「物事をありのままに考えるエホバの証人」より−5

目次に戻る

短編オムニバス集−その2(最近の「ものみの塔」誌から感じたこと)

【「ものみの塔」誌2000年8月15日号/アベルは血を伴った犠牲に対して認識を示す??】

「ものみの塔」誌2000年8月15日号では、その第1研究記事で「神に喜ばれた犠牲」という主題の記
事が扱われています。その記事では、主に、古代イスラエルの宗教儀式における犠牲について論じられてお
り、その背後にある精神などについても触れられています。また、アベルの捧げた犠牲が、エホバの約束に
対する人類最初の信仰の表明として賞賛されています。

アベルが信仰の人であったことは、聖書に述べられていることであり、特に異論はありませんが、捧げ物に
対するアベルの認識についての「ものみの塔」誌の説明は、やや難解というか恣意的な気がします。

アベルの示した犠牲に対する認識については、過去の「ものみの塔」誌などにも、何度も登場してきていま
すので、まずは、その点について、年代順に振り返ってみたいと思います。最後に「聖書に対する洞察」か
らも引用してみたいと思います。


   *** 塔70 9/1 518  あなたは「魂を生きながらえさせる信仰」を持っていますか ***

   5 アベルは,神の「女」のすえの到来に対する信仰を表わし,自分の命を象形的に代用したともいえる,
   動物の犠牲をエホバにささげました。彼の兄である不忠実なカインは,血を含まない,野菜類しかささ
   げませんでした。その後,カインは弟の血を流し,殺人者となりました。しかしアベルは,エホバに喜ん
   でいだいたことを知って死にました。神は,アベルが信仰をもってささげた犠牲を受け入れることによ
   り,「その供物につきて証」されたのです。(ヘブル 11:4。創世 4:1-8)イエス・キリストのあがない
   の犠牲に対する,あなたの信仰は,アベルの犠牲に示された信仰と比較されうるものですか。

<犠牲に関して明らかにされている点>

   ●アベルは、自分の命を象徴的に代用した動物の犠牲を捧げ、カインは血を含まない野菜類しか捧げ
    なかった。
   ●神はアベルが信仰を持って捧げた犠牲を受け入れた。


   *** 目70 9/8 28  「わたしたちは愛すべきであり,憎んではならない」 ***
   
   カインとアベルがエホバにささげ物をした時,そのことがすべて表面化しました。カインはくだものや
   野菜を携えて来ましたが,アベルは「その羊の初生とその肥たるものを携来れり  エホバ,アベルと其
   供物を眷顧みたまひしかども  カインと其供物をば眷み給ざり(き)」。(創世 4:3-5)それはなぜ
   でしたか。なぜならアベルの心の状態は正しく,彼は正しい犠牲をささげ,しかも信仰を持ってささげ
   たからです。しかし,カインにはこれらすべての点が欠けていました。―ヘブル 11:4。ヨハネ第一
    3:12。

   カインのこうした心の状態をご覧になった神は,次のようにカインをしっ責して彼に援助の手を差し伸
   べました。―創世 4:5-7。

   ここでエホバ神は,その愛と寛容を持って高慢でねたみ深いカインに彼の心が危険な状態にあることを
   警告されました。そして,カインが謙虚になってアベルの模範にならうなら,彼もまた神の好意を得る
   ことができると告げられたのです。人間が神と和解するために血が流されることが必要でした。そこ
   で,ふさわしい犠牲とは血を流すことに関係のある動物の犠牲でした。―ヘブル 9:22。

<犠牲に関して明らかにされている点>

   ●カインはくだものや野菜を携えてきたが、アベルは羊の初子の肥えたものを携えてきた。    
   ●エホバは、アベルとその捧げ物を受け入れたが、カインとその捧げ物については、受け入れなかっ
    た。
   ●その理由としては、次の2点が関係していた。
     イ)正しい犠牲かどうか
     ロ)信仰が伴っているかどうか
   ●人間が神と和解するためのふさわしい犠牲とは、血を流すことに関係のある動物の犠牲だった。


   *** 塔80 7/1 28-9  「諸国民が犠牲としてささげるものは,悪霊に犠牲としてささげるのです」 ***

   昔の犠牲

   心を読むことがおできになるエホバはカインのささげ物を形式的なもの,信仰の裏打ちの全くないもの
   として退けられました。そのささげ物は神への愛を示すものというより,ささげた本人を高めようとす
   るものだったようです。カインが適正な親しい関係のうちに自分の造り主に近づこうとしていなかっ
   たことを,エホバは見通しておられました。でも,アベルの心構えは正反対でした。

   パウロはヘブライ人のクリスチャンたちに手紙を書き,アベルの犠牲が信仰から出たものであることを
   指摘しました。恐らくアベルは,人間の最初の親たちがまだエデンの園にいる間にエホバがへびに語ら
   れた言葉を知り,それを心に留めていたものと思われます。それは次のような言葉です。「わたしは,
   おまえと女との間,またおまえの胤と彼女の胤との間に敵意を置く,彼はおまえの頭を砕き,おまえは彼
   のかかとを砕くであろう」。(創世 3:15,新)アベルはこれらの言葉を詳しく調べ,アダムとエバがそ
   の反逆の前に享受していた完全な状態に人類が再度引き上げられるためにはだれかが血を流さねばな
   らないこと,つまり『そのかかとが砕かれる』必要のあることを悟っていたに違いありません。

<犠牲に関して明らかにされている点>

   ●カインの捧げ物は、形式的なもの、信仰の裏打ちのないものであったので退けられた。    
   ●アベルは、アダムとエバがその反逆の前に享受していた完全な状態に人類が再度引き上げられるた
    めにはだれかが血を流さねばならないことを理解していた。


   *** 塔91 9/15 11-12  真理に基づく信仰を働かせなさい ***
  
   12 敬虔なアベルはその父アダムとは違い,信仰を抱いていました。アベルは,「わたし[エホバ神]は,
   お前と女との間,またお前の胤と女の胤との間に敵意を置く。彼はお前の頭を砕き,お前は彼のかかと
   を砕くであろう」という,最初に語られた預言について両親から学んだようです。(創世記 3:15)こ
   のようにして神は,悪を滅ぼして義を回復させることを約束されました。この約束がどのように成就す
   るかは,アベルには分かりませんでした。しかし,神はご自分を切に求める者に報いてくださるという
   アベルの信仰は,犠牲をささげるようアベルを動かすほど強いものでした。恐らくアベルはその預言に
   ついて熟考し,その約束を成就して人類を完全な状態に引き上げるには血を流すことが必要だと考えた
   のでしょう。したがって,アベルがささげた動物の犠牲は適切でした。しかし,アベルや,キリスト教時
   代以前の他のエホバの証人たちは,信仰を抱いてはいたものの,「約束の成就にあずかりませんでした」
   ―ヘブライ 11:39。

<犠牲に関して明らかにされている点>

   ●アベルは、神の預言について熟考し、その約束を成就して人類を完全な状態に引き上げるには血を
    流すことが必要だと考えた。


   *** 塔96 6/15 4-5  神を愛するとはどういうことですか ***

   『従うことは犠牲に勝る』

   エホバはなぜ,カインの犠牲を退けられたのでしょうか。カインの捧げ物の質に何か問題があったので
   すか。カインが動物の犠牲ではなく,「地の実り」をささげたことがエホバの不興を買ったのでしょう
   か。必ずしもそうではありません。後に神は,ご自分の崇拝者の多くがささげる穀物の捧げ物やそのほ
   かの地の実りを喜んで受け入れておられます。(レビ記 2:1-16)ですから,カインの心に問題があっ
   たようです。その心を読むことができたエホバは,カインに次のような警告をお与えになりました。
   「なぜあなたは怒りに燃えているのか。なぜあなたの顔色は沈んでいるのか。善いことを行なうよう
   になれば,高められるのではないか。しかし,善いことを行なうようにならなければ,罪が入口にうずく
   まっており,それが慕い求めているのはあなたである」―創世記 4:6,7。

