エホバの証人の教義 第二部 教義の歴史的解説


《 目次 》
  1. 統治体が『忠実で思慮深い奴隷』であり、全てのクリスチャンに真理を与える
  2. 14万4千人の「小さな群」と「大群衆」の信者二階級制度
  3. 新約の「新しい契約」は14万4千人の「小さな群」にのみあてはまる。イエス・キリストは大部分のエホバの証人にとってエホバとの仲介者ではない。
  4. 1914年に基づく終末論と年代計算の教義
  5. 神の名
  6. 被造物であるイエス・キリスト
  7. 聖霊、サタン、死後の状態
  8. 復活
  9. 血液を避ける
  10. 生命に関して
  11. バプテスマ、主の晩餐
  12. 家から家への宣教
  13. 世から離れていなさい
  14. 上位の権威に服する
  15. 偶像崇拝、十字架、キリスト教のシンボルと行事、心霊術

 エホバの証人の教義第一部ではものみの塔の出版物にまとめられている教義を列挙して見てみたが、このページでは主要な教義を大きな項目にまとめ、歴史的な解説を加えてみたい。

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統治体が『忠実で思慮深い奴隷』であり、全てのクリスチャンに真理を与える

 エホバの証人の教義第一部の冒頭で述べた通り、もしエホバの証人の教義の最も重要なものを一つだけ取り上げなければならないとしたら、この『忠実で思慮深い奴隷』の教義を挙げなければならない。なぜなら他の教義は全てこの『忠実で思慮深い奴隷』級の人々から出ており、もしこの教義が崩れ去るとすると、これにかかっていた多くの教義もまた崩れ去ることになるからである。

 この教義はこの宗教の創始者、ラッセルが最初に作り上げ、マタイ24:45−47のイエスが話したたとえ話に基づいている。この教義によれば、ラッセル自身がこのたとえ話に出てくる『忠実で思慮深い奴隷』であり、主人であるイエスから、その召使いたちにあたるクリスチャン会衆に「時に応じて食物を与える」、すなわち聖書の真理を与えるように特別に任命された人間である、と教える。その後この教義には修正が加えられ、現在ではこの『忠実で思慮深い奴隷』は、ニューヨーク・ブルックリンにあるものみの塔聖書冊子刊行協会の最高機関である統治体をさすことになっている。

 確かに『忠実で思慮深い奴隷』が特定の個人から十数人からなる男子の集団には代わったが、ある少数の人間に神と信者の間を仲介する唯一の「神の経路」としての特別の権威を与え、聖書の解釈を「時に応じた食物」あるいは「新しい光」として、唯一の源として信者に分け与えていくこの宗教の根幹となる構造は、いささかも変化していない。ものみの塔協会は『忠実で思慮深い奴隷』も時に間違いを冒すことがあることは認めるが、その一方では公にその間違いを指摘することを厳しく禁じている。例えば、前会長であるフレデリック・フランズは、1954年に彼が裁判所で宣誓の下で行った証言の中で、エホバの証人はたとえ間違った教義であっても、統治体から出た教義は真理として受け入れない限り、エホバの是認を受けないと述べている。1967年に至ると10月1日のものみの塔誌の中で、聖書はものみの塔協会に属する本であり、個人がどんなに真剣に研究しても組織(すなわち統治体)の助けがなければ正しい解釈ができない、とまで言い放っている。この教義は、マルティン・ルターの宗教改革の時代にローマカトリック教会が、宗教改革の動きをけん制するために出した宣言の内容、すなわち聖書は個人で勝手に解釈してはならず、聖書の解釈はすべて聖なるカトリック教会から出なければならない、という教義と酷似している。エホバの証人がその歴史の中で一貫して最も批判してきたカトリック教会が、聖書の解釈の独占的な権威に関しては、全く同じ教義をエホバの証人のずっと前から教えていたことは何と皮肉なことであろうか。

