「物事をありのままに考えるエホバの証人」より−8

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何も論じていない「論じる」の本

「ものみの塔協会」が発行している「聖書から論じる」の初版本(以後、「論じる」の本と省略)は、確か1985年発行である。
この本は、エホバの証人の奉仕者が宣教において一般の人々から受けるかもしれないさまざまな質問に対して、奉仕者が答えたり
推論したりするための手引き書のとして用意されたものである。この点で、「論じる」の本は、発行当初、画期的な書籍という触
れこみで結構頻繁に用いられてきたが、最近は、とんと忘れられた存在となっていた。それが、ここにきて、にわかに注目を集め
ている。

実際、最近の神権宣教学校の第3と第4の話の話題は、ほぼこの「論じる」の本から取られるようになっている。また、最近では、
奉仕会などでも、「論じる」の本の活用ということが話題として頻繁に取り上げられるようになっている。まさに、帰ってきたヒ
ーローである。

でも、神権宣教学校で演じられている第3の話や第4の話を、聴衆席から目をつぶってじっと聞いていると、そこで展開されてい
る論議が、いかに説得力に乏しいものであるかが、ひしひしと伝わってきて、情けなくなってしまう。別に演じている兄弟・姉妹
たちの説明が拙劣というわけではなく、彼らは、「論じる」の本に忠実に論議を展開しているのだが、その論理はほとんど一般の
人を説得することには成功しがたいようにみえる。つまり、自己満足的な論議をただ展開しているに過ぎないことが改めて実感で
きる。もし、今、このような話を聞いたら、きっと、私はエホバの証人になっていなかったかもしれないと確信してしまうから悲
しい。つまり、そこに展開されているのは、人を納得させる論議ではなく、「ものみの塔協会」のひとりよがりの論議、自分で自
分を納得させるような話の展開がなされているに過ぎないのである。これが、本当に「ものみの塔協会」の実力だとしたら、その
教理はきわめて貧弱なものと言わなければならない。もし、説得性に乏しいことを知りながら書いているとしたら、さらに罪は重
い。

いずれにしても、上に述べたことを確認するために、限定10項目ではあるが、「論じる」の本の内容について、検討してみること
にしたい。以下、「論じる」の本等からの引用部分は段落を変えて示す。


(1)悪魔サタン

   サタンとは人々の内にある単なる悪にすぎないのでしょうか

   ルカ 4章1-13節は,悪魔がイエスを誘惑し,自分の思いどおりにさせようとしたことを伝えています。その記述には悪魔の述
   べた言葉とイエスのお答えになった事柄とが記されています。イエスはそのとき自分自身の内部の悪によって誘惑されたの
   ですか。そのような見解は,イエスのことを罪のない者として述べている聖書の描写と調和しません。(ヘブライ 7:26。ペ
   テロ第一 2:22)ヨハネ 6章70節ではユダ・イスカリオテの内で生じていた悪い特質を描写するためにギリシャ語のディアボ
   ロスが用いられていますが,ルカ 4章3節ではホ ディアボロス(悪魔)という表現が用いられており,こうしてある特定の人
   格的存在が示されています。

これは、直感的におかしい。ここで筆者は、悪魔サタンが実在者であるということを論じたいのだが、それはいいとして、その理
由が問題である。つまり、

   ●イエスは完全で罪のない方なので、自分自身の内部に悪が存在するはずがない
   ●従って、イエスが誘惑されたのは、自分自身の内部の悪ではなく、外部の存在としての悪=実在者としての悪魔サタンで
    ある

という論理である。問題は、完全な人=悪が内部に存在しないという前提である。でも、この前提は変である。悪魔サタンもみ使
いの一人として完全であるわけだし、アダムも間違いを犯した時、まだ完全な人だったはずである。その後、裁きを受けて、不完
全な人間に転落した。だから、完全な人であるイエスも、間違いを犯さないわけではない。だからこそ、試練に意味があるわけで
あり、もともと正しいことしかできないのであれば、忠誠の試みも意味がないし、だいたいそれこそロボットと同じことになって
しまう。もともと失敗することが不可能であるなら八百長ようなものである。

