エホバの証人は破壊的カルト集団
と呼ぶにふさわしい団体でしょうか?


カルトとは

エホバの証人の非倫理的、脅迫的マインド・コントロールの使用
信者になる過程においてのマインド・コントロール
反対者に対する警告
マインド・コントロールか、ただの信仰か
信者になった後のマインド・コントロール ― 「ものみの塔」研究
野外奉仕と神権宣教学校を通してのマインド・コントロール
エホバの証人は「愛」を説きながら、なぜあれだけ家庭破壊を引き起こすのでしょう?

ものみの塔宗教は信者に生命をかけて組織への忠誠を要求する
予防接種の禁止
臓器移植の禁止
輸血の禁止
結論 ― エホバの証人は「破壊的カルト」の特質を十分持った団体である

カルトとは

カルト (cult)の定義は人によって異なります。ウェブスターの辞書を見てみると7つもの異なった意味での使い方があげられています。このことはある人があるものをカルトと呼んだとしても、その意味は必ずしも聞く人間の考えている定義とは一致しないことを示しています。ここでは先ずエホバの証人はカルトかどうかを論じる前に、カルトと言う言葉の使い方について考えてみます。

上記のウェブスターの7つの定義は:1)特定の宗教礼拝の組織、特にその特殊な儀式、祭式をさす、2)個人、物体、思想に対する強力な崇敬、3)上記の崇敬の対象となるもの、4)特定の個人、物体、思想信条に対する強力な崇敬者たち、特に彼らの形成する集団、5)神聖と考える思想信条、象徴をめぐって行われる祭式によってまとまっている集団、6)偽、あるいは非正統的と考えられている宗教、7)非正統的、非科学的方法によって人の病気を解明し治療すると称する組織。

ここで明らかなように、もし1)〜5)の定義を取り入れれば、ほとんどの宗教は多かれ少なかれカルトの特徴を持ったものと言えますし、また6)の定義を取り入れれば、全ての宗教はその創始期にはほとんど常に非正統的と考えられていましたから、その意味では現在のキリスト教も含めてカルトと言えないことはありません。一般的に昔から広く受け入れられているカルトの定義は、カリスマ的リーダーを少数の信者が異常と思われる熱意で崇敬し、特殊な行動パターン(儀式等も含め)によって外部と隔絶するグループを形成する組織、と言えるでしょう。一方上記の6)の定義は個人の主観と立場によって全く異なってくるため、この意味でカルトと言う言葉を使う限り議論の進展は望めないでしょう。

このような「古典的」カルトの概念に対し、現代のめまぐるしく変化する宗教世界に対応する新たなカルトの定義が提唱されています。この点で世界的に最も広く読まれ注目されているのは、「カルト・マインド・コントロールとの戦い」(Combatting Cult Mind Control) の著者スティーブン・ハッサンでしょう。彼は自分自身が統一原理教のマインド・コントロールから離脱した体験をもとに、カルト・マインド・コントロールへの対策を論じています。この中でハッサンは現代カルトの重要な側面として非倫理的、脅迫的なマインド・コントロールの使用をあげています。そして彼はこれらのグループを単にカルトと呼ぶのでなく「破壊的カルト」という呼び名の使用を提唱しています。現代の高度に文明化した社会では「カリスマ的リーダー」「少数の信者によるグループ」「特殊な宗教的儀式」等の特色は前時代の遺物として消えつつあり、現代カルトにはもはやあてはまらなくなっています。しかしその反面、マインド・コントロールの使用は現代カルトの全てが行っている特徴です。

それではものみの塔宗教はどうでしょう?ここではいくつかの具体的な例をあげながらエホバの証人の宗教が、間違いなく「破壊的カルト」の特色を備えていることを見てみたいと思います。



エホバの証人の非倫理的、脅迫的マインド・コントロールの使用

信者になる過程においてのマインド・コントロール

最初ににこやかな顔のエホバの証人が玄関に現れ、「この世の中の悪と、あなたの人生の問題の解決策を聖書の中に一緒に見つけてみませんか?」といかにも無害で良心的なことばをかけてくる時、誰がその裏にあるマインド・コントロールを想像できるでしょう?しかしこのにこやかで友好的な態度、そして聖書を使うという人の良心をくすぐる手口の中に、マインド・コントロールの第一歩があるのです。あなたが彼らの話に興味を示し、出版物を読む意志を示すと、彼らは数日後に必ず戻って来ます。これを「再訪問」(return visit)といいます。ここで更に興味をつなげることが出来た時、彼らは「家庭聖書研究」を始めることを勧めてきます。聖書に興味のある人は日本人でも可成りおり、無料で、しかも自宅でこのような「感じのいい」人と研究できるなら悪くはない、とこれを受け入れる人は少なくありません。これがマインド・コントロール第二歩です。