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14万4千人の「小さな群」と「大群衆」の信者二階級制度

 エホバの証人はよく、自分たちの宗教にはキリスト教のような僧職者と平信徒の区別がないことを強調し、誇りとする。しかし、その実、エホバの証人の組織はカトリック教も顔負けの細かな階層からなる指導組織がある。そしてその最もユニークな階層制度はこの信者を大きな二階層、14万4千人からなる「油塗られた者」、あるいは「小さな群」、「キリストの体」などと称される特別の選ばれた信者と、その他大勢の「大群衆」、あるいは「ほかの羊」に分けることであろう。この14万4千人という数字は啓示7:4−8に基づいており、そこではイスラエルの12の部族から1万2千人づつが集められて14万4千人になっている。しかしエホバの証人はこの12部族を文字通りのユダヤ人部族を示してはいないと解釈し、従って14万4千人は肉的なユダヤ人ではなく「霊的ユダヤ人」すなわちエホバの証人の「油塗られた者」を指すと教える。それではなぜ、それらの文字通りでない12の数に1万2千をかけたかけ算の結果である14万4千だけを厳密に文字通りと解釈するのだろうか。ものみの塔協会の教義によればこれは次のように説明される。この14万4千人が述べられたすぐ後の啓示7:9では「だれも数えつくすことのできない大群衆」と書いてある、この「数えつくすことのできない」ものと対象的に14万4千という数字があげられているのであるから、これは実数に違いない、もし14万4千も象徴的な意味なら「数えつくすことのできない」ものと対象して正確な数字をあげるはずがない、というものである。(ものみの塔1966年3月15日号(英文)183頁)

 この14万4千人の「油塗られた者」級の人々は紀元33年以来、天に集められており、1935年以来、14万4千の定員は締め切られ、後は地上に残っている者たちが死んで天に上げられつつあると、エホバの証人は信じる。この地上に残った者、あるいは「油塗られた者の残りの者」は現在7千人近くが生存しており、毎年春の記念式の時の表象物にあずかる者の数として示されている。

 天において復活し、イエスと共に神の王国を支配する、これらの14万4千人の少数の特別なエホバの証人に含まれない、大部分のエホバの証人は「大群衆」あるいは「地上級の人々」(これに対し14万4千人は「天的級」とも言われる)と呼ばれる。彼らは天でイエスと一緒になれる希望は一切なく、その代わり地上の楽園で永遠に生きることが約束されている。これらの大群衆は組織の中で「油塗られた者」に対して常に従属的な位置に置かれる。例えば統治体の成員はすべてこの「油塗られた者」から成り、大群衆級の者は統治体に入る希望は全くない。

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新約の「新しい契約」は14万4千人の「小さな群」にのみあてはまる。イエス・キリストは大部分のエホバの証人にとってエホバとの仲介者ではない。

 新約聖書の教義の根幹となると考えられている「新しい契約」はエホバの証人の教義の中では独特の解釈が与えられてきた。創始者ラッセルは、新しい契約は、全ての教会のメンバーが地上で死に、天でキリストと共になった後で、生まれながらのユダヤ人に当てはまる契約と解釈していた。二代目の会長ラザフォードはこれを変更し、新しい契約は「教会級」のエホバの証人と結ばれた契約であると発表した。1934年、ラザフォードはその著書、「エホバ」の中で「新しい契約の目的は人類の救済ではなく、エホバの名前の証人となる人々を選ぶためである」と書いた。それ以来、イエス・キリストはエホバの証人の中の14万4千人の「油塗られた者」のみにとって、エホバ神との仲介者であり、その他大勢のエホバの証人である「大群衆」には、神との仲介者がいないというのがエホバの証人の教義となっている。例えば1986年に出版された『「平和の君」のもとで得られる世界的な安全』の10ページでは「 同様に、大いなるモーセであられるイエス・キリストは、エホバ神と全人類との間の仲介者ではありません。キリストは天の父エホバ神と、わずか14万4,000人の限られた成員で成る霊的なイスラエル国民との間の仲介者です。」と書かれている。

 この「大群衆」が新しい契約の外に置かれているという教義は、その救済の教義にもはっきりとした違いを示している。この大群衆級の人々にはパウロが繰り返し説いた「信仰により義と宣せられる」ことも「神聖な者とされる」こともない。これらは全て14万4千人の「油塗られた者」にのみあてはまり、その他大勢の「大群衆」の救済は遠い将来におあずけとなっている。彼らは自分たちの信仰の業により先ずハルマゲドンを無事通過しなければならない。その後、キリストが王として支配する千年王国の間に、彼らは自分たちの完全な義を維持しなければならない。そしてこの千年王国の後に来る最終的な裁きの日には、サタンとその手下が再び放たれ、大群衆は再度試されなければならない。ここでサタンの誘惑に負ける者はもちろん永遠の死に追いやられる。そしてこの長年の試練をを通過して始めて、大部分のエホバの証人は救済を受けることになる。これに関しては1966年に発行された「神の自由の子となってうける永遠の生命」の391頁に次のように明快に述べられている(英文からの訳)。