ということで、イエスが完全で罪のない人なので、内部から誘惑がなかったという説明は、完全な人とはそもそも何かという本質
的な疑問を投げかけることになる。一体何が完全なのかということである。DNAが完全なので遺伝に基づく病気はないとかいう
ことなら理解できるのだが。


(2)命(生命・生活)

   人体の構造には,人間が永遠に生きるように造られていることを示す何らかの証拠がありますか

   人間が70歳,あるいは100歳まで生きるにせよ,現在の一生の間にどれほど頭脳を使用するにしても,頭脳の能力はその使用量
   をはるかに凌駕していることが広く認められています。人間の頭脳には,「ひとりの人の生涯中に活用される分よりずっと
   大きな潜在力が授けられている」と,ブリタニカ百科事典は述べています。(1976年版,第12巻,998ページ)人間の頭脳は,
   「およそ2,000万冊,すなわち世界最大の図書館に収められているのと同じ数の本を満たすほどの」情報を収納することがで
   きる,と科学者カール・セーガンは述べています。(「宇宙」,1980年,278ページ)人間の頭脳の“ファイリング・システム”
   の能力に関して,生化学者アイザック・アシモフは,それは「人間が普通に学習し,記憶する事柄をどれだけでも,さらには,そ
   の10億倍の情報をも完全に整理収録する仕組みになっている」と書いています。―ニューヨーク・タイムズ・マガジン誌,19
   66年10月9日号,146ページ,英文。(もし使われるためではないとしたなら,どうしてこれほどの能力が人間の頭脳に賦与さ
   れたのでしょうか。無限の学習能力を与えられた人間が実際,永遠に生きるよう設計されたということは,道理にかなってい
   ないでしょうか。)

私は医学のことは素人であるが、脳のキャパシティと人間の寿命との間に相関関係があるという話はあまり聞いたことがないし、
それほど説得力があるとも思えない。だいたい、脳は年とともに使ってゆくと、それに応じてリニアに減ってゆくものでもないし、
そのキャパシティが1000倍あるから1000倍長生きできるはずという方程式も成り立つとは思えない。上の論議は、あまりに単純す
ぎる発想を機械的に論じているだけで、まともな論理とは思えない。

引用されている権威者の言葉も、単に脳のキャパシティについて触れているだけで、そのことを「永遠に生きるように設計されて
いる」ことに直結させている「ものみの塔協会」の論理は、自分に都合よく解釈しているとしか言いようがない。


   ほかの惑星に生物がいますか

   アメリカーナ百科事典はこう述べています。「[我々の太陽系外の]他の惑星で,明確に探索されたものは一つもない。しか
   し,太陽系の外に存在するかもしれない惑星にはいずれも,生物が存在し始め,進化して,高度に進歩した文明を持つようにな
   っている可能性がある」。(1977年,第22巻,176ページ,英文)(この言葉が反映しているように,膨大な費用をかけて太陽
   系外の宇宙空間に生物を見つけるための探索を試みる主な動機は,進化論を裏付ける何らかの証拠,人間は神によって創造さ
   れたのではないゆえに神に対して責任がないということを示す何らかの証拠を見つけたい,という願望にあると言えるので
   はないでしょうか。)

ここで、引用文の後ろについている括弧の中の文章が「ものみの塔協会」の考え方である(以下同)が、地球外生命の探索活動の
動機を、「進化論を裏付ける何らかの証拠、人間は神によって創造されたのではないゆえに神に対して責任がないということを示
す何らかの証拠を見つけたいという願望にある」と断定しているが、そう断定することはできないだろう。

もし、地球外生命が存在するとすれば、それは確かに興奮を誘う出来事に違いない。地球型生命と似ているのか、それとも全く違
うのかとか。それは、おそらく純粋に科学的な好奇心に基づくものであり、その結果、どういう説が実証されようと、それはあく
までも結果に過ぎない。ある特定の結果を導くために、そうした研究を行なうということは、普通は考えににくいことであろう。
絶対にそうした人がいないとは断定できないが、そうしたことを前提に議論することは不自然なことであろう。