一たん「家庭聖書研究」を開始するとその中では緩やかに、徐々に、そしてほとんど気がつかない形でマインド・コントロールが強化されていきます。この「家庭聖書研究」こそが新たな信者獲得のためのマインド・コントロールの中心的活動になります。「聖書研究」とはいうものの、その実、聖書は参考として使われるだけで主に使われる本は協会が指定した新しい信者のための教本です。昨年まではこれは「永遠に生きる」という本でしたが、昨年からは新たな教理を取り入れて強調点を変えるため、「知識」という本になっています。研究とはいうものの、実態はこの教本を読みながら反すうするようにその内容を無批判的に頭にたたき込むためのもので、たいてい一人の信者候補者に対し二人の証人がついて反論や疑問を早期につみ取るようにします。聖書は彼らの理屈を正当化する時に引っ張り出されます。聖書全体を読んだことのある信者候補者は数少なく、従ってこのように聖書を使われると何か彼らの言っていることが全て聖書によって支持されているような錯覚に陥ります。これも重要なマインド・コントロールの一つの技術なのです。

反対者に対する警告

しかし「家庭聖書研究」の中で使われる最も重要なマインド・コントロールの方法で、先ず全ての研究生が教えられることは次のことです。「必ず身近な者で、あなたのエホバの証人としての活動に反対するものが現れます。これは聖書に予言されている通りです(と言ってマタイ10:36を示す)。それは悪魔の仕業ですからそのような者の話を聞いたり書かれた物を読んだりしてはなりません。これは悪魔の誘惑ですからしっかりと拒否して堅くエホバについていなければなりません。」確かに証人たちは長年の経験から、ほとんどの家庭に起こる問題を知っていて、これをマインド・コントロールの目的にうまく利用するのです。確かに信者候補者は「研究」が進むにつれて目に見える行動と人格の変化を示します。親や夫などの家人が心配して忠告を与えようとするのはごく自然の成り行きでしょう。しかし信者候補者は、証人が忠告した通りのことが起こったことに「やっぱり来る物が来た」、「聖書に書いてあるその通りのことが起こった」と信じ込み、証人とものみの塔宗教に対する信頼感を強化します。

この段階まで来ると、後は非常に危険な「いたちごっこ効果」により、マインド・コントロールの完成段階に到達します。この段階では、信者候補者はエホバの証人とものみの塔出版物のみに真理があり、それに反対するものは全て悪魔の誘惑であると堅く信じるようになる結果、批判的なものの考え方は完全に麻痺し、聞くもの、読む物は全てエホバの証人の側のもののみとなります。この態度が更に批判的、独立的思考法を麻痺させる結果になり、この「いたちごっこ」が急速にマインド・コントロールを完成させるのです。ここに至ると彼らは王国会館での定例の活動に積極的に参加するようになり、洗礼を受けるのは時間の問題となります。

マインド・コントロールか、ただの信仰か

以上の過程で、ある人は、この信者候補者は自分の意志で信じたいものを選んで信じ、エホバに自分を捧げようと決心したのだからこれは単に信仰と呼ぶべきでマインド・コントロールとは言えないのではないか、という疑問をあげることでしょう。ここで忘れてはならないことは、エホバの証人に限らず全ての「破壊的カルト」と言われる宗教団体の共通の手段は、信者を獲得し引き留めておくため恐怖と自由意志の束縛を使っているということです。このエホバの証人の例では、先ず教えられることは1)悪魔があなたとエホバを引き離そうとしている。あなたはエホバから引き離されたら永遠の死しかない。家族や反対者達はこの悪魔に使われている、2)従って批判するもの、反対するものに耳を傾ければあなたは永遠の死に至ることになる、ということです。このような「永遠の死」の恐怖によって人の自由な思考をコントロールするこのエホバの証人の活動がハッサンの言う非倫理的、脅迫的マインド・コントロール以外の何物なのでしょうか?