全能の神の大いなる日の戦闘に生き残った「大群衆」は千年統治の間に、肉の体の中に絶対的な義と完全性を得ることになるでしょう。彼らはその永遠の父であるイエス・キリストを通して完全な人間の子供となろうとします。(イザヤ9:5、6)そのような訳で彼らは、14万4千人の天的な共同相続人たちが肉の体にあるうちから義とされたのと異なり、現在あるいはその時(ハルマゲドン後−訳注)に正しいとされたり義と宣せられることはありません。「大群衆」は人間から霊的な存在へとその性質を変化しませんので、信仰によって義と宣せられることも、14万4千人の「選ばれた者」に必要とされる帰負された義も必要ないのです。

 このことは大群衆が神の恩恵によって無償の救済を受けることはなく、むしろ大部分のエホバの証人にとっては、自分で良い業を行い続けて長年かかって自分の救済をかちとらなければならないことを意味する。このような一見希望の薄い彼らの将来は、しかし間近に迫ったハルマゲドンとその直後に始まる苦しみも死もなくなる地上の楽園の希望によって、エホバの証人の心の中では帳消しになっているように見える。

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1914年に基づく終末論と年代計算の教義

 1914年という年代は最初、この宗教の創始者であるラッセルにより、異邦人の時の終わりとハルマゲドンの始まりとして設定されていた。この年に第一次世界大戦が勃発すると、最初はラッセルもその信者も、みな予言が成就されたとして、この年代計算の教義の正しさを確信した。しかし、この年にハルマゲドンは起こらず、それに続いて起こるはずの事柄も起こらなかった時、エホバの証人は教義の変更を迫られることになった。しかしそれまでに捨て去られた年代設定と異なり、1914年は第一次世界大戦とそれに続くものみの塔指導部の危機を示す重要な年であり、新たな教義作成の上で捨てさることは出来なかった。ここに1914年の「再利用」が次の教義作成で行われることとなった。1914年以後の約7年間の混乱期を経て現在の年代計算の基礎となるラザフォードの年代計算が1914年を再利用する形で登場する。

 1914年という年は、現在のエホバの証人の教義の中で中枢をなす教義である。現在の教義では1914年に異邦人の時は終わり、マタイ24:3−14の「終わりの時」が始まったことになっている。そしてこの「終わりの時」は1914年の出来事を目撃した世代の人間が死ぬ前に終わりハルマゲドンとなる、というのがごく最近までの教理であった。しかし1995年11月の「新しい光」による教義改訂でこの「1914年の出来事を見た世代」の教義は廃止された。ここにエホバの証人の歴史始まって以来、初めてハルマゲドンが何時来るかを特定する教義がなくなった。現在のエホバの証人の教義ではハルマゲドンは「間近」であるが、どの位間近かは一切述べていない。

 次に現在のエホバの証人の教義で鍵となる年代計算を見てみよう。

現在のエホバの証人の使う年代計算

紀元前4026年

アダムの創造

紀元前 607年

バビロニアのネブカドネザル王によるエルサレムの陥落と「異邦人の時」の始まり

紀元前 455年

エルサレムの再建の命令が出され、ダニエル9:25のメシアの出現を予言する「69週」が始まる(1週を7年と計算する)

紀元   29年

キリストの洗礼、ダニエル9:25の成就

紀元   33年

キリストの処刑

紀元   36年

紀元前455年に始まったダニエル9:24の「70週」の終わり、異邦人への宣教の開始

紀元 1914年

(10月)「異邦人の時」が終わり、イエス・キリストによる天の王国のと「終わりの時」が開始する

紀元 1914年

(12月)ダニエル7:25、12:7、啓示11:3で予言されている1260日間の開始、ものみの塔宗教の困難な時代の開始

紀元 1918年

(6月)ラザフォード釈放され、1914年から1260日間の予言が成就される、キリストは裁きを行うためにエホバの神殿に入る

紀元 1919年

大いなるバビロン倒れる

紀元 1975年

アダムが創造されてから6千年が終わり7千年目が始まる

 参考までにこの年代の教義が、この宗教の創始者ラッセルのものからどれだけ変化したかを見てみよう。

ラッセルの使った年代計算

紀元前1813年 

イスラエル国家の開始

紀元前 606年

バビロニアのネブカドネザル王によるエルサレムの陥落と「異邦人の時」の始まり

紀元前 454年

エルサレムの再建の命令が出され、ダニエル9:25のメシアの出現を予言する「69週」とダニエル8:14に予言された2300日が始まる

紀元   29年

キリストの洗礼、ダニエル9:25の成就

紀元   33年

キリストの処刑

紀元   36年

紀元454年に始まったダニエル9:24の「70週」の終わり、異邦人への宣教の開始

紀元  539年

キリスト教世界教皇支配の始まり、ダニエル7:25、12:7で予言されている1260日、ダニエル12:11で予言されている1335日の始まり(一日を一年と計算する)