(3)運命

   神はすべての事柄を予知し,あらかじめ定めておられますか

   申命 31:20,21: 「わたしは彼ら[イスラエル国民]を,その父祖たちに誓った地,乳と蜜の流れる所へと携えて行くからであ
   る。彼らは必ずや食べて満ち足り,肥え太って他の神々に身を向け,まさにそれに仕えてわたしに不敬な態度を取り,わたし
   の契約を破るであろう。それで,多くの災いと苦難が彼らの上に臨む時,[彼らが神の恵みを正しく認識しなかったためにど
   のように行動したかを物語る]この歌が彼らの前で証しとなって答えることになる。……わたしは,自分が誓った地へ携え入
   れる前の今日すでに彼らが現わしている性向をよく知っているのである」。(ここで注目すべきことは,神は彼らの歩みの
   結末を見抜く能力をお持ちでしたが,それは,そのような結末に対して神に責任があるとか,神が彼らのためにそれを望んで
   おられたという意味ではなく,彼らの行なっていた事柄に基づいて神はその結末を予見することがおできになったというこ
   とです。同様に,気象予報官も観測する事柄に基づいて,かなり正確に天気を予報できますが,自分がそのような天気にする
   わけではありませんし,また必ずしもその天気が好きだというわけでもありません。)

「ものみの塔協会」は、人間と神とが対峙したり、両者を比較する場合には、神=創造者、人間=被造物という図式から、神と人
間との隔たりが決定的なものであるということを強調するが、それは確かに正しいと思う。創造者と被造物は明らかに存立する基
盤が異なっており、同列には論じられないのは当然である。

従って、神が人間にかかわる未来の事柄に言及する場合においても、通常の人間的な感覚から判断することは、実は適切ではない
と思われる。もともと、神は宇宙の創造者である。宇宙の中に存在する物質も、その容器としての空間も含めて、そして、宇宙空
間の付属物である時間も含めて、その創造者である。従って、時間というものが宇宙の属性の一つであるとすれば、神は時間の束
縛下にはない可能性があり、私たちの常識では理解しがたいことであるが、過去、現在、未来を自由自在に行き来することさえ可
能かもしれない。とにかく、神と人間とは存立の基盤が異なっているのである。

神の見地からすれば、神は、すべての事柄を予知し、あらかじめ定めている可能性は十分あると思う。ただ、人間の見地からする
と、そのメカニズムが分からないので、あるいは、もし、運命を定めているとすれば、人間的な感情からすると、神の掌で踊らさ
れるロボット的な人間像が見えてくるので、そういうことは認めたくないということで、上記のような推論が導かれているに過ぎ
ないと思われる。要するに願望を述べているに過ぎないのである。

認めたくないという気持ちは分かるが、神と人間とを比較すれば、所詮、人間は、水槽に飼われている金魚と本質的に変わらない。
金魚は与えられた環境の中で精一杯生きるしかない。環境について、いろいろ注文をつけることもできない。そして、水が合わな
ければ運悪く死んでしまうし、逆に長生きすることもできるだろう。飼い主の人間次第で、金魚の運命も大きく左右される。でも、
その運命を金魚自身はどうすることもできない。人間と神との関係だって、これと同等、あるいは、これ以上の開きがあるかもし
れない。何といっても、人間も金魚も同じDNAを持った地球上生命であり、人間が金魚をつくったわけでもない。でも、神はまさに
地球外いや宇宙外生命なのであり、私たち人間の造り主なのだから。
 

(4)神

   神には初めがありましたか

   それは合理的なことですか。人間の頭ではこれを十分に理解することはできません。しかし,これはそのことを退ける十分
   の理由とはなりません。例を考えてみましょう: (1)時間。ある特定の瞬間を時間の始まりとして指摘できる人は一人も
   いません。それに,わたしたちの命が終わっても,確かに時間が終わることはありません。時間には十分に理解できない面が
   あるからといって,わたしたちは時間という考えを退けたりはしません。むしろ,時間によって自分の生活を調整します。
   (2)宇宙空間。天文学者は宇宙空間の始まりや終わりを見いだしてはいません。天文学者が宇宙を遠くまで探索すればする
      ほど,宇宙はさらに広くなってゆきます。天文学者は証拠が示す事柄を退けません。多くの人は宇宙は無限であると言いま
   す。この同じ原理が神の存在にも当てはまります。