<犠牲に関して明らかにされている点>

   ●カインの犠牲が退けられた理由は、捧げ物の質に問題があったわけではない。カインの心に問題が
    あった。    


   *** 塔99 2/1 20-1  受け入れられる犠牲をエホバにささげる ***

   異なった道を選ぶ

   アベルの捧げ物は「自分の羊の群れの初子」の中から取ったものであったのに対し,カインは,単に
   『地の実りの中の幾らか』をささげたにすぎなかったという点を指摘する人がいます。しかし,問題は
   カインのささげた産物の質にあったのではありませんでした。エホバは「アベルとその捧げ物と」は
   好意をもってご覧になりましたが,「カインとその捧げ物と」は好意をもってご覧にならなかったと記
   されているからです。ですから,エホバはおもに崇拝者の心の状態をご覧になったのです。それによっ
   て神はどんなことに気づかれたでしょうか。ヘブライ 11章4節には,「信仰によって」アベルは犠牲を
   ささげたと述べられています。ですから,カインには,アベルの犠牲を受け入れられるものにした信仰
   が欠けていたようです。

   この点で,アベルの捧げ物に,血を流すことが含まれていたことは注目に値します。かかとが砕かれる
   ことになる胤についての神の約束は,当然,命を犠牲にすることが伴うとアベルは結論したのかもしれ
   ません。ですから,アベルの捧げ物は贖罪を願い求めるもの,また,神はいずれ罪のためのなだめの犠牲
   を備えてくださるという信仰を表明するものでもあったと言えるでしょう。

<犠牲に関して明らかにされている点>

   ●カインの犠牲が退けられたのは、産物の質に問題があったからではない。カインには信仰が欠けて
    いた。 
   ●アベルの捧げ物には、血が含まれていた。その根底には、贖罪の意識が働いていた。つまり信仰の
    表明が伴っていた。


   *** 洞-1 989  捧げ物 ***

   捧げ物(ささげもの)(Offerings)

   人間は早い時代から神に捧げ物を差し出してきました。記録に残る最初の例として,アダムの長子カイ
   ンは地の実りの初物を差し出し,アダムの下の息子アベルは自分の群れの初子をささげました。これら
   二人の兄弟の態度と動機は異なっていたようです。というのは,神はアベルの捧げ物を是認されました
   が,カインの捧げ物は好意をもってご覧にならなかったからです。(後に,律法契約は動物と穀物の両
   方の捧げ物の規定を設けています。)アベルは約束の胤による解放に関する神の約束に信仰を持って
   いて,人類がアダムとエバの失った完全さに引き上げられるためには血が流されなければならないこ
   と,つまり,だれかが『かかとを砕かれ』なければならないことに恐らく気づいていたのでしょう。
   (創 3:15)自分を罪人と認めていたアベルは信仰に導かれ,血を流すことが必要な捧げ物を差し出し,
   こうして罪のための真の捧げ物であるイエス・キリストを正確に予表しました。―創 4:1-4; ヘブ 
   11:4。

<犠牲に関して明らかにされている点>

   ●アベルとカインには、態度と動機の点で差があった。
   ●アベルは約束の胤に対する信仰があり、人類が完全性を取り戻すためには、血が流される必要性が
    あることに気付いていた。そこで、血を流すことが必要な捧げ物を差し出した。


では、最新情報である、今回の「ものみの塔」誌の記事はどうなっているでしょうか。

   *** 塔2000 8/15 13  神に喜ばれた犠牲 ***

   8 ・・・・・カインも,その捧げ物も期待に添うものではありませんでした。一方,カインの弟アベル
   は神の約束に信仰を示し,自分の羊の群れの初子の中からその幾らかをエホバへの犠牲としてささげま
   した。こう記されています。「信仰によって,アベルはカインよりさらに価値のある犠牲を神にささ
      げ,その信仰によって義なる者と証しされました」。―ヘブライ11:4。

   9 ・・・・・アベルは神の約束から,だれかのかかとが砕かれることになる,という点に気づきました。
   そうです,血が流されなければならないと判断したものと思われます。それは,まさに犠牲の概念その
   そものです。アベルは,命の源である方に,命や血と結びついた供え物をささげました。エホバの約束
   がせひとも実現されるようにという切なる願いと,その実現に対する期待の表われとしてささげたので
   しょう。・・・・・

<犠牲に関して明らかにされている点>

   ●アベルは、神の約束が実現するためには、将来、だれかの血が流されなければならないと判断し、
    血と結びついた供え物を捧げた。


これまでの流れをまとめてみますと、以下のようになります。

   イ)カインの犠牲については、1991年までは、その捧げ物の質に問題があったとされていますが、
     1996〜1999年の「ものみの塔」誌では、捧げ物の質に特に問題があったわけではないと
     見解が微妙に修正されています。
   ロ)アベルの犠牲が受け入れられ、カインの犠牲が受け入れられなかった主な理由は、背後にある心
     の状態、つまり信仰や動機などが関係していたという点は一貫して貫かれています。
   ハ)アベルが血の伴った犠牲を捧げたのは、血を流すことが必要であることを理解していたという点
     についても、70年代から一貫して言及されています(「ものみの塔」誌70年と96年には、
     この点についての明確な言及がありませんが、否定しているわけではありませんので、見解が変
     化しているという証拠は認められません)。


今、ここで問題にしたいのは、イ)の見解が変わっているという点ではありません。こうしたことはすでに
「ものみの塔協会」では日常茶飯事ですし、内容的にもさほど重要な事柄とは思えません。それよりも、む
しろ、ハ)でアベルが血の伴った犠牲を捧げることの意味を、当時すでに理解していたと、「ものみの塔協
会」が論じている点です。「ものみの塔協会」以外のキリスト教が、この点について、どんな教えをしてい
るか知りませんが、私には、この点が十分に理解できません。聖書を何回読んでみても、上記のような結論
を導き出すことは容易でないのです。つまり、そこまで「深読み」する根拠を見出すことが難しいと考えら
れます。

実際、アベルとカインが、エホバに捧げ物をしようとした時、羊飼いであったアベルが羊を捧げ、農夫であ
ったカインが穀物を捧げるということは、ごく自然の成り行きなのではないでしょうか。仮に、アベルとカ
インの職業が逆であったなら、結果はやはり、逆になった可能性が高いのではないでしょうか。それとも、
もし、「ものみの塔協会」の見解が間違いないとするなら、血を伴った犠牲を何としても捧げる必要を理解
していたアベルは、兄であるカインのところに行き、事前に自分の穀物を兄の羊と物々交換でもして、血を
伴った羊を手に入れ、それを犠牲として捧げたのでしょうか。そして、カインは、自分の羊の中から「幾ら
か」を取ってきて捧げることになったのでしょうか。それとも、羊はもったいないと考えて、アベルと物々
交換して得た穀物を捧げることになったのでしょうか。これはあくまでも仮定の議論ですが、こうしたこと
を考えますと、アベルが血の伴った犠牲の価値を認識しており、カインはそうした価値を認識していなかっ
たという結論は、いかにも不自然な解釈と言わざるを得ません。

そして、こうして得られた無理な結論を土台にして、次々と関連する色々な教理が構築され、組み立てられ
てゆくのをみるのは、恐ろしい気がします。そうしてできあがった論理は、まさに砂上の楼閣と言えないで
はしょうか。

さらに、こうした「不自然な解釈」は、「ものみの塔協会」の出版物では結構頻繁にみられるものなのです。
例えば、「ものみの塔協会」が出版している書籍の中で、聖書中の一つの書を節ごとにすべて解説するとい
う手法は珍しいものではありませんが、最近でも、「ダニエルの預言に注意を払いなさい」の中で、ダニエ
ル8:13,14の「2300日」の解釈が説明されていましたが(同書P177−179)、あまりにも
独り善がりの解釈で、とても恥ずかしくて他の人に開陳できる類のものではありませんでした。こうした無
理を重ねていった時に、いつか手痛いしっぺ返しを受けることにならなければよいのですが。