紀元 1799年

紀元539年に始まった1260年の終わり、教皇はナポレオンにより低められる

紀元 1846年

紀元前454年に始まった2300日の終わり、偽りの教義を暴く「聖所の浄化」がジョージ・ストールによって始められる

紀元 1873年

人類の創造から6千年が過ぎる

紀元 1874年

紀元539年に始まった1335日の終わり、キリストの見えない形での再臨(パルーシア)と「収穫」の始まり

紀元 1878年

キリストが王となり死後眠っていた聖徒たちが復活してくる

紀元 1881年

「小さな群」あるいは14万4千人の聖徒の召集の終わり、大いなるバビロンの終わり

紀元 1914年

「異邦人の時」の終了、大艱難からハルマゲドンに至る、ラッセルたちは直ちに天に上げられる

 

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神の名

 エホバの証人は聖書の神を「エホバ」(Jehovah)という名前で呼び、この名を広めることが神(エホバ)を愛し、そのご意志を行うことになると信じている。この名はヘブライ語の4文字、YHWHを、エホバの証人以前の聖書翻訳者たちが英語のアルファベットをあてはめて作ったものであるが、エホバの証人はこれを絶対的に使わなければならない名前としている。しかしイエス・キリストの新約聖書の時代には、ユダヤ人たちは神に対する畏れから、実際にはこの4文字YHWHは発音して用いられず、その代わりに称号である「アドナイ」や「クリオス」が使われていた。これがエホバの証人以外の大部分の聖書で採用されている「主」と訳される言葉である。エホバの証人の訳した聖書はこれらの「主」と訳されるべき言葉までも「エホバ」に置き換えている。

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被造物であるイエス・キリスト

 エホバの証人の教義の中でのイエス・キリストの占める役割は、キリスト教の場合とは大きく異なっている。エホバの証人はイエスがあくまでエホバの被造物で、エホバの代弁者、これまでに生存した最も偉大な人間、あるいは天使の頭と見て、キリスト教の三位一体における神と同等の立場にあるイエス・キリストを完全に否定する。イエス・キリストが完全な形で生まれるために、エホバの証人はマリアの処女懐胎も文字通り信じる。一方エホバの証人はキリスト教と同様、イエスがアダムの罪の贖いの犠牲のために地上の命を放棄したことを信じる。また彼らは、1914年以来イエス・キリストは目に見えない形で再臨し、この邪悪な世の中で来るべきハルマゲドンの準備をしている、と信じている。しかし最近の教義の変更ではイエスは、ハルマゲドンで生き残るもの者と滅ぼされる者とを振り分ける仕事はまだしていないことになった。

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聖霊、サタン、死後の状態

 聖霊は「神の活動力」で、エホバがメッセージを伝えたり、何かを起こそうとする時に使われる。これは決して人格ではないとエホバの証人は信じる。  エホバの証人はまた悪魔の存在を信じ、悪魔がエホバの証人の社会以外のこの世の中を支配していると信じている。それゆえ、彼らはこの世の中に対しては常に懐疑的であり、この世から常に離れることが大事であると信じている。

 人が死ねばその魂も死ぬというのがエホバの証人の教義である。エホバの証人は死後の不滅の魂の存在を否定する。大部分の人は死後「共通の墓場」で眠った状態に置かれ意識はないが、ハルマゲドン後復活できる希望がある。エホバの証人は地獄の火や煉獄を信じない。啓示の書に出てくる「火の湖」は、永遠の責め苦を意味するのでなく、救いようのない悪人(その代表はキリスト教の僧職者とエホバの証人をやめた「背教者」)が直ちに送られる第二の死、つまり永遠の消滅である、と解釈する。

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復活

 エホバの証人はキリスト教の教えるイエス・キリストの肉体の復活を信じない。彼らはイエスの肉体は消滅し、その後再創造されたと考える。下に解説するように、エホバの証人はハルマゲドン後、多数の過去に死んだ人間たちが地上に復活してくると信じるが、これも完全な体に再創造されて地上に出てくることになるという教義である。