まず、「ある特定の瞬間を時間の始まりとして指摘できる人は一人もいません」というのは、正しい認識なのだろうか。時間とい
うものをどのように定義するかにもよるだろうが、少なくとも私たちの知っている時間は、宇宙の属性の一つとして、宇宙開闢以
来、「カチッ」とストップウオッチのスタートボタンが押されたものと物理学の世界では広く考えられているようである。もちろ
ん、そうした理論物理学は、学問の進歩と共に、日々新しい理論に置き換えられてゆくものであるので、絶対的な真理というもの
への到達ということではなく、暫定的な理解ということで考えておかなければならないだろう。しかし、そうした事柄は、何も科
学の世界だけにとどまらず、あらゆるものごとにおいて言えることであり、そうした議論を始めてしまうと、実際問題として教科
書などつくれなくなってしまいかねない。すべての事柄が不確実なことになってしまうからである。

私たちが、時間というものを理解しつくしているわけではないにしても、神には初めがあったかということを、時間との係わり合
いで説明しようとすることは、やや無理があるようである。

もう一つの点として、宇宙空間が引き合いに出されているが、「天文学者は宇宙空間の始まりや終わりを見いだしてはいません」
というのも、上記と同様、かなりアバウトな議論である。ビッグバン宇宙論はほとんどの科学者に支持されており(もちろん、支
持していない科学者が少数ながら存在することは知っているが)、現時点では、宇宙の始まりをもっともよく説明した理論と考え
られている。もちろん、宇宙の誕生の瞬間そのものは永遠に混沌としているだろうし、宇宙誕生からほんのわずかな時間(私たち
の知っている数秒とか数分という単位ではなく、数億分の1秒とかそういう単位の話である)にどのような現象が起きたかという
ことについては、いろいろな仮説があるのは確かであるが、だいたいのシナリオというか様子は判明してきているのである。

そして、宇宙の未来についてであるが、これも、宇宙が膨張している限り(たぶん、これからもずっと膨張を続けるようである)、
その「果て」を見出すことは難しいだろう。でも、それは人間が物理的に見出せないということであって、宇宙に本当に「果て」
がないという意味とは同義ではない。宇宙はその空間の曲がり方にもよるが、その中に住んでいる人間にとっては、ある意味で有
限だが果てがないということもあるわけである。でも、それを造った(つまり、宇宙を宇宙の外から眺められる)神にとっては、
宇宙がどのようなものであろうと、「同じ原理が神の存在にもあてはまる」というのは、意味不明である。宇宙の生物である人間
には、宇宙のことがたとえ正しく認識できなくても、神にとっては自分の創造物である。認識の範囲内にあるのは当然である。逆
に、人間にとっては、宇宙を極めることが困難であるのと同様に、その「外」に存在する神のことを極めることはなおさら困難で
ある。従って、神のことを、私たちが知り尽くすことができないのも、また当然なのである。


   どちらがより合理的ですか。―宇宙は理知のある生ける創造者が造り出したものですか。それとも,理知的な導きなしに無
   生のものからただ偶然に生じたに違いないと言えますか。中には後者の見方を取る人もいます。なぜなら,そのように信じ
   ないなら,自分たちには十分理解できない特質を持つ創造者の存在を認めざるを得なくなるからです。しかし,生きた細胞の
   中にあり,細胞がどのように成長するかを決定する遺伝子の機能を,科学者が十分理解していないことは周知の事実です。ま
   た,科学者は人間の頭脳の働きも十分に理解しているわけではありません。しかし,それらのものが存在することを否定する
   人がいるでしょうか。わたしたちは,驚くほど巨大で複雑な仕組みの宇宙を生み出し得るほどに偉大な方のすべてを理解す
   ることなど,本当に期待すべきでしょうか。

「宇宙は理知ある創造者が造り出したものか、それともただ偶然によって生じたのか」というのも、いかにも乱暴な議論である。
実際のところ、理知ある創造者が造り出したものでなければ、すべて偶然の所産というわけでもなかろうにと思うのだが。また、
遺伝子の機能を科学者が現時点で、すべて解明していないのは明らかであるが、だからといって、遺伝子の機能が理知ある創造者
によって造らられたことを実証することにはならない。同様に、人間の脳の働きを、現時点で人間が十分理解していないからとい
って、それが、本質的に不可知なものと決めつけることのできるものでもないことは自明のことであろう。

