に属したり、宗教団体に属したりしてきました。ものみの塔宗教を初め、幾つかの組織宗教は、団体に属する宗教を推進しています。しかし古代ユダヤの部族宗教が、世界の様々な形の宗教に発展していったように、組織化した宗教はいずれ衰退し、個人個人が様々な形で様々なものを信じながら生きていくようになると思います。この傾向は、イエスキリストとパウロの時代に始まり、宗教改革を経て、現代に至り、その結果、無数の宗教・宗派が林立しています。宗教の多様化は歴史の流れなのです。ものみの塔はこの時代の流れに逆行し、独善的排他的「神権組織」を築いて強固な古代の組織宗教と同じ物を現代の世界に実現させようとしています。これはキリストとパウロ以来の二千年のキリスト教の分散個別化の歴史(ものみの塔はこれを「背教」の歴史と考えます)を無視した時代錯誤の盲動であり、ここにものみの塔の基本的な問題が内在すると考えます。編集者はまた、現代の世界に静かに広がる宗教合同(エキュメニカル・ムーブメント)をもう一つの重要な動きと考えます。個別化し、最終的には個人化する宗教は、その一方で異なるものを信じる人々との平和的友好的対話と意見の交換があって、初めて共存できます。宗教の個別化と個別化した各宗教を尊重しあう宗教合同の動き、これはものみの塔の宗教にとっては最も忌み嫌われることでしょうが、私はこれが今後の宗教の進むべき道と考えます。編集者の宗教観についても、上に紹介した「神の神経学」の本を参照して下さい。
編集者の家族の宗教とその生活に関しては、それを公表する了解を家族の者から得ていませんので出来ません。私の家族の人権は、たとえ妻や子供でも私が勝手に踏みにじることは出来ないからです。私には彼らのプライバシーを保護する義務があると思っています。このサイトが多くの人々の訪問する公のサイトとなり、編集者の名前も知れ渡るにつれて、完全な匿名で私の家族の状況を明らかにすることが出来なくなりました。従って、編集者の家族関係に関しての公表は控えさせて頂きます。
宗教は人間の基本的な営みと編集者は考えています。それは人間の脳に深くプログラムされた一つの行動パターンであり、それだからこそ、どの人種にも世界のどの地域にも宗教はあり、それらの行動パターンは非常によく似ているのです。 従って、編集者は特定の宗教団体に属したりそれを勧めたりするより、人々が夫々の自分の経験と知識とに基づいて自分の信仰と生き方を選び、それらの人々が様々な形の宗教合同によって「集まりあう」姿が、今後の宗教のあり方ではないか、と考えています。
進化は重力と同じように、科学で検証できる確立された事実です。もちろん、全ての科学の理論と同じように、その全てが解明されてはいません。これも重力とおなじ状況です。創造論は宗教の教義であって、進化と対比して論じるべきものではありません。創造論は本来、天国や地獄や復活などと同じようにあくまで宗教の「形而上」概念として扱われるべきものですが、ダーウィンを先頭とした科学の進歩に脅威を感じた宗教指導者たちが(ものみの塔協会はその典型ですが)、自分たちの心の整理ができずに科学に攻撃をかけたのが、現代に至る創造論者の進化論への攻撃になっているのです。ダーウィンを初め、進化の研究者は何も意図的に宗教を攻撃はしてきませんでした。科学の事実がそのまま物語る事柄が、宗教指導者の感情を苛立たせ、進化の研究者に対する熾烈な攻撃に走らせたと言えるでしょう。もちろん、その攻撃が感情的になればそれに対する反論も出てくるわけで、そこに創造論への批判もまた盛んになってきました。 創造論は宗教の教義であり、すなわち神話です。神話も神への信仰も、これは全て「形而上」の問題であり、生物学や物理学などの「形而下」の問題とは本来かけ離れているべきものです。しかし、ものみの塔宗教の指導者を初めとするいわゆる「創造論者」は、「神話」を「神話」として受け入れることが何か悪いことのように感じています。なぜか聖書の内容が科学と一致していることを証明したくて躍起になっているのです。その裏には聖書のメッセージを形而上のものとしてそのまま信じられず、神話を神話として受け入れられず、科学の裏づけがあって初めて信じられるという、「形而下」の「信仰」(つまり神への信仰は数学の証明と同じ次元にしかありえない)しか持ち合わせていないことが根底にあるのだと思います。