 ものみの塔の出版物は長年の間、どのような人間がどのような時点でどこで復活するか、あるいはどのような人間は復活の見込みが全くないかを細かに述べてきた。しかし、これらは余りにも複雑でしかも目まぐるしく変化してきたため、ベテランのエホバの証人でさえ、完全な答が分からない場合がある。

 先ず14万4千人の「天的級」の人々は天で直ちに霊的存在として復活し、天のキリストの王国を受け継ぐ。これらの者には肉体的復活はありえない。またハルマゲドンが来た時点でエホバに忠実である者たち(これはエホバの証人であることと実質的には同じことであるが)は死なずにハルマゲドンを通過して地上で永遠の(肉体の)命を得る。問題はそれ以外の者たちが復活するか、しないかの問題である。現在のエホバの証人の教えは、ハルマゲドン後の千年王国ではエホバに義とされた者も、義とされなかった者も、ハルマゲドン以前に死んだ者はこの期間に復活して来ることになっている。

 しかしこの教えにも多くの例外がある。まずハルマゲドンの時点でエホバに忠実でないものには永遠に復活の希望はない。過去においてエホバに忠実でなく、あるいは邪悪な者と考えられていた者たちは復活するのだろうか。一貫しているのはキリスト教世界の聖職者(「不法の人」級)とエホバの証人の背教者には、どのようなことがあっても復活の望みがないことである。これらの人々はイエスを裏切ったイスカリオテのユダと同様、第二の死、すなわち永遠の消滅に送られる。一方、単にエホバの証人の教えを受け入れずに過去において死んだ人々には復活の希望がある。(ハルマゲドンの時点でこれを受け入れていない人間にはこの希望はない。)

 一番混乱が見られる教義は、過去の聖書に登場するアブラハムなどの聖徒がいつどこで復活うるか、ソドムやゴモラなどの邪悪な人々が復活するかどうか、であろう。今の教えは、これらの聖徒はハルマゲドン後地上に復活することになっているが、1935年から1950年までの間はこれらの聖徒に復活の希望はなかった。また1935年以前にはこれらの聖徒たちはハルマゲドンの始まる前に地上で復活するとも考えていた。ソドムとゴモラの不道徳な行為により殺された人々にも復活がある、というのが1879年以来の教義だったが、1952年、これらの不道徳な者の死は永遠であると変更された。しかし、1965年のものみの塔誌の一連の記事を通じて、この教義は再び変更され、これらの人々は警告として殺されたのであるから復活の希望はある、と教えた。しかし1988年この教義は再度変更を加えられ1952年当時と同様、ソドムとゴモラの人々には永遠の死しかないと結論している。

 子供を生まないで死んだ過去のエホバの証人は、地上の楽園で復活後子供を作れるのだろうか。これについてもものみの塔誌の教義は変化している。この教義は「終わりの時」にある、子供を作れる可能性のあるエホバの証人たちにとって重要な問題である。1943年に発行された「真理は汝らを自由にすべし」の中では、ハルマゲドン後に復活してくる者たちは結婚して子供を作ることが出来る、と述べている。これに対し1961年のものみの塔誌では天における復活でも、地上の楽園での復活でも、復活後には結婚も子供を作ることもなくなる、と教え、更に夫婦で復活した場合でも、復活後は夫婦ではなくなると教えている。

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血液を避ける

 エホバの証人のよく知られた、しかも一般の人には理解が難しいのがこの血の掟である。これは創世記9:4、レビ記3:17、7:26、17:10−11、19:26、並びに使徒15:19−20、28−29に基づいている。エホバの証人の解釈の特徴は、血を食べることを禁じているこれらの聖句を現在の医療行為の中で行われる血液、血液成分を使った治療行為にそのままあてはめることである。従って、エホバの証人は輸血のみでなく赤血球、血小板などの注入も拒否する。1951年以来厳密に執行されているこの教義は、長年の間に更に「細則」が出来上がり、現在では一般のエホバの証人がすぐには思い出せないくらいの複雑な規則となっている。この筆者が医師として遭遇するエホバの証人の患者も、血液に少しでも関係する治療法についてはまず自力で判断できる者はいない。たいていの場合、エホバの証人の患者はその治療法の詳細な情報を得た後、長老ないし会衆の指導者の判断をあおがなければならないのが現実である。