遺伝子の機能はまことに不思議である。私は、生物学には全くの門外漢であるが、TVの自然番組などをみていて、多様な生物の
様子を観察すると、本当に感嘆してしまう。その数々については、「生命どのようにして存在するようになったか〜進化かそれと
も創造か」にもたくさん紹介されている。

例えば、動物や昆虫の擬態などは、その最たるものではないかと思う。多くの生き物たちが、自分の身を守るために、擬態という
手法を使っている。それは、まことに見事と言うほかはない。これを、すべて「偶然」で説明することは難しいと思う。いろいろ
な試行錯誤、しかも、無作為の試行錯誤の繰り返しのうちに、たまたま、「擬態」に成功した生物が生存競争に有利に働いて、次
第にその子孫を増やしていったというのは、ちょっと考えにくい。でも、そうした素晴らしい生物のつくりは、偶然には生じない
ので、すべて理知ある創造者の所産に帰してしまうというのは、早計かもしれない。

ライアル・ワトソンの「生命潮流」には、遺伝子が空中を浮して、動物と植物の間で遺伝子の交換のようなことを行なうのではな
いかといった突飛なアイデアが紹介されていたように記憶している(10数年前に読んだ本なので定かではないが)。最近では、分
子生物学が、当時より格段に進歩していきているため、遺伝子の働きも随分を理解が深まっているので、もっとまともな理論が出
ているかもしれないが、私の素人考えでは、いずれにしても、生物の遺伝子というものには、私たちがまだ理解に到達していない
計り知れない能力が秘められているのかもしれない。例えば、長年の間に、遺伝子の基本的な性質の中に、周囲の環境と似た形態
(色、形など)を取るような選択が、働くような仕組みができあがっていったということは考えられないのであろうか。これは単
なる素人の思いつきなので何の根拠もない考えであるが、いずれにしても、創造者の所産か偶然かという単純な選択肢以外にも、
いろいろなことが考えられると思うのである。


(5)祝日

   母の日を設ける風習にはどんな起源がありますか

   ブリタニカ百科事典はこう述べています。「古代ギリシャで行なわれた母親を崇拝する風習に由来する祭り。神々の偉大な
   る母キュベレもしくはレアのための儀式を伴う,母親を崇拝する正式の祭りは,小アジアの至る所で3月15日に執り行なわれ
   ていた」―(1959年版),第15巻,849ページ,英文。

これって本当? 普通は、1914年における米国における起源を述べた解説がほとんどであるが、調べてみると確かに次のような解
説をインターネットで見つけることができた(作者不詳)。

  『母の日の起源については諸説ありますが,古くは古代ギリシャで,神々の母「リーア」に感謝するための春祭りがあったと
   されています。17世紀のイギリスでは,復活祭40日前の日曜日を「Mothering Sunday」と決め,家から離れて仕事をしてい
   る人も,家に帰って母親とすごすことが許されていました。贈り物として,「Mothering cake」というお菓子を用意したよ
   うです。この風習が,今日の母の日の起源といわれています。

   1914年,アメリカで「母の日議案」が議会を通過し,5月の第2日曜日が母の日に制定されました。この結果,当時の全米50
   州で母の日を祝うようになりました。ただし,当時の母の日は,亡き母を追悼する日だったとか。

   日本では,1912年(明治45年)に,キリスト教会の行事として「母の日」が行われました。1937年(昭和12年)に森永製菓
   が提唱したことがきっかけとなり,終戦後,一般的に広く祝うようになったといわれています。

   当時は亡き母への追悼の意味が強く,現在と同じ形で母の日を祝うようになったのは,1955年(昭和30年)からといわれて
   います。亡き母を追悼することから一歩進め,生きているお母さんに感謝の気持ちをささげる行事となったわけです。』

だいたい人間の行なうことなんて、古来の何らかの風習に根ざしているなんてことはざらにあるわけで、そうしたことにすべて目
くじら立てていたら、生活そのものが成り立たなくなる可能性が高い。その点は、「ものみの塔協会」も認めていて、例えば、結
婚指輪の交換などは、異教の風習に由来するものの、現在ではそうしたことを意識して行なっている人はほとんどいないので、指
輪交換しても構わないという意見である。それなら、母の日だって、同じではないだろうか。母に対する感謝を純粋に表わす行事
を、古代ギリシャに遡って考える人なんてほとんど皆無であることは間違いない。