【「ものみの塔」誌2000年9月1日号/待つことは本当に喜び??】

「ものみの塔」誌2000年9月1日号の第2研究記事では、「待つ態度を示しましょう」と題した記事が
展開されています。その要点は、
   
   ●イエス・キリストも待つ態度を示した。
   ●クリスチャンには、待つ態度を身につけるべき状況がある。
   ●特に、将来のエホバの救いを待つ際に、正しい態度を示す必要がある。

というものです。

辛抱強さや忍耐などの特質は、聖書の中でも注意が向けられている分野であり、クリスチャンの示すべき特
質の一つであることは確かです。しかし、今回の「ものみの塔」誌の記事の趣旨は、結局、はっきりした年
代が明示されているわけではないものの、予想された終りがなかなか来ないために、エホバの証人の中にも、
次第に「待つ」ことに疲れを感じ始めている人が大勢出始めていることを示唆しています。本文中にも引用
されていますが、確かに「延期される期待は心を病ませる」(箴言13:12)のです。

ここで、問題となる箇所をいくつか取り上げてみたいと思います。


   *** 塔2000 9/1 13  待つ態度を示しましょう ***
   
   5 わたしたちは、イエスと同じような精神態度を培うなら、たとえ物事がいつも自分の期待したとお
   りに、また期待した時に起きなくても、エホバについての喜びを失うことはありません。・・・・・
   一例として権威ある立場の兄弟が何か間違ったことをしているので、すぐに正される必要がある、と
   思える場合があるかもしれません。待つ態度があれば、こう考えることができるでしょう。『その兄
   弟は本当に間違っているのだろうか。こちらの思い違いではないだろうか。たとえその兄弟が間違っ
   ているとしても、エホバはその人がやがて進歩してゆけば厳しい矯正措置を取らないでもすむと見て、
   その事態を許しておられるのではないだろうか』。

   7 聖書預言が成就してゆくにつれ,聖書の理解はいっそう精錬されたものになります。しかし、時に
   は、ある点の解明が遅れているように思えることがあるかもしれません。自分の望む時にそれがなさ
   れないような場合、快く待つでしょうか。思い出してください、エホバは、「キリストの神聖な奥義」
   を一度に少しづつ、およそ4,000年の期間をかけて啓示することをよしとされました。(エフェソス
   3:3-6)では、もどかしく思うべき理由が何かあるでしょうか。「忠実で思慮深い奴隷」がエホバの
   民に『時に応じて食物』を与えるために任命されていることを疑うべきでしょうか。(マタイ24:45)
   すべてのことが完全に理解できないからといって、どうして敬虔な喜びを失ってよいでしょうか。忘
   れないでください。ご自分の「内密の事柄」をいつ、どのように啓示するかは、エホバがお決めにな
   るのです。―アモス3:7。

   10 待つ態度は、せん越にならないための助けでもあります。背教した人々の中には、待とうとしな
   かっ人たちもいます。それらの人々の中には、待とうとしなかった人たちもいます。それらの人は、 
   聖書の理解に、あるいは組織上の事柄に調整の必要がある、と感じたかもしれません。しかし、次の
   点を認めることができませんでした。すなわち、エホバの霊が、忠実で思慮深い奴隷を動かして、調
   整が必要だとわたしたちが感じる時にではなく、神の定めの時に調整させる、という点です。・・・

   20 自分の期待する事柄は実現する、という全き確信を抱いていれば、たとえそれがいつ実現するか
   を知らなくても、待っている期間は、「心を病ませる」ものとはなりません。神の忠実な崇拝者たち
   は、キリストの千年統治が目前に迫っていることを知っています。・・・・・


<5節について>

「権威ある兄弟が、間違ったことをする」頻度が少なければ、こうした方針で対処しても、実害は少ないか
もしれませんが、実際には、古参長老の悪事が、会衆においてひどく成員を悩ませているという事実を、私
自身多くの会衆で見てきました。

そうした中で、「エホバが許しておられるのだから、待ちましょう」という勧めは、組織防衛上は肝要な事
柄かもしれませんが、苦しめられている成員にとっては「地獄の日々」となってしまいます。

もっとも、そうした「悪を見逃さないしましょう」といったら、本部には苦情や訴えが殺到して機能がマヒ
してしまうかもしれません。それほど、今の組織は腐りかけているといっても過言ではありません。

上記のような方針が、そうした腐ったものに対する自浄作用を弱めているとしたら、それ自体大きな問題で
はないでしょうか。


<7節について>

5節は会衆の問題ですが、それを統治体レベルまで敷衍したのが7節の論理です。ここで行なわれている重
大な論理のすり替えにお気づきでしょうか。忠実で思慮深い奴隷(統治体)の考え=エホバのお考えという
すり替えが見事になされています。その論証は置き去りにしたまま、『「忠実で思慮深い奴隷」がエホバの
民に「時に応じて食物」を与えるために任命されていることを疑うべきでしょうか』とか、『ご自分の「内
密の事柄」をいつ、どのように啓示するかは、エホバがお決めになるのです』とたたみかけて、何か、話の
勢いだけで納得させてしまおうという乱暴なものです。いかにも聖書の論理を展開しているようでいて、実
際には、この点については、何も説明していないのです。

エホバの証人の皆さん、眠っていると「話術」という手品にかかってしまいますよ。


<10節について>

そのようにして組織の言いなりにならなかった人=背教者というレッテルが貼られてゆくのがよく分かりま
す。しかし、私の経験では、5節に反する行動を勇気をもって行なった結果、会衆の「悪」であった長老が
除かれて清い健全な会衆になったという事例がたくさんあります。まさか、そうしたことを行なわず、ハル
マゲドンまで我慢する方が優れているとでも考えているのではないでしょうが。


<20節について>

今回の「ものみの塔」誌のもう一つの結論がここに示されています。終りがなかなか来ないことに多くのエ
ホバの証人は、イライラしています。中には、組織に対する信頼が揺らいでいる人も見受けられます。当面
は自分の好きなことを損なわない程度に組織の中に留まっていよういうモラトリアム思考が急速に広まって
います。そうした傾向に危機感をもった「ものみの塔協会」指導部が、組織を引き締めるために書いた記事
が今回のものですが、『待っている期間は、「心を病ませる」ものとはなりません。神の忠実な崇拝者たち
は、キリストの千年統治が目前に迫っていることを知っています』という強弁とは裏腹に、会衆の生気は急
速に失われつつあるのが実情です。


こうして、「正しく待つ」ことの重要性を訴えた記事でしたが、まことに皮肉なことに、結果的に、多くの
会衆の成員たちは、自分たちが、本当は不当に「待たされている」かも知れないということに恐れを感じ始
めているようです。そうしたことを自覚しつつあると言えます。

こうした状況では、会衆が「霊的に死んでしまう」のは時間の問題かもしれません。その点については、別
の機会に詳しく考察してみたいと思います。


2000年10月28日

目次に戻る

アポトーシス

アポトーシスという言葉をご存知だろうか。アポトーシスとは、1972年にスコットランドの病理学者で
あるJ.F.R.Kerrらによって新しく定義・提唱され、現在生物学や医学の分野で盛んに研究が進め
られている細胞死の一種である。この細胞死は外的損傷等による病的な細胞壊死(ネクローシス)とは全く
異なった形態・機構をもっている。それは遺伝子にプログラムされ、高度な制御機構を持った、細胞の一種
の能動的な「自殺過程」であるといえる。アポトーシスに陥った細胞は収縮し、核が濃縮し断片化する。断
片化した核が細胞膜に包まれたアポトーシス小体が形成され、これは食細胞により処理される。この過程は
一度トリガーが引かれると後戻りすることが難しく、最終的に細胞死に行き着くまでは終了しない。