信者になった後のマインド・コントロール ― 「ものみの塔」研究

一たん信者になると「被害者」は直ちに「加害者」に変身し、彼らは積極的に他の信者候補者のマインド・コントロールに加わっていきます。と言うより、これが彼らのノルマであり、その活動自体が自分自身のマインド・コントロールにもなっているのです。先ず彼らが毎週日曜日に王国会館で行う行事に「ものみの塔」研究という会があります。これはエホバの証人の宗教活動の最も大事な行事の一つです。ここでは毎週ニューヨーク・ブルックリンの本部が世界中に指令したプログラムに基づき、世界一斉に「ものみの塔」誌の指定された記事を全員で読みます。この記事にはもちろん、ニューヨークの本部が世界中の信者に徹底させたい教理が述べられています。問題はこの会のやりかたです。この会では「読み手」の信者がマイクの前でこの記事を最初から読みあげます。すると司会者は各段落ごとに質問を読み上げます。この質問は記事の欄外に書かれており、すべてニューヨークの本部が用意したものです。そしてその答えは必ずその該当する段落の中に見つけられます。各信者が行うことは司会者の読み上げる質問に対してその該当する答えを記事の中に見つけて答えることです。可成りの信者は棒読みに記事を復唱しますが、実際には自分の言葉で記事の内容を言い換えることが勧められています。しかしいずれにせよ、答えは記事そのものであって、自分の独創的な答えや根本的疑問をそこで表明することは許されません。そして自分の言葉として声を上げてはっきりと公衆の面前で「ものみの塔」誌に書かれた内容を自分の考えのように表明すること、これこそが「ものみの塔」誌の教理を直接一人一人の信者の脳裏に焼き付けるための重要なマインド・コントロールの一環なのです。

この「教育」方法は受験を目的にした日本の詰め込み教育の方法とほとんど同じです。多くの受験参考書はまさしくこの手法を取り入れています。つまり本文を読ませた後、各段落ごとに質問を与えるが、その答えは生徒が自分で考え出す必要はなく、必ずその段落のなかに見つけられます。それを読みとって自分の頭の中で復唱し、自分の言葉という形で回答する過程の中でその本文の内容が自分の考え、知識として身についていくのです。声を上げて読むことも有効な方法です。もちろんこの方法は無批判的に本を丸暗記してその知識をテストで表すという日本の受験教育にはぴったりの方法ですが、自分の頭で創造的、批判的に考えるという学問の基本的態度を養成するには最も有害な教育方法でしょう。確かにこのような詰め込み教育は望ましくないものとして批判されていますが、驚くことにものみの塔協会は信者の頭に毎週のように自分たちの教理を「詰め込む」ために、この方法を世界的に過去70年間近く毎週続けているのです。この「詰め込み教育」を毎週続けていれば、前に述べた恐怖で縛られたマインド・コントロールとともに、信者の批判的、独立的思考態度は完全に麻痺させられ、彼らの心は指導部の思いのままにコントロールされるようになるのです。

野外奉仕と神権宣教学校を通してのマインド・コントロール

またもう一つの信者自身のマインド・コントロールの方法に家から家への「野外奉仕」活動があげられます。信者は月に何時間をこの伝道活動に費やしたかを報告する義務があります。この時間の多さにより信者は「補助開拓者」「正規開拓者」「特別開拓者」といった名前を与えられます。もちろん時間数が多ければ多いほど証人としての尊敬は得られるわけで、彼らはきそって出来るだけ多くの時間を家から家への伝道活動に費やすことにつとめます。この活動では、信者は一般家庭の玄関で友好的な態度を保ちながら、端的にエホバの証人のよいところをアピールすることが要請されます。このために彼らは毎週「神権宣教学校」と言われる会において特別の訓練を受けます。この訓練の仕方にまた巧みなマインド・コントロールの手法が使われています。 信者はこの「学校」と呼ばれる会において「売り込み」の実地訓練を受けます。そこでは一人の信者が未信者の役をして、訓練される信者と劇のような会話をさせられます。訓練させられる信者は教理の中のあるテーマを決めて未信者に扮する相手に対し公開の話をさせられます。その中で未信者に扮する信者は多くの未信者がよくするような質問を用意して、訓練される信者に質問します。これはもちろん「やらせ」であって、あらかじめ質問と答えは用意されているのですが、それを声をあげて整然とわかりやすく、しかも友好的な雰囲気の中で話すことが出来るようになることが訓練の目的です。どうりで玄関を訪ねてくるエホバの証人たちはいつもにこやかで、質問されても動じることなく理路整然と話せるわけです。

しかしこの訓練は単に「売り込み」の手法を訓練するだけにとどまらず、信者自身のマインド・コントロールとしても重要な機能をしているのです。「ものみの塔」研究では「ものみの塔」の記事の内容を自分の頭で復唱し、自分の言葉として声を出して表明することで自分の頭に教理を無批判でたたき込みますが、この「神権宣教学校」では声を上げて教理を擁護する方法を学びます。この過程を通して、たとえ自分自身がこの宗教に素朴な疑問を持ったとしても、自分自身の言葉で雄弁に反論できるように訓練されるわけで、未信者に限らず自分自身が持つであろう疑問さえも自分自身でつみ取る技術を常に訓練されるのです。これがマインド・コントロールでないとしたら何なのでしょう?