それでも、禁止したいというのはどういうことなのであろうか? やはり、「ものみの塔協会」はパリサイ人なのだろうか。つま
り、こうである。『この民(一般のエホバの証人)は、信仰が弱く、容易に惑わされやすいアムハーレツのようなものたちである。
自分たち(「ものみの塔協会」の指導部)が世の人との間にしっかり垣根を設けて守ってあげなければ、すぐに信仰からそれてし
まうに違いない。だから、危ないことはみんな禁止してしまうのだ!』


(6)創造

   現代のこの科学的な世界で創造を信じるのは道理にかなったことですか

   宇宙: どこかで精密な時計を見つけた場合,あなたは,塵の粒がたまたま吹き寄せられてそれが出来上がったなどと考えるで
   しょうか。だれか理知のある人がそれを造ったことは明らかです。そうしたものよりさらに優れた“時計”が存在していま
   す。わたしたちの太陽系の中の惑星も,全宇宙に存在する他の星も,人間が設計して製造するたいていの時計より精確に運行
   しています。わたしたちの太陽系が所属する銀河系には1,000億以上の星があり,天文学者の推定によると,銀河系のような
   星雲はこの宇宙内に1,000億個もあります。時計が理知ある設計の証拠であるなら,それよりはるかに広大で複雑な宇宙につ
   いてはなおのことそう言えるのではないでしょうか。聖書はその設計者のことを,「天の創造者,それを張り伸ばす偉大な方,
   ……まことの神エホバ」と述べています。―イザヤ 42:5; 40:26。詩編 19:1。

宇宙が非常に精巧にできていることは確かである。科学は、この世界がどのように構成されているのか、どのような法則がそこに
は存在するのかといった点を解明してくれるが、何故そうなっているのか、という点については、ほとんど力が及ばないのは事実
である。それは、宇宙の中で、自分で自分を調べるための道具である科学の限界であるかもしれない。

でも、それはそれでしょうがないが、だからといって、創造を信じることが道理にかなっているかというと、上記の議論は、はな
はだ説得力に欠けている。「私はそう信じます」というのなら、「どうぞご自由に」ということになるが、他の人を説得する論議
としては無理があるようだ。

似たようなことは、時々、「目ざめよ!」誌の読者からの質問にも紹介されている。例えば、「蜘蛛が糸を吐き出す仕組みはよく
分かっていません。人間はその仕組みをすべて説明することができません。神の創造の業は人間には理解しがたいのです」などと
書かれていることに、かみついた読者が少し前にいたが、私はこの「読者」の考えていることの方がまともにみえる。
   
   聖書は,神が進化という手段で様々な種類の生物を造り出したという考え方を受け入れていますか

   創世記 1章11,12節は,草と樹木がそれぞれ「その種類にしたがって」実を生み出すものとして造られたことを述べています。
   創1章21,24,25節はさらに,神が海の生き物と,飛ぶ生き物と,陸上の動物を,それぞれ「その種類にしたがって」創造された
   ことを述べています。一つの基本的な種類の生物が進化ないしは変化して別の種類の生物になる,というようなことはここ
   に何も示されていません。

「ある事柄が何も示されていないから、その反対が事実である」とはならないのは、論理学の初歩を知っている人なら自明のこと
である。これも自己満足の世界である。他の人を説得することはできないだろう。

   人間に関して,創世記 1章26節は,神が『わたしたちの像に,わたしたちと似た様に人を造ろう』と言われたことを記してい
   ます。ですから人間は,単に獣の特性が変化したものではなく,神に似た特質を持つことになっていました。創世記 2章7節
   はさらにこう述べています。「エホバ神は[それ以前に存在していた生物からではなく]地面の塵で人を形造り,その鼻孔に
   命の息を吹き入れられた」。ここに進化の考えを示唆するようなものは何もありません。全く新たなものとして創造された
   ことが述べられています。

「地面の塵で造る」ということを、「ものみの塔協会」では、「地面=地球と同じ成分で造られている」と解釈している。それな
ら、確かに事実に適合しているかもしれない。でも、それだけでは、直接創造されたことの確たる証拠とはならないだろう。比喩
的な表現と理解することも可能である。