 例えば、自分の血液を貯蔵しておいて後日の手術の時に使う方法は、輸血にともなう感染やアレルギー反応を回避するのに非常に有用な方法で、最近では広く使われているが、エホバの証人にはこれは許されない。しかし一方、人工心肺を通して機械の中を通過して来た後自分の体に注入される血液や、手術野の出血を吸引で集めて自分の体に戻すことにより出血量を減らすことは許される。

 また全血や血液の細胞成分、血漿のの注入は禁じられているが、血清や血液凝固因子の使用は禁止されていない。しかし医学のある程度の専門知識のない一般人が、どれだけ血漿と血清の区別がつくのであろうか。(医師である筆者の見方では、これらは肉眼でただちに識別するのは容易ではない。)従って血友病の患者が長期にわたり出血傾向をとめるために定期的に凝固因子を注入されることは許されるが、急性の消費性凝固障害で早急に出血をとめるためのFFP(新鮮凍結血漿)を注入されることは許されない。

 一方、献血はどんなことがあっても許されない。しかし、エホバの証人である血友病の患者は凝固因子の注射を受けるし、Rh不適合妊娠による胎児の障害を予防するためRh因子に対する抗体を母体に注射することも許されているので、エホバの証人といえども血液製剤による治療を拒否しているわけではない。その結果、奇妙なことにエホバの証人の血液製剤による治療は全て、エホバの証人以外の「世の人」の献血によってまかなわれているのである。

 この血の掟は更に人間の医学以外の面でも、エホバの証人の日常生活に影響を与えている。例えば、ペットに血液の入ったペットフードを食べさせてはならないし、ペットに輸血してもならない。エホバの証人である農民は血液の入った肥料を使ってはならない。これらに違反することはエホバの法を破ることになるとものみの塔協会は規定している(ものみの塔誌1964年2月15日号127頁、英文版)。

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生命に関して

 エホバの証人は生命を尊重することを教義としている。それ故、彼らは一貫して戦争に反対し、戦争に加担する行為を一切しないし、人工妊娠中絶に反対する。しかし、その理由は必ずしも他の宗教の平和主義、生命尊重と一致はしてはいない。エホバの証人の理由は生命維持を第一にしているというより、むしろそれらの生命を奪う行為がこの世のサタンの支配する勢力に加担するからという理由の方がつよい。従って彼らは、ある面では意外に生命に対して割り切った見方をする。たとえば、エホバの証人は重い犯罪を犯した者を死刑に処するのは当然であるとし、正当防衛のためなら人を傷つけることも正当化されると教える。血を受けずに失血死をとげることは推奨されている。

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バプテスマ、主の晩餐

 バプテスマは全身を水に浸けて行われなければならない。バプテスマの前にはキリスト教の教理問答に似た多数の質問に答えてエホバの証人のその時点での教義をマスターしていることが要求される。エホバの証人のバプテスマでは、更に次の二つの質問に肯定の返答をしなければならない。

  1. イエス・キリストの犠牲の上に、あなたは自分の罪を悔い改め、あなた自身をエホバのご意志を行うために捧げますか?

  2. あなたの献身とバプテスマは、あなたが神の霊に導かれた組織とかかわるエホバの証人の一人として確認することを理解しますか?

この二つの質問は1985年、それまで使われていた次の質問に換えて新たに作られたものだった。この新しい質問と古い質問を慎重に比較すると、エホバの証人のバプテスマの持つ意味が微妙に変化したことがわかる。1985年まで使われていた古いバプテスマの質問は次の二つである。

  1. あなたはエホバ神の前に自分が救いを必要としている罪人であることを認め、この救いは父であるエホバから子であるイエス・キリストを通して来るものであることを確認しましたか?

  2. この神への信仰と救いの計画にもとづいて、あなたは霊の教えと聖書とイエス・キリストを通して明らかにされてきた神のご意志を行うために、無条件で自分自身を捧げてきましたか?