エホバの証人は「愛」を説きながら、なぜあれだけ家庭破壊を引き起こすのでしょう?

次にあげなければならないエホバの証人の第二の破壊的カルトの特徴はその家庭破壊でしょう。なぜ彼らは「愛」を説きながら、あれだけ家庭破壊を引き起こすのでしょう?この疑問を理解する最大の鍵は彼らのいう「愛」の内容です。簡単に結論から言うと彼らののべ伝える「愛」は徹底した「条件付き愛」、「選択的愛」であり、イエスが聖書の中で教えた愛とは全く異質なものであるということです。

彼らはエホバを愛し、そのエホバの唯一の組織であるものみの塔協会を愛し、兄弟姉妹と呼ばれる他の信者を愛することを重視しますが、それ以外の人間に対してはクリスチャンの目からは想像もできないような冷淡な態度をとります。彼らはエホバの証人以外の人が困っている場合は、彼らの義務であるものみの塔宗教の伝道にはおもむきますが、決してクリスチャンの人々がするような慈善的な奉仕は行いません。災害で困っている人に対しても、多くのキリスト教会のように彼らの王国会館を避難所として解放したりはしません。災害のときは兄弟姉妹のエホバの証人に対しては手厚い援助を与えますが、それ以外の人々には全く冷淡です。

家族、友人との関係も同様です。家族、友人が同じエホバの証人である限り、彼らは献身的愛を示しますが、それ以外の家族に対しては義務としての「愛」があるだけで、それは全く条件付きです。その条件とはその「愛」がエホバの証人の活動とものみの塔協会の決めた範囲内にとどまっていること(たとえば、協会は未信者の夫や妻に対して何をしてよいか、何を譲ってはならないかを詳細に決めています)、その家族や友人が「背教者」であったり「背教者」と同じ様なものみの塔宗教に反対する活動をしていないこと、の二つが最も重要です。言い換えれば、家族、友人であっても、もしその人が協会の定めたこと以上のことを要求したり誘ったりした場合、またその人が元エホバの証人であったり、ものみの塔協会に対する批判的活動をしている場合には悪魔の手下として、エホバの証人はその人に全く冷酷な扱いをして構わないのです。更に一歩進めれば、これらの人々からは、家族であろうと友人であろうと、できるだけ避けることが協会によって要求されているのです。まさにこの教理が、元々は優しい愛で結ばれていた夫婦を引き裂き、エホバの証人をやめただけの理由で孫にも会わせてもらえなくなる、という全世界的な家庭悲劇をまきおこしている理由なのです。

この自分中心、組織中心の条件付き愛がキリストの説き続けた愛と全く異質のものであることは聖書を一度でも読んだことがある人なら誰でも分かることです。そしてこの自己中心的愛こそが破壊的カルトとしての、ものみの塔宗教のもう一つの特徴なのです。



ものみの塔宗教は信者に生命をかけて組織への忠誠を要求する

エホバの証人の破壊的カルトの第三の特徴に、生命の軽視と生命をかけた組織への忠誠の要求があります。この宗教はその創始期から医学に関係した奇怪な教理を推奨してきました。現在でも未だに変わらず残っているのは輸血拒否の教理ですが、それ以前には臓器移植拒否、予防接種拒否がありました。もちろんそれぞれのエホバの証人は皆、これは聖書に基づいた真理と堅く信じて疑いません。しかしこれらは実際はものみの塔協会の指導部の政治的判断で決定された、単なる一つの方針に過ぎません。しかしこと医学に関する限り、この「作られた真理」は人の生命を取り返しのつかない結果に陥れるのです。