(7)中立

   国旗や国歌の関係する儀式に対して真のクリスチャンの取る態度に常に関係してきたのはどんな聖句ですか

   コリント第一 10:14: 「偶像礼拝から逃げ去りなさい」。(出エジプト記 20:4,5も参照)

   ヨハネ第一 5:21: 「子供らよ,自分を偶像から守りなさい」。

   ルカ 4:8: 「イエスは答えて言われた,『「あなたの神エホバをあなたは崇拝しなければならず,この方だけに神聖な奉仕を
   ささげなければならない」と書いてあります』」。

国旗や国家、校歌などに関して、「ものみの塔協会」は一貫して偶像礼拝と決め付けている。実際、学校に通う生徒には、厳しく
禁止している。でも、皆さんは次のような事実をご存知だろうか? エホバの証人である学校の先生が、校長先生から国旗掲揚を
するように命じられたら、どうだろうか? 「当然、そんなこと、駄目に決まっている」と多くの方は思われるかもしれないが、
残念ながら事実は違うのである。実際には「当人の良心に任せる」ということになっている。たぶん、「ものみの塔」誌のような
公の文章にはあまり書かれていないかもしれないが、実際に、私は、ある高校で、定期的に国旗掲揚のに「任務」を果たしている
エホバの証人の兄弟を知っている。実際、その光景を見て、同じ学校に通う研究生の先生がつまづいたのだが、逆に、「それは良
心の問題なんですよ」といって長老から執りなされた経験がある。でも、生徒には問答無用で禁止しておきながら、先生の立場だ
と、何故、良心の問題になるのか、いまだに不思議である。まさか「業務命令だから仕方ないんだ」とは言わないでしょうが。


(8)バプテスマ

バプテスマについては、「論じる」の本からの引用はしないが、最近、「ものみの塔」誌2000年4月1日号の研究記事でバプテスマ
について考えたところである。いつも不思議に思うのは、人は知識⇒悔い改め⇒転向⇒献身⇒バプテスマという段階を経てバプテ
スマに至るとされているが、献身について聖書的な根拠が乏しいということである。実際、「論じる」の本にも「献身」の項目は
存在しない。だいたい、聖書に「献身」という言葉はないのである。知識や悔い改めや転向やバプテスマという言葉はあるし、そ
の根拠となる聖句も示されているが、献身については、次の聖句が示されるだけである。

  (マタイ 16:24) それからイエスは弟子たちに言われた,「だれでもわたしに付いて来たいと思うなら,その人は自分を捨て,
   自分の苦しみの杭を取り上げて,絶えずわたしのあとに従いなさい。

ここには、献身のけの字もないが、「自分を捨て」というところを「献身」と理解しているわけである。また、「ものみの塔協会」
発行の聖書辞典である「聖書に対する洞察」にも「献身」という項目はない。「聖書に対する洞察」では以下のように「献納」の
項目があるだけである。

   *** 洞-1 888-9  献納 ***

   献納(けんのう)(Dedication)

   神聖な目的のために分離する,もしくは取り分けること。ヘブライ語のナーザル(献じる)には,「離れている; 離れた; 退
   く」といった基本的な意味があります。(レビ 15:31; 22:2; エゼ 14:7。ホセ 9:10,脚注と比較。)関連するヘブライ語
   のネーゼルは,大祭司の神聖なものとされた頭もしくは油そそがれた王の頭に冠として載せられた,聖なる献納のしるしもし
   くは象徴を指しています。それはナジル人を指す語でもありました。―民 6:4-6。創 49:26,脚注と比較。

この点については、問題提起だけにとどめておきたい。読者の皆さんにも是非ご一考願いたい。


(9)ハルマゲドン

   ハルマゲドンの際,幼い子供たちはどうなりますか

   聖書はこの質問に直接には答えていませんし,わたしたちは人を裁く者ではありません。しかし聖書は,真のクリスチャンの
   幼い子供たちを神が「聖なる者」とみなされることをはっきり示しています。(コリント第一 7:14)聖書はまた,過去の時
   代に神が邪悪な者たちを滅ぼした際,その幼子たちも共に滅ぼされたことを明らかにしています。(民数 16:27,32。エゼキ
   エル 9:6)神はだれが滅びることも望まれませんから,親と子供双方の益のために,いま警告を伝えさせておられます。親に
   とって賢明なことは,子供たちが今もハルマゲドンの時も神から好意の目で見られるような道を追い求めてゆくことではな
   いでしょうか。