霊的にも、このアポト−シスと同じように、ある種の自壊作用が働くことがあるようだ。今、「ものみの塔
協会」がまさに、そうした状況にあるのではないだろうか。一度トリガーが入って、アポトーシス・モード
に突入した細胞は、最終的な死に至るまで、その動きを止めることはない。「ものみの塔協会」の一連の状況
を見ると、そうした危険な兆候が強まっているように思えてならない。以下、こうした点について、今回は
考えてみたい。

実際のところ、最近の「ものみの塔協会」は明らかに変調をきたしているとしか言いようがない。本当に変
調なのか、それとも、元々、こんなものなのに、単に私がそうした事態に注意が向くようになったに過ぎな
いのかは定かではない。多分、前者であるとは思うが。

さて、どんな点が変調かというと、少し列挙しただけでも、以下のような点にすぐに気がつく。

   ●「ものみの塔」誌に掲載される記事の霊的レベルダウンが著しい
   ●地域大会で統治体が用意するプログラムのレベルダウンが著しい
   ●統治体あるいは支部が提案する方針が、現場の会衆と大きく乖離した的外れなものになっている
   ●規模の大きな大会に出席する人の人数の減少がみられる
   ●会衆の集会に出席する人の人数が激減している
   ●会衆の集会に活気がみられない
   ●新しくバプテスマを受ける人が激減している
   ●新しくバプテスマを受ける人のレベルダウンが著しい
   ●野外奉仕に参加する人が減少している
   ●全般的に組織的な低迷状態に陥りつつある現在、指導部は有効な対策が打ち出せないでいる

上記の点は、統治体が関係している世界的なレベルのものもあれば、日本支部だけに限定した問題もあるし、
さらに、指導部の打ち出す方針に直結した問題もあるし、単に、地元の会衆が関係しているだけのものもあ
るので、少し整理しながら考えてみたい。


1)指導部の指導力の低下

1−1)「ものみの塔」誌の質の低下

「ものみの塔」誌は、エホバの証人にとって、もっとも重要な霊的食物であるという位置付けからして、当然、
統治体の執筆委員会が力をいれて執筆・編集しているにもかかわらず、その低迷ぶりは顕著となっている。

例えば、取り扱う主題をピックアップして、その変遷を辿ってみるだけでも、その変調の兆候をうかがうこ
とができる。1989年と1999年の1年間の「ものみの塔」誌に掲載された主要記事のタイトルを分類
して比較してみると、概ね以下のように分類できる。


<1989年>

 【教理に関するもの 19/54=35%】
   
   ●悪名高い娼婦―彼女の倒壊,4/15
   ●悪名高い娼婦―彼女の滅び,4/15
   ●あなたは神の契約の益にあずかりますか,2/1
   ●偽りの宗教は娼婦となる,4/15
   ●今生きている幾百万もの人々に益をもたらす結婚,7/1
   ●快適な楽園における人間の壮大な見込み,8/1
   ●回復された楽園は神の栄光となる,8/15
   ●神から任命された審判者がすべての人のために行なう公正,2/15
   ●神の裁きの時が到来した,4/1
   ●神のとこしえの目的に関係した種々の契約,2/1
   ●神は人間が楽園の生活を楽しむことを意図しておられる,8/1
   ●公正は神の道すべてに見られる特色,3/1
   ●真の公正をだれに期待することができますか,2/15
   ●すべての国民のために間もなく行なわれる公正,3/1
   ●創造物ではなく,創造者を崇拝しなさい,5/1
   ●『戦いはエホバのものである』,1/1
   ●人間が不従順になっても,楽園の見込みは変わらない,8/1
   ●楽園に戻る道を開く,8/15
   ●霊が諸会衆に述べることを聞きなさい,4/1

 【組織上の取り決めに関するもの 6/54=11%】
   
   ●生き残って千年期に入るため,組織された状態を保つ,9/1
   ●来たるべき千年に備えて,いま組織する,9/1
   ●決議,4/15
   ●指導の任に当たっている人たちに従いなさい,9/15
   ●長老たち―あなたに託されたものを守りなさい,9/15
   ●長老たち,神の羊の群れを優しく扱いなさい,9/15

 【クリスチャン生活に関するもの 26/54=48%】

   ●愛と敬意を示す 夫として,5/15
   ●愛と敬意を示す 妻として,5/15
   ●愛の旗のもとに結ばれる,1/1
   ●あなたがバプテスマを受けることに何の妨げがありますか,1/15
   ●あなたの信仰と霊的な健康を保ちなさい,10/1
   ●あなたは隠された宝を求めますか,12/1
   ●あなたは信仰によって世を罪に定めますか,10/1
   ●アブラハム―神との友情を求めるすべての人のための模範,7/1
   ●エホバが与えてくださった洞察力,3/15
   ●『エホバのみ手は彼らと共にあった』,1/1
   ●エホバはわたしの助け主,12/15
   ●思いも体も清くありなさい,6/1
   ●神への愛が意味する事柄,5/1
   ●神への恐れのうちに神聖さを完成する,6/1
   ●「自分の魂にとってさわやかなものを見いだす」,7/15
   ●正確な知識が必要な理由,12/1
   ●他の人に個人的な関心を抱きなさい,11/15
   ●洞察力を得るためにエホバに頼りなさい,3/15
   ●どうすれば有害なうわさ話を抑えられますか,10/15
   ●道徳的な清さは若者の美しさ,11/1
   ●バプテスマはどのようにわたしたちを救うことができるか,1/15
   ●不信者とくびきを共にしてはなりません,11/1
   ●平衡の取れた,簡素な生活を送りなさい,7/15
   ●有害なうわさ話に用心しなさい,10/15
   ●「良いたよりにふさわしく行動しなさい」,6/15
   ●礼儀をわきまえない世にあって,クリスチャンとしての礼儀を身に着ける,6/15

 【宣べ伝える業に関するもの 3/54=6%】

   ●エホバに喜ばれる犠牲をささげなさい,12/15
   ●エホバのために証言しなさい 疲れ果ててはならない,12/15
   ●良いたよりのためにすべての事をしなさい,11/15


<1999年>

 【教理に関するもの 11/53=21%】
   
   ●偉大な陶器師とそのみ業,2/1
   ●永遠の命に至る唯一の道,4/15
   ●永遠の命は本当に可能ですか,4/15
   ●神の神殿に「心を留めよ」,3/1
   ●キリストの贖い―神の救いの道,2/15
   ●今日の「神殿」と「長」,3/1
   ●死後の命―聖書は何と述べていますか,4/1
   ●死後の命―人々は何を信じていますか,4/1
   ●創造者がどのような方かを知ってください,6/15
   ●創造者は人生を意味あるものとする,6/15
   ●わたしたちの「地」に注がれるエホバの祝福,3/1