予防接種の禁止

1929年の「黄金時代」(現在の「目ざめよ!」の前身)5月1日号では「予防接種の施行は犯罪であり、暴行であり、妄想である」、1931年2月4日号では「予防接種は神が大洪水のあとノアと結んだ永遠の契約の直接の侵害である」と述べています。それだけではありません。ものみの塔協会は長年にわたって予防接種は病気の予防効果がない、予防接種はアメリカ医師協会が金儲けのために宣伝したものだ、予防接種は病気の動物からとられたものを使っているから健康な人間にとって有害である、という根拠のない、非科学的な議論を繰り広げていました。しかし1952年になって、余りに馬鹿げた論議を続けていても通用しないことにようやく気がついたものみの塔協会の指導部は、ついに長年の「真理」をくつがえし、12月15日号の「ものみの塔」誌で「この事柄(予防接種)について考慮した結果、これ(予防接種)は創世記9:4で述べられたノアとの永遠の契約の侵害でもなければ、レビ記17:10ー14のこれに関連した神の命令にも反するものでもないと考えられます。」(p764) として全く正反対の「真理」を打ち出しました。以来エホバの証人は全く他の一般人と同様、なんの抵抗もなく予防接種を受け、今では昔のエホバの証人たちがこのような馬鹿げた論議を「真理」として命をかけて守っていたことなど知るエホバの証人はほとんどいません。しかしこのものみの塔協会自体の出版物で裏付けられた歴史が語るように、ものみの塔協会のいう「真理」は「考慮」されて出来上がった人工の「作られた真理」であることが疑いの余地もなく示されています。

臓器移植の禁止

もう一つの奇怪な「医学真理」は臓器移植が聖書の教えに反するとの理由により禁止されていたことでしょう。この「真理」も、ものみの塔協会指導部の気分により二転三転した歴史をもっています。まず1961年の「ものみの塔」誌8月1日号を見てみましょう(英文版よりの筆者訳)。

「人の体、あるいは体の一部をその人の死に際して科学的実験や他の人に置き換える(つまり移植のこと)目的で科学者や医者に託すことは、ある宗教団体では嫌われています。しかし聖書の原則や法にこれに関係したものはないと考えられます。従ってこれは個人が自分で決めるべき問題です。」
ここでは臓器移植は個人で決める問題、つまり信者の自由であるという立場です。

しかしわずか6年後の「ものみの塔」誌1967年11月15日号(日本語版では1968年4月1日号)の同じ「読者からの質問」では、一転して上記の立場を変えています。

「血を食べることは禁じられましたが、人間は動物の肉を食べ動物の命をとって人間の命を支えることを神に許されました。人肉を食べること、生体、死体を問わず別の人間のからだまたはからだの部分によって自分の命を支えることは、その中に含まれていましたか。含まれてはいません。それはすべての文明人が忌み嫌う人食いの行為です。」

「病気あるいは欠陥の生じた器官が健康をとりもどすふつうの方法は、栄養分の摂取です。からだは食べた食物を使ってその器官を直し、ありはいやし、徐々にからだの細胞を更新します。この自然の働きがもはや用をなしていないと判断され、器官を切除して他の人の器官を移植することを医師がすすめるのは、健康回復の近道をとっているにすぎません。この種の手術を受ける人は他の人の肉によって生きることになり、それは人食い的です。エホバは人間が動物の肉を食べることを許されましたが、人の肉の場合それを食べるにしても、あるいは他の人からとられた器官あるいはからだの一部を移植するにしても、人食い的に人の肉を体内にとり入れて命を保たせる行為を許されませんでした。」
つまりここでは臓器移植は人食いであり「エホバの許していない行為」つまり禁じられた行為とされました。この結果、何人ものエホバの証人が腎臓移植、角膜移植等を受けられず、命を落としたりとりかえしのつかない視力の喪失にみまわれたりしました。またある婦人は角膜移植を受けた罪で過酷な排斥処分を与えられました。

ところがどうでしょう。1980年3月15日号(日本語版1980年6月15日号)の「ものみの塔」誌では再び「読者からの質問」の欄で、驚くことに1961年の「古い光」であるはずの一度否定された教理にまた戻っているのです。