後に復活があるなら、そのときに名誉回復がされるので、我慢することもできようが、たまたま親が悪かったために、たったそれ
だけの理由で永遠の滅びの裁きを受けるとしたら、その子にとって、それは何と不幸なことだろう。そして、何と不公正なことな
のだろう。本当に公正の神がそのようなことをするのだろうか? 「聖書にそう書いてあるのだからそうなのだ」と反論されるか
もしれないが、それは間違った解釈のゆえである可能性はないだろうか?


(10)復活

   ある人々は,裁きの宣告を受けたのち第二の死に引き渡されるだけのためによみがえらされるのですか

   ヨハネ 5章28,29節にはどのような意味がありますか。それはこう述べています。「記念の墓の中にいる者がみな,彼の声を
   聞いて出て来る……のです。良いことを行なった者は命の復活へ,いとうべきことを習わしにした者は裁きの復活へと出て
   来るのです」。イエスがここで言われた事柄は,イエスが後にヨハネに啓示された事柄に照らして理解しなければなりませ
   ん。以前に良いことを行なった人々も,悪いことを習わしにしていた人々も,「それぞれ自分の行ないにしたがって裁かれ」
   ます。いつの行ないでしょうか。過去の生涯における行ないに基づいて罪に定められるとみなすべきであるとすれば,それ
   は,「死んだ者は自分の罪から放免されている」と述べる,ローマ 6章7節の言葉と調和しないことになるでしょう。ただ滅
   ぼすために復活させるというのは道理に合わないことでもあります。ですから,ヨハネ 5章28節で,イエスは人々が復活する
   時のことを述べておられるのであり,ヨハ 5章29節では,その人々が人間としての完全さにまで向上してから裁きを受けた時
   のその最終的な結果について語っておられるのです。

これも、変な話である。「ものみの塔協会」はすべての聖句をリーズナブルに解釈しないと気がすまないために、落とし穴にはま
っている感じがする。ローマ6:7との整合性を重視するあまり、ヨハネ5:28,29の理解は非常識なもの、理解不能なもの
になってしまっている。だいたい文脈から言っても、ここで、将来行なう事柄についてイエスが述べたとは、到底考えられない。


   幾十億人もの人が死からよみがえらされるとすれば,それだけの人々すべてがどこに住むのですか

   かつて地上に生きた人の数は,ごく大まかに見て200億人ほどと推定されます。既に見たとおり,このすべてが復活するわけ
   ではありません。しかし,たとえそのすべてが復活すると仮定しても,その人々を擁するだけの場所は十分にあります。地球
   の現在の陸地の面積はおよそ1億4,760万平方`です。その半分を他の目的のために取り分けたとしても,まだ一人当たり約
   37アール(1エーカー弱)の土地があり,これは必要を十分に上回る量の食物を供給できる広さです。今日の食糧不足の根底
   にある問題は,必要な量の食物を生産する能力が地球にないということではなく,むしろ,政治上の対立と商業上の貪欲さで
   す。

この点については、本エッセイの17「エコロジー的考察:この地球は200億人の人類を養えるか?」をご覧いただきたい。



「ものみの塔協会」には変なサイクルがあって、忘れた頃に忘れられていたものがリバイバルすることがある。「論じる」の本も、
何かの拍子に本部の誰かが思いついたのかどうか知らないが、埃をかぶっていたものを取り出す羽目になった。しかし、何と、そ
こには驚愕の事実が隠されていた。しばらく見ない間に、私がバカになったのか、信仰が弱ってしまったのか、それとも見えない
ものが見えるようになっただけなのか、いずれにしても、今行なわれている神権宣教学校には耐え難い苦痛がある。

こんなことを信じていたのか、こんな論理がまかり通っていたのか、という驚きと衝撃である。「ものみの塔協会」の指導部が意
図しているにせよ、そうでないにせよ、「論じる」の本は、実質的には何も論じていないのである。本当に何も論じていないので
ある。


2002年6月15日

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