 この比較から明らかなことは、最近の変更により、バプテスマが神とキリストに対する一般的なものから、それに加えてその個人を、組織の一員として確立するものであることを確認している。つまり、1985年以降のバプテスマは信仰の告白というより「組織への加入」という色彩が強められている。

 主の晩餐、あるいは記念式は、旧約聖書の過ぎ越しの祭りの日、つまりニサン14日に行われる。しかし、この日はものみの塔協会の理解したユダヤ教のカレンダーに基づいて行われるため、必ずしもユダヤ人の祝う過ぎ越しの祭りとは一致しないこともある。この式ではキリストの体を象徴するパンと血を象徴するワインが「表象物」として参加者の間に回される。この表象物にあずかる、すなわちパンを食べてワインを飲むということは、その者がキリストの体の一部、すなわち教会、あるいは「油塗られた者」、言い換えれば14万4千人の一人であることを意味する。

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家から家への宣教

 エホバの証人にとって最も重要な宗教活動がこの「家から家への宣教」である。これにより「王国の良いたよりを全地にのべ伝える」ことが彼らの最大の義務と考えられている。この仕事が個々のエホバの証人にとってどれだけ重要かは、1979年7月15日のものみの塔誌14頁(英文版)の次の文章を読めば分かるであろう。『「この王国の良いたより」をのべつたえ続けるわたしたちの忍耐により、わたしたちは救いに到達するのです。』確かにものみの塔協会は、パウロが繰り返し教えた「信仰により義とされる」「信仰によって救済される」という教えを否定はしていないが、一方現実には「業により義とされる」「のべつたえの業により救済される」というのがものみの塔の教えの中心となる。そしてこの教えがエホバの証人の飽くことのない熱心な戸別訪問の原動力となっている。

 この家から家への宣教は、間近に迫ったハルマゲドンに備えてキリストが行っている、「羊」すなわちエホバの証人の訪問を受けてその教えを受け入れハルマゲドンを通過できる人たちと、「やぎ」すなわちエホバの証人の訪問を受けてもその教えを受け入れず来るべきハルマゲドンで永遠の死においやられる人たちとを仕分ける、「羊とやぎを分けるしごと」を実行していることであると、ものみの塔協会は教えていた。しかし1995年の教義の変更によるハルマゲドンの時期の先延ばしにより、この教義にも変更が加えられた。現在の最新の教義では、今まで行われてきて現在も行われているエホバの証人の戸別訪問活動はもはや「羊とやぎを分けるしごと」ではないと教えられている。

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世から離れていなさい

 一般のエホバの証人の日常生活に日常的に影響を与えるのがこの「世から離れる」の教義である。サタンの教義で述べたように、エホバの証人の基本的理解は、現在の世界はサタンの支配する、滅びつつある世界である、というものである。この理解は次の二つの基本的態度をエホバの証人の間に植え付けている。第一にこの世の中の多くの事柄に参加することは、自分たちがサタンの悪い影響を受けることになるから、出来るだけ「この世」の様々な活動から離れなければならない、そして第二にこの世の中は滅びつつある救いようのない世の中であるから人間の努力により世の中をよくすることは無駄であるという態度である。

 エホバの証人は今の政治はサタンの支配するものであるから政治には一切参加しない。彼らは一切の投票に参加しないし、選挙で選ばれる政治職にはつかない。エホバの証人はこれを「政治的中立」というが、実際にはその時その時の権力を握る政治勢力に対して、自分たちの宗教活動が許されている限りは迎合していくのがその態度である。従って、第二次世界大戦前のドイツでヒットラーが近隣諸国民やユダヤ人に対して蛮行を繰り広げている時でも、ものみの塔の指導部は、自分たちの宗教活動の自由を保証してもらえるのならヒットラーに協力すると申しいれている。彼らがヒットラーに反対して迫害を受けるようになったのは、ヒットラーがあくまで、ものみの塔協会の活動を合法化しなかったことにあるのであって、ものみの塔協会がヒットラーの政治方針に反対したわけではなかった。

 エホバの証人はまた、戦争参加を拒否する。徴兵制度のある国ではエホバの証人の男子はこれを拒否することを教えられ、その結果投獄されるエホバの証人も少なくない。しかしエホバの証人の戦争参加拒否は上に述べたように戦争を推進する政府に反対することは意味しない。たとえばメキシコでは長年の間、兵役を回避するためにエホバの証人がわいろを使うことを統治体は容認してきた。