 【組織上の取り決めに関するもの 2/53=4%】
   
   ●エホバの羊を世話する「人々の賜物」,6/1
   ●「人々の賜物」に感謝する,6/1

 【クリスチャン生活に関するもの 37/53=70%】

   ●愛の道は決して絶えない,2/15
   ●あなたの偉大な創造者を覚えなさい,11/15
   ●あなたの祈りは『香として調えられて』いますか,1/15
   ●あなたはアブラハムのような信仰を持っていますか,1/1
   ●あなたは神の言葉をどれほど愛していますか,11/1
   ●あなたは自分の兄弟を得ることができます,10/15
   ●あなたも終わりまで耐え忍ぶことができます,10/1
   ●エホバに道を示していただく喜び,5/15
   ●エホバの道を歩みつづけなさい,5/15
   ●エホバは今日,わたしたちに何を求めておられますか,9/15
   ●エホバは道を整えられる,8/15
   ●エホバはわたしたちに無理な要求をされますか,9/15
   ●親の皆さん,あなたの手本は何を教えていますか,7/1
   ●家族の皆さん,会衆の一員として神を賛美してください,7/1
   ●神に対する務めのすべてを果たしていますか,11/15
   ●神の言葉を愛することの益,11/1
   ●神の言葉を家族で定期的に研究する,7/1
   ●神の約束に対する信仰によって生きる,8/15
   ●希望を錨とし,愛を推進力とする,7/15
   ●「啓示」の書を読み,幸いな者となってください,12/1
   ●心から許しなさい,10/15
   ●「心を強固にしなさい」,1/1
   ●『これらは必ず起きる事です』,5/1
   ●しりごみして滅びに至ることがありませんように,12/15
   ●信仰を抱く者となりましょう,12/15
   ●成功する生き方をしてください,9/1
   ●他の人を敬いなさい,8/1
   ●忠節な手を挙げて祈りなさい,1/15
   ●土の器にあるわたしたちの宝,2/1
   ●「読者は識別力を働かせなさい」,5/1
   ●「何事にも定められた時がある」,10/1
   ●「平和のための時」は近い! 10/1
   ●「へりくだった思いを身に着けなさい」,8/1
   ●目覚めていて,勤勉でありなさい,5/1
   ●黙示録の「喜ばしいおとずれ」,12/1
   ●若い皆さん―知覚力を訓練してください,9/1
   ●若い皆さん―世の霊に抵抗してください,9/1

 【宣べ伝える業に関するもの 3/53=5%】

   ●エホバに近づくよう人々を助ける,7/15
   ●自分の教えに絶えず注意を払いなさい,3/15
   ●洞察力と説得力のある教え方をしなさい,3/15


上記の結果をまとめると、1989年から1999年にかけて、以下のように変化していることが分かる。
 
 【教理に関するもの】        35% → 21%
 【組織上の取り決めに関するもの】  11% →  4%
 【クリスチャン生活に関するもの】  48% → 70%
 【宣べ伝える業に関するもの】     6% →  5%

教理に関する事柄、組織上の取り決めに関する事柄が減少し、反対にクリスチャン生活、特質、信仰などに
係わる事柄が著しく増加していることが分かる。宣べ伝える業に関する記事は横這いであった。宣べ伝える
活動に関する記事は、もともと王国宣教というそれだけを目的として冊子があるので、「ものみの塔」誌で取
り上げることは少なかったので大きな変化が生じていないものとみられる。

やはり、教理や組織に関する事柄が減少し、代わりにクリスチャン生活に関する事柄が増加していることは、
それだけ、現在の成員が「固い食物」に耐えられなくなっていることを物語っている。確かに、「ものみの
塔」誌の記事の歯ごたえは柔らなくなっている。結果、クリスチャン生活の細かい点をあら捜しするような
記事に終始したり、同じような事柄の繰り返しが多くなるので、読者の読もうとう意欲の減退にもつながっ
ているように感じられるのである。


1−2)地域大会、巡回大会等のプログラムの質の低下

毎年、地域大会が終了すると、「今年の大会は今までで最高であった」というコメントが「ものみの塔」誌に
踊るものであったが、今年はそうした自画自賛の言葉さえ出てこなかった。まさに最低の出来栄えであり、
指導部もそのことを自覚しているということなのだろうか。

地域大会や巡回大会などの大規模な大会には、普通、主題が設けられており、そのテーマに沿って、内容を
掘り下げてゆくものである。3日間の地域大会ともなると、よくこれだけのプログラムを準備できるものだ
と関心するぐらいの豊富な内容が提供されてきた。2日間の巡回大会や、1日の特別一日大会でも基本的に
は同様である。

それが、今年は、まさに「一体どうしたんだろう」という出来栄えで、とても3日間の間、関心を持続させ
ることが難しいほどであった。これでは、大会出席者の人数の減少を嘆いても、出席者を責めることはでき
ない。むしろ、出席したくなるようなプログラムつくりが先決である。

「ものみの塔」誌の担当は統治体の執筆委員会であり、大会のプログラムの担当は教育委員会であるが、この
2つの大黒柱が揺らいでいるということは、「ものみの塔協会」は危機的な状況にあると判断せざるを得な
いのではないだろうか。


1−3)会衆の運営や奉仕に関する指示が現場の状況から乖離し始めている

以下のような事例があるので紹介しておこう。

   ●区域の記録の仕方において、10年前に指示が出され、効果がないことが確認され、どの会衆にお
    いても自然消滅した方法があったが、最近、その方法を復活させるようにという指示が巡回監督を
    通して出された。会衆の長老たちのうち、10年前の状況を知っている人たちの多くは、その指示
    を会衆に適用することに反対したが、そうした意見が通るはずもなかった。
 
   ●会衆の開拓者がそうでない伝道者を援助する取り決めが、これまでも再三取りあげられてきたが、
    2年ほど前から突然復活した。以前、この取り決めがなくなる時も、正式な説明はなかったが、そ
    の主な理由は開拓者に余分な負担がかかるというものであった。現在、開拓者は経済的により大き
    な負担に苦しんでいるのに、何故、今、復活なのか、全く疑問であるが、そうした点の説明は全く
    なされていない。
    
   ●野外奉仕の手引きとなっている「王国宣教」には、野外奉仕の手本となる紹介の言葉などが載って
    いるが、全く、現在の社会情勢を知らない人がつくっているとしか思えない陳腐な紹介の言葉が載
    るようになって、会衆の長老たちは困りあきれている。たぶん、ベテルの世の中を知らない人たち
    がつくっているのだろうが、世の中を知らな過ぎる。最近の奉仕者は、「王国宣教」の紹介の言葉
    を用いる人はほとんどいなくなったしまった。野外奉仕の紹介の言葉ぐらいなら、無視すれば済む
    ことなので実害は少ないが、こうした人たちが支部の全体を動かしているとしたら、そら恐ろしい
    気がする。


2)会衆の質の低下と機能不全

指導部の指導力低下は必然的に末端組織である会衆の活力低下に結びつくことになる。多くの会衆において
は、今、次のような状況がみられている。

   ●集会出席者の低下
   ●集会における注解の不活発化
   ●新しい研究生の減少
   ●バプテスマを受ける人の減少
   ●会衆全体の活力低下

集会に集まる人の減少の大きな原因の一つは、端的に言うならば、集会に来ても楽しくないからである。提
供されるプログラムの質が低下しており、マンネリ化が著しい。プログラムを提供する長老に熱意がみられ
ず、プログラムの内容に工夫がないので、聞く成員たちも飽き飽きしているのである。

例えば、公開講演の筋書きは100程度あるので、聞く聴衆の立場からすると、2年もすればまた同じ主題
の話を聞くことになる。筋書きはめったに更新されないので、話し手が新鮮な経験を集めたり、適用を工夫
しないと、2年前とほとんど同じ話を聞くことになってしまう。筋書きといっても、結構ボリュームがある
もので、筋書きだけを読んでいても30分ぐらいは経過してしまう。あとは適当に聖句をちりばめれば、少
し経験のある話し手なら、何とか45分の公開講演をこなすことが可能である。でも、これでは、聴衆が益
を得られるはずがない。

新しい聖書研究生の減少は、オウム事件など宗教にまつわるマイナスイイメージが社会に充満しており、そ
うした影響を無視することはできない。同時に、この宗教から魅力が失われつつあることも確かである。た
まに研究生がみつかっても、いまどきの研究生は、社会からドロップアウトした人たちが多く、家から家を
訪問して関心を示すエホバの証人ぐらいしか相手にしてくれないので、見出された人たちである。そうした
人たちを迎えることによって、ますます会衆の質の低下を招くという悪循環がみられるという報告もされて
いる。

研究生の減少は必然的にバプテスマを受ける人が減少することを意味している。最近の巡回大会では、バプ
テスマを受ける人がゼロの大会があったということである。少し前までは考えられない状況に陥りつつある
ことを物語っている。