「ひとりの人間から別の人間へ人体の組織や骨を移植するかどうかは、エホバの証人各自が良心的に決定すべき問題です。」

「聖書は特に血を食べることを禁じてはいますが、他の人間の組織を受け入れることをはっきりと禁じている聖書の命令はありません。そのわけで、この問題について決定を迫られる人各々は、物事を注意深く、祈りのうちに考慮し、それから神のみ前で自分のできること、あるいはできないことを良心的に定めなければなりません。それは個人的に決定を下す問題です。(ガラテア 6:5)ある人が臓器の移植を受けたとしても、会衆の審理委員会は懲戒措置を取らないでしょう。」
なんと驚くべき論理でしょう。「物事を注意深く、祈りのうちに考慮し、それから神のみ前で自分のできること、あるいはできないことを良心的に定め」ることは全ての神とキリストに従う人々の常に行っていることです。しかし1968年から1980年の間にこの信仰生活の基本を守って角膜移植を受けた婦人は、エホバの禁制を破ったとして永遠の霊的死を意味する排斥処分を受けたのです。しかし1980年以降は同じ行為が何の咎も受けないのです。このことはエホバの証人の命をかけて守る「真理」が、聖書やエホバを引き合いに出してはいるものの、実際には指導部の人間がその時その時の思いつきで作り上げた、人工の「作られた真理」であることを端的に証明しています。

輸血の禁止

エホバの証人の奇怪な「医学真理」の数々の中で現代のエホバの証人がいまだに命をかけて守っているのがこの輸血の禁止です。ここではこの教理の聖書的な根拠やその移り変わりには触れません。(いずれ別の記事で詳しく論じるつもりです。)ただここでは二三の関連した点を紹介します。

先ず上記の臓器移植の例と平行して考えてみますと、1980年に臓器移植の解禁になった理由として上の「ものみの塔」誌の引用にもあるように、「他の人間の組織を受け入れることをはっきりと禁じている聖書の命令はありません」ということをあげています。しかし「ものみの塔」の筆者はここで自分の明らかな矛盾に気がつかないか、無視しているように見えます。というのもこの文章の「組織」を「血液」と置き換えればそのまま聖書の血液に対する立場にもなるからです。すなわち、「他の人間の血液を受け入れることをはっきりと禁じている聖書の命令はありません。」これには誰も異論はありません。聖書の中には動物の血液を食べることについては言及されてはいても、どこにも人間の血液を受け入れることをはっきりと禁じている命令はないのです。もしこれが臓器移植を許す理由であるのなら何故輸血を許す理由にならないのでしょうか?答えは簡単です。それは彼らの「真理」が聖書に基づいたものでなく指導部の人間の気まぐれによって作りあげられたものだからです。

このように人間の作り上げた「真理」を熱狂的に信じて命を落としていくエホバの証人の姿は、破壊的カルトと呼ばれるのに十分な資格を与えますが、一方この悲劇は静かに少しずつ繰り広げられているため、社会問題となりにくい傾向にあります。元エホバの証人で、現在は証人たちの救出運動を積極的に行っているデービッド・リード氏は、輸血をしなかった理由で死んだエホバの証人やその子供達のケースを集め、それが1978年のガイアナのジョーンズ・タウンにおけるジム・ジョーンズのカルトの追随者900人の集団自殺の数、1993年のテキサス州ウェイコでのデービド・コレシのカルト、ブランチ・ダビデアンの追随者たち80人近くの死をはるかに上回ることを示しています。ここで明らかなのは、これらの集団自殺あるいは集団殺人が一度に起こると、世間は注目しマスコミは大々的に取り上げて、世間はこれらのカルトの存在と危険を知るのですが、一方エホバの証人の場合、この自殺や殺人は一人一人ほとんどは病院の中で世間に知られることなく行われているため、世間はエホバの証人が、人の生命に関する限りジム・ジョーンズやデービド・コレシと似たような異常な精神状態を持った団体であり、同じような危険性を持っていることを認識できないことにあります。



結論 ― エホバの証人は「破壊的カルト」の特質を十分持った団体である

以上エホバの証人の特質の中で、破壊的カルトと呼ばれるにふさわしい教理、行動パターンを見てきました。これをまとめてみると次の大きな三つの点があげられます。
  1. 脅迫的マインド・コントロールの使用

  2. 家庭破壊と選択的、条件付き「愛」

  3. 人命の軽視と命を犠牲にさせる教理

この他ここでは詳しく述べませんでしたが、次のようなエホバの証人の教理、行動も破壊的カルトの特徴の中に含まれるでしょう。

  1. 人間の恣意的に作り上げた教理を絶対的真理として従う

    この点は予防接種と臓器移植の例に端的に現れていることを示しました。


  2. 聖書を恣意的に解釈したり訳したりし、それを絶対的真理として信者に押しつける

  3. 自分たちの指導者のみが神の特別な代表者でありそれ以外は全て偽物である、
    自分たちの組織しか神は認めていない、と信じさせる



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