 歴史的に見るとものみの塔宗教の創始者ラッセルは、兵役は望ましくないが、もし政府が要求してくるのなら拒むことはしないように教え、非戦闘的な病院勤務を勧めていた。しかし第二次世界大戦の頃から「世に妥協しない」強硬路線の一環として、非戦闘代替勤務をも拒むことがものみの塔協会により教えられた。多くの先進国では良心的兵役拒否者を考慮して非戦闘代替勤務、特に病院勤務を選ぶことが許されてきたが、多くの国でエホバの証人はこれをも拒否し続け、投獄され続けた。前統治体構成員であったレイモンド・フランズによれば、少なくとも1977年にこの問題は統治体で取り上げられ、半数以上の構成員は非戦闘代替勤務は許されるべきであると考えたが、必要とされる三分の二の票が得られず、当時の新しい光(教義)となることはなかった。しかし19年後の1996年5月1日のものみの塔誌で非戦闘代替勤務を受け入れることが、ラッセルの時代に戻って許されることになった。その19年間のあいだ、半数以上の統治体の構成員が不必要であると考えていた代替勤務拒否は、不変の真理としてエホバの証人の社会を規定し続け、数え切れない多数のエホバの証人がこの教義に基づいて投獄されたのである。

 エホバの証人の「世から離れる」その他の規定には、国旗に対する敬礼の拒否、国歌斉唱の拒否、祝祭日への参加の拒否、格闘技の拒否などがあげられる。これらの「世から離れる」規定の数々は、実際に「世」の中で生き、社会の構成員として学校や会社に毎日のように行っている者にとっては特に困難な課題である。その最も顕著なものはエホバの証人の子女が「世の子供たち」と否が応でも一緒に生活せざるを得ない学校教育で最大の問題となる。学校の共同生活の中で繰り広げられる多くの活動は上に述べたような多くの「世」の活動が入ってくる。ものみの塔協会のこの問題に対する対処の仕方はいくつかある。子供と親たちの学校活動への参加を必要最小限にする、学校教育、特に高等教育は今のハルマゲドン直前の滅び行く世の中の出世に役立つだけの空しいものであるとしてあきらめさせる、世の中に文書を配布してエホバの証人に特別な扱いをするように頼む、そして数多くの裁判によって自分たちの特殊な立場を「宗教の自由」の名目で争う、などの活動が行われてきた。

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上位の権威に服する

 上に述べたように「政治的中立」をうたうものみの塔協会はローマ13:1に基づいて、上位の権威、すなわちその時の政治権力に対し、エホバへの忠誠が損なわれない限り、服従するように教えている。しかし、上に述べたように彼らは政治的見識も批判力も持ち合わせないから、この教えは結局、自分たちの宗教活動を妨害せず自分たちの宗教の自由を認めてくれる限り、どのような政治権力であっても時の権力に無批判的に迎合することを意味する。

 このローマの13:1に出てくる服従すべき上位の権威は何であるのかの教義も、ものみの塔協会の教義の中で二転三転したものの一つである。ラッセルの時代にはこの上位の権威はこの世の中の人間の作る政治権力と解釈された。1929年には当時の強硬路線に合わせて、これはエホバ神とイエス・キリストを指し、人間の政治権力ではないとされた。しかし、1962年、この教義は覆され、再度ラッセルの時代の解釈、すなわちその時の人間の政治権力と解釈されることになった。

 エホバの証人がこの上位の権威に服する教義で最も強調するのは納税義務であり、マタイ22:21の「カエサルのものはカエサルに返しなさい」を根拠としている。

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偶像崇拝、十字架、キリスト教のシンボルと行事、心霊術

 エホバの証人はこれらの事柄から厳密に自分を遠ざけるように教えられている。偶像崇拝と心霊術に関しては聖書に書いてある通りであるが、キリスト教に関しては、ものみの塔が既存のキリスト教を、背教した邪悪な「大いなるバビロン」として最も忌み嫌うべきものとする教義に基づいている。彼らは教会の建物や仏教寺院などに入ることも忌避する。全く宗教行事に関係のない理由で、たとえば見学したりコンサートに参加することはさしつかえないはずだが、実際には少しでも宗教がかった要素がある場合にはこれを拒否することが多い。彼らは特に十字架と、クリスマス、復活祭等の全てのキリスト教の祝祭を厳密に禁止する。エホバの証人に改宗した家庭では、家の中から十字架等のキリスト教や他の宗教の目に見える物体は廃棄されることが多い。

 エホバの証人は確かに聖書で命じられている偶像崇拝の禁止を厳密に守っているように見える。しかしその行動をよく見てみると、実は偶像崇拝と表裏一体となる偶像恐怖の傾向が強く見られる。例えば、十字架、クリスマスツリー、マリアの像等にはサタンの特別な力がついていると感じ、これを積極的に避け、ある時はこれらの物体に何か特別の力があるかのように恐れるのである。

 続く第三部では、これらのエホバの証人の教義をキリスト教の観点から解説する。

エホバの証人の教義 第三部 福音的キリスト教の観点からへ

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