結果、会衆の活力は急速に失われつつある。まさに会衆は、アポトーシス・モードに突入したかのようであ
る。すべての機能がマイナスに作用し始め、会衆は急速にシュリンクして、解体に向かっているように見え
る。最近、エホバの証人の社会での流行りは、会衆の合併であるが、これは、まさに、やむをえない選択肢
なのである。ほんの数年前までは会衆の分会が進み、次々と新しい会衆が誕生し、分会して少人数で再スタ
ートしても、すぐに成員が増えてしまうという事態にうれしい悲鳴をあげていたとは信じられないぐらいで
ある。

生物学的なアポトーシスはトリガーが入ると、もう誰にも止められない。さて、霊的アポトーシスの場合に
は、どうなのであろうか。何か、防波堤のようなものがあるのだろうか。それとも、坂道を転げるように、
このまま崩壊に向かうのだろうか。

2000年10月29日

目次に戻る

速報:「ものみの塔協会」の法的組織変更に伴う波紋と今後予想される事柄

<今回の法的組織変更の概要>

本HPのNEWS欄でも取り上げられましたように、「ものみの塔協会」の組織変更が、2000年10月
7日に開催された「the Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania」 の年次総会で発表され
ました。それによると、以下のような点が新たに決まったようです。

   ●「ものみの塔協会」のこれまでの理事(全員油そそがれた者であり統治体の成員でもある)が退き、
    新たな理事が専任された
   ●「ものみの塔協会」以外に新たに3つの非営利団体が設立され、その理事も選任された
   ●「ものみの塔協会」の新たな理事7名は、「ものみの塔協会」の世界本部で長年の経験を積んだ人
    たちである
   ●現在13名から成る統治体は、引き続き、聖書の教義の解明、福音宣明などの業には注意を向けて
    ゆくことになる
   ●「ものみの塔協会」および新しい3つの非営利団体の理事は、すべて「ほかの羊」級の人たちで構
    成されている


<今回の組織変更が意味する事柄>

今回の組織変更は、エホバの証人の中でも大きな歴史的事件となることは間違いないでしょう。事実、この
ニュースが広まりつつある現在、海老名ベテルは、この話でもちきりとなっています。会衆でも、いち早く
この噂をかぎつけた長老たちは、「これから先、一体どうなるんだろう」とあちこちで話し合っています。

また、日本では、この原稿を執筆している時点で、12月17日(日曜日)に埼玉県与野市のスーパーアリ
ーナで大規模な特別集会が開催される予定となっており、その準備が秘密裏に進められています。すべての
会衆が招待されているわけではありませんが、関係する会衆の長老たちにも、大会開催まであと1ヶ月程度
と迫っているにもかかわらず、今のところ、何の連絡もされていません。そこで、一部の事情を知っている
兄弟たちの中には、この特別な集会が、一体何の目的で開催されるのか、いぶかっている人もいます。

さて、今回の組織変更は、単に組織構造を少し変更したという程度の事柄で済ませられる内容ではないでし
ょう。恐らく、その聖書的な根拠にまで立ち入る必要があるはずです。「これまでは、これこれの理由で、
このようにしてきたが、今回、これこれの理由で、このように変更することにした」という風に、明確に説
明する必要があるでしょう。例えば、少し考えただけでも、以下のような点がすぐに思い浮かびます。

   ●統治体は、これまで「思慮深い奴隷」として、イエスから「すべての持ち物をつかさどらせる」と
    されてきました(マタイ24:45−47)。そして、実際、「すべての持ち物」をつかさどって
    きましたが、今回の組織変更によって、その幾つかを手放すことになります。そのことの聖書的な
    根拠を明確に示す必要があるでしょう。

   ●これまで統治体は、人事、教義の説明、宣べ伝える活動の3つの主要な仕事を、すべて指導してき
    ました。その聖書的な根拠とは別に、実際の運用面で、教義や福音宣明については、これまで通り
    担当するようですが、人事権は放棄するのでしょうか。たぶん、理事をやめるということは、そう
    いうことになるのでしょう。そうなった場合、人事権はどこの誰が掌握することになるのでしょう
    か。たぶん、新しい「ものみの塔協会」の理事が人事権を発動するのでしょうが、これまでは、油
    そそがれた人たちの行なう人事にあからさまに口をはさむということは少なかったものと推察でき
    ますが、これからは、どうなのでしょうか? 実際、日本支部の代表者たちの中にも、自分は「油
    そそがれた者」であると主張する人たちが出現しているようです。当然、ブルックリンの世界本部
    の中にも、統治体の成員ではないものの、油そそがれた者であると主張していた人たちがいること
    でしょう。そうした人たちは、いつか、自分たちも、統治体の成員として迎えられることを願って
    いたかもしれません。今回の組織変更で、そうした道が遠のいたことに対して、何らかのリアクシ
    ョンが考えられるように思います。また、今後、行なわれる人事に対して、いろいろな不協和音が
    生じることは容易に想像することができます。さて、そうした物事をすべて円滑に運営することが
    「統治体」という権威を用いないで果たして可能なのでしょうか。世の中一般の組織にみられるよ
    うな露骨な派閥争いなどが生じないとも限りません。

さて、これまでも統治体の老齢化と増大する「大群衆」の世話のことが、幾度か論議となったことがありま
す。例えば、「ものみの塔」誌1992年4月15日号では、統治体を援助するために、「ネティニム級」
を中心に「与えられた者たち」からなる援助の取り決めが発表されました。これによって、統治体の幾つの
かの専門委員会に統治体以外のメンバーが援助者として参加できる道が開かれました。その記事を以下に示
します。


   *** 塔92 4/15 31  発表 ***

   統治体の委員会への援助

   エホバの証人の統治体の成員は現在12人であり,自分たちの割り当てにおいて忠実な奉仕を続けてい
   ます。統治体の成員は,増大する「大群衆」に属する忠節な人々の熱心な支持をいつも感謝していま
   す。(啓示 7:9,15)全世界的な驚くべき増加を考えると,この時期に統治体に幾らかの付加的な援助
   を与えることはふさわしいと思われます。それゆえ,統治体の各委員会,すなわち人事,出版,奉仕,教
   育,執筆各委員会の会合に参加するよう,おもに大群衆の中から何人かの援助者を招くことが決定され
   ました。こうして,それら各委員会の会合への出席者数は,7ないし8人に増えます。統治体の委員会の
   成員の指導のもとで,これらの援助者たちは討議に加わったり,委員会から与えられた様々な割り当て
   を果たしたりすることになります。この新しい取り決めは1992年5月1日から実施されます。

   今まで長年の間,油そそがれた証人の残りの者の数が減少するのに対して,大群衆の数は,わたしたち
   の予想をはるかに超えて増加してきました。(イザヤ 60:22)わたしたちはこの驚くべき拡大をどれ
   ほどエホバに感謝していることでしょう。1931年にエホバの証人という新しい名称が感謝のうちに採
   択された時には,王国伝道者の最高数は3万9,372人で,そのほとんどはキリストの油そそがれた兄弟で
   あることを公にしていました。(イザヤ 43:10-12。ヘブライ 2:11)その60年後,1991年には,全世界
   の伝道者最高数は427万8,820人であり,そのうちの8,850人だけが油そそがれた残りの者の一員である
   ことを公にしました。聖書の光に照らして予期されていたように,「大群衆」は現在「小さな群れ」
   の残りの者を,数にして480余りに対して1の割合で上回っています。(ルカ 12:32。啓示 7:4-9)拡
   大する王国の関心事の世話をする点で,残りの者は大群衆の協力と支持を確かに必要としており,それ
   を感謝しています。

   この号の「ものみの塔」誌で説明されているように,今日,霊的イスラエルと共に奉仕する一つのグル
   ープがあり,そのグループは,ユダヤ人の残りの者と共にバビロンへの流刑から帰還したネティニムや
   ソロモンの僕たちの子らと類似点があります。それらの非イスラエル人は,帰還するレビ人を数の面
   で上回ってさえいました。(エズラ 2:40-58; 8:15-20)今日の大群衆の中から来た「与えられた者
   たち」は円熟したクリスチャンの男子であり,支部や旅行する奉仕において,また今や世界中に設立さ
   れている6万6,000の会衆の中で監督にあたってきた結果,相当な経験を積んでいます。

   最近,監督たちと,彼らを援助する奉仕の僕たちの教育のために,王国宣教学校が世界中で開かれまし
   た。米国だけで5万9,420人の監督たちが出席しました。これらの「年長者」はそのようにして,自分 
   の責任をさらに効果的に果たすための備えができました。―ペテロ第一 5:1-3。エフェソス 4:8,11
   と比較してください。

   エホバの証人のブルックリン本部では,幾人かの「与えられた者たち」が非常に長年にわたって奉仕
   しています。その中には,大群衆から来た円熟した監督たちが含まれており,彼らは豊富な能力と経験
   を身に着けています。それゆえ統治体は,統治体の委員会の会合で援助してもらうため,そのような監
   督の中の少数の人を選びました。それらの人は必ずしも一番長い奉仕の記録を持つ人ではありません。
   むしろ,円熟し,経験を積んだ人であり,特定の分野で援助するのにふさわしい資格を持つ人です。い
   ずれかの委員会と共に働くよう任命されるからといって,彼らに特別な身分が与えられるわけではあ
   りません。それはイエスが弟子たちに関して,『あなた方はみな兄弟です』と言われた通りです。
   (マタイ 23:8)しかし,これらの男子は多くのものを託されるので,彼らには「多くのことが要求さ
   れます」。―ルカ 12:48。

   わたしたちは今日のエホバの組織の前進を歓びます。過去10年間で,野外での宣教奉仕を行なう人々
   の数がほぼ100%増加しました。それは,大いなるダビデであられるイエス・キリストに関する,「その
   政事と平和とは増しくわわりて終わりなし」という預言と調和しています。(イザヤ 9:7,ジェーム
   ズ王欽定訳)エルサレムの城壁を修理する際にネティニムが祭司と共に働いたのと同様に,今日,『そ
   して,異国の者たちは実際にあなたの城壁を築くであろう』というエホバの組織に関する預言が成就
   しつつあります。(イザヤ 60:10。ネヘミヤ 3:22,26)現代のネティニムは,エホバの世界的な組織
   の中でどんな仕事や奉仕に割り当てられようとも,その割り当てにおいて「エホバの祭司」を援助し
   て真の崇拝を築き上げる,という点で示している熱心さのゆえにほめられるべきです。―イザヤ 61:
   5,6。


その後、この取り決めと平行して(この取り決めと調和した動きの一環なのか、それとは意見を異にするグ
ループの台頭による路線変更なのかはさだかではありませんが)、統治体の成員の若返りが図られてゆきま
した。そして、今回の組織変更となったわけです。1年前の統治体の若返りはかなり大胆なものでしたから、
当面、統治体の成員の老齢化に伴う困難は伴うものの、少なくともある程度の時間稼ぎは可能になったと思
われていただけに、今回の組織変更はやはり唐突の感は免れません。

今回の組織変更は、1992年の「与えられた者たち」による援助の取り決め、つまり、統治体の委員会へ
の参加程度ではもう事態が立ち行かなくなってしまい、もっと「与えられた者たち」への権限委譲を拡大し
てゆかざるを得なくなったという風に考えることもできるでしょう。いずれにしても、今回の組織変更が、
統治体の権限縮小につながることは間違いなく、1年前に統治体に任命された「若い」油そそがれた兄弟た
ちは、ちょっと「はしごをはずされた」ような格好になってしまいました。それとも、統治体の教理面での
権限が生きているのであるならば、それも予定の範囲内のことなのでしょうか。いずれにしても、末端の我
々には正確な事態の把握は困難となっています。こうした点は、ブルックリン本部などにも人脈のある村本
氏の方が正確な情報を掴むのが早いかもしれません。


<今後予想される事態の展開>

さて、今後、予想される事態の展開ですが、

   1)統治体が表舞台から遠ざかることに対する聖書的な説明をどうするか
   2)統治体を脇に置いた場合に、エホバの証人の組織全体の求心力をいかに保ってゆくのか

という点が大きな課題になると思われます。

1)の点では、1992年4月15日号の第2研究記事の解釈を拡大することで解決できる可能性がありま
す。その記事を以下に示します。


   *** 塔92 4/15 12-17  エホバの備え,「与えられた者たち」 ***

   「よそからの者たちが実際に立って,あなた方の羊の群れを牧(す)」―イザヤ 61:5。


恐らく、この記事の主題聖句となっているイザヤ61:5は今回の組織変更の説明に使えるでしょう。


   神は何と寛大な与え主なのでしょう。使徒パウロは,「[エホバ]ご自身がすべての人に命と息とすべ
   ての物を与えておられる」と言いました。(使徒 17:25)わたしたち各自は,神から受けている数多
   くの『良い賜物と完全な贈り物』について熟考して,益を得ることができます。―ヤコブ 1:5,17。詩
   編 29:11。マタイ 7:7; 10:19; 13:12; 21:43。

   2 詩編作者が,エホバにどのようにお返ししたらよいのだろうと考えたのももっともなことです。
   (詩編 116:12)実際のところ,わたしたちの創造者は,人間が持っているかもしれないものや,与える
   ことのできるものを,何ひとつ必要としてはおられません。(詩編 50:10,12)しかしエホバは,人々
   が感謝の気持ちから真の崇拝において自分をささげるとき,それがご自分にとって喜びとなると述べ
   ておられます。(ヘブライ 10:5-7と比較してください。)人はみな創造者に献身して自分自身をさ
   さげるべきです。そうするなら今度は創造者が,古代のレビ人の場合のように,付け加えられた特権を
   差し伸べてくださるかもしれません。イスラエル人はみな神に献身していましたが,神は幕屋や神殿
   で犠牲をささげる祭司としてレビ人のアロンの一族を選ばれました。では,残りのレビ人はどうだっ
   たのでしょうか。

   3 エホバはモーセにこうお告げになりました。『レビの部族を近くに来させなさい。彼らは会見の天
   幕のすべての器具を管理しなければならない。それであなたはレビ人をアロンとその子らに与えるの
   である。彼らは与えられた者[ヘブライ語,ネトゥーニム],イスラエルの子らの中から彼に与えられた
   者たちである』。(民数記 3:6,8,9,41)レビ人は,幕屋での奉仕における務めを成し遂げるため,ア
   ロンに「与えられ」ました。それで神は,「彼らは与えられた者,イスラエルの子らの中からわたしに
   与えられた者たちなのである」と言うことがおできになりました。(民数記 8:16,19; 18:6)レビ人
   の中には簡単な仕事を行なった人もいれば,神の律法を教えるというような際立った特権を得た人も
   いました。(民数記 1:50,51。歴代第一 6:48; 23:3,4,24-32。歴代第二 35:3-5)では次に,別の
   「与えられた」人々と,現代の類似した人々について調べてみましょう。

   イスラエル人がバビロンから帰還する

   4 エズラとネヘミヤは,総督ゼルバベルに率いられたイスラエル人の残りの者が,真の崇拝を回復する
   ためにバビロンから自分たちの土地へ帰還したときの様子を述べています。どちらの記述も,それら
   帰還者の合計が4万2,360人であったことを伝えています。そのうちの相当数は「イスラエルの民の人
   々」でした。二つの記述は次に祭司を列挙しています。そしてそのあとに,レビ人の歌うたいと門衛
   を含む,およそ350人のレビ人が続きます。エズラとネヘミヤは,イスラエル人と思われる,さらに何千
   人かの人たちのことも記述しています。それらの人たちは祭司でさえあったかもしれませんが,自分
   の系図を確証することができませんでした。―エズラ 1:1,2; 2:2-42,59-64。ネヘミヤ 7:7-45,61-
   66。

   5 これらの,流刑に処せられたのちにエルサレムとユダに帰還したイスラエルの残りの者は,神に対す
   る際立った専心と,真の崇拝に対する心からの専念を示しました。すでに述べた通り,ちょうどそれに
   対応する出来事が,現代,1919年に大いなるバビロンの捕らわれから出て来た霊的イスラエルの残りの
   者に関して見られます。

   6 1919年に解放されて以来,キリストの油そそがれた兄弟の残りの者は真の崇拝において熱心に前進
   してきました。エホバは,「神のイスラエル」を構成する14万4,000人の最後の者たちを集めようとす
   る,彼らの努力を祝福してこられました。(ガラテア 6:16。啓示 7:3,4)油そそがれた残りの者は,
   一つのグループとして,命を与える霊的な食物を豊かに備えるために用いられている「忠実で思慮深
   い奴隷」級を構成します。そして彼らは,その食物を全世界に分配するため,骨折って働いてきました。
   ―マタイ 24:45-47。


ここで言う霊的な食物には、エホバの証人の活動の神権的な部分すべてが含まれるというのが従来の理解で
したが、ここで、純粋に聖書の教理の解明や現代のエホバの証人の主要な任務である福音宣明の業だけに限
定した事柄を「霊的食物」とするなら、日常的なクリスチャン生活に関連した事柄や会衆の運営、王国会館
の建設などについては、「ほかの羊」に任せるという構図が浮かんでくるかもしれません。本当は、すべて
表裏一体なのですが、今回の決定がすでに発表された事柄であり、理由付けを後から考えてゆくとするなら、
そうした事柄が想定されると思われます。


   7 前の記事で説明されたように,今ではエホバの民の中に何百万もの「ほかの羊」がいます。彼らは,
   間近に迫った大患難を通過するという神から与えられた希望を抱き,地上でエホバに永遠に仕えるこ
   とを願っています。そこでは,彼らはもはや飢えたり渇いたりせず,悲しみの涙が流れることももうあ
   りません。(ヨハネ 10:16。啓示 7:9-17; 21:3-5)バビロンからの帰還者に関する記述の中に,その
   ような人たちに対応するものがありますか。確かにあります。

   非イスラエル人も帰還する

   8 バビロンに住むエホバを愛する人々に対して,約束の地に帰還するようにという呼びかけがなされ
   ると,何千人もの非イスラエル人がこたえ応じました。エズラとネヘミヤが作成したそれぞれのリス
   トには,「ネティニム」(「与えられた者たち」を意味する)と「ソロモンの僕たちの子ら」のこと
   が述べられており,その合計は392人でした。さらに,7,500人を超える他の者たち,すなわち「男の奴
   隷および奴隷女」,ならびにレビ人でない「男の歌うたいと女の歌うたい」についても記述されてい
   ます。(エズラ 2:43-58,65。ネヘミヤ 7:46-60,67)それほど多くの非イスラエル人を動かして帰還
   させたものは何だったのでしょうか。

   9 エズラ 1章5節は,『上って行って,エホバの家を建て直すために,その霊をまことの神が奮い立たせ
   られたすべての者』について述べています。そうです,帰還する者すべてをエホバが動かされたので
   す。エホバは彼らの霊,つまり人を駆り立てる精神の傾向を鼓舞されました。神はご自分の活動力で
   ある聖霊を用いることにより,天からでもそうすることがおできになりました。こうして,『上って行
   って,エホバの家を建て直すために』立ち上がった者すべては,「[神の]霊による」助けを受けました。
   ―ゼカリヤ 4:1,6。ハガイ 1:14。

   現代の類似した人々

   10 そのような非イスラエル人の帰還者はだれを予表していますか。多くのクリスチャンは,『ネティ
   ニムが今日の「ほかの羊」に対応している』と答えるかもしれません。確かにそうです。しかし,ネ
   ティニムだけではありません。というのは,帰還したすべての非イスラエル人が,霊的イスラエルに属
   さない今日のクリスチャンを表わしているからです。

   11 「ハルマゲドンを生き残って,神の新しい世へ」という本(英文) はこう述べています。「4万
   2,360人のイスラエル人の残りの者だけが総督ゼルバベルと共にバビロンを後にしたというわけでは
   ありません。……何千人もの非イスラエル人がいました。……ネティニム以外にも,他の非イスラエ
   ル人,奴隷,職業的な男と女の歌うたい,ソロモン王の僕たちの子孫がいました」。その本はこう説明
   しています。「すべてが非イスラエル人である,ネティニム,奴隷,歌うたい,そしてソロモンの僕たち
   の子らが捕らわれの地を後にし,イスラエル人の残りの者と共に帰還しました。……では,霊的イスラ
   エル人でない様々な国籍の人々が,今日霊的イスラエルの残りの者と共同して,彼らと共にエホバ神の
   崇拝を推し進める,と考えるのは正しいことでしょうか。その通りです」。そのような人たちは,『現
   代の対型的なネティニム,歌うたい,ソロモンの僕たちの子らとなりました』。

   12 古代の型の場合と同様に,神はこれら地上で永遠に生きる希望を抱く人々にもご自分の霊をお与え
   になります。確かに,それらの人々が再び生まれることはありません。14万4,000人の各々は神の霊的
   な子として再び生まれることを一度だけ経験し,聖霊で油そそがれます。(ヨハネ 3:3,5。ローマ 8:
   16。エフェソス 1:13,14)言うまでもなく,そのような油そそぎは小さな群れのための神の霊の独特
   な表明です。しかし,神の霊は神のご意志を成し遂げるためにも必要とされます。それでイエスは,
   「天の父は,ご自分に求めている者に聖霊を与えてくださる」と言われました。(ルカ 11:13)求め
   ている人が天的な希望を抱いているか,ほかの羊の一人であるかにかかわりなく,神のご意志を成し遂
   げるため,エホバの霊は豊かに与えられます。

   13 神の霊は,エルサレムに帰還するよう,イスラエル人と非イスラエル人の両方を動かしました。ま
   た今日では,神の忠節な民すべてを強め,助けています。神から与えられた希望が天の命であろうと地
   上の命であろうと,クリスチャンは良いたよりを宣べ伝えなければなりません。そして,聖霊の助けに
   より,クリスチャンは宣べ伝える業において忠実であることができます。どちらの希望を抱いている
   にせよ,わたしたちはみな霊の実を培うべきであり,わたしたちすべては霊を大いに必要としています。
   ―ガラテア 5:22-26。

   特別な奉仕のために与えられる

   14 帰還するよう霊に動かされた何千人もの非イスラエル人の中に,神の言葉が特に名前を挙げている
   二つの少人数のグループがありました。それは,ネティニムとソロモンの僕たちの子らです。彼らは
   どんな人々だったのでしょうか。何をしたのでしょうか。そして,そのことには今日どんな意味があ
   るかもしれませんか。

   15 ネティニムとは,非イスラエル人の生まれでありながら,レビ人と共に奉仕する特権を受けていた
   グループでした。「集会のため,またエホバの祭壇のために……まきを集める者,水をくむ者」となっ
   たギベオン出身のカナン人のことを思い出してください。(ヨシュア 9:27)恐らく,彼らの子孫の一
   部,そしてダビデの治世中や他の時代にネティニムとして加えられた他の人たちが,バビロンから帰還
   するネティニムの中にいたことでしょう。(エズラ 8:20)ネティニムは何をしたのでしょうか。祭
   司の手助けをするためにレビ人が与えられ,その後,レビ人の手助けをするためにネティニムが与えら
   れました。割礼を受けた異国の者にとっても,これは特権でした。

   16 人々の一団がバビロンから帰還した時,その中にいたレビ人は,祭司と比べても,ネティニムおよび
   「ソロモンの僕たちの子ら」と比べてもわずかでした。(エズラ 8:15-20)ジェイムズ・ヘイスティ
   ングズ博士の「聖書事典」は,「しばらくすると我々は,[ネティニムが]神聖な職務を行なう階級とし
   て完全に確立され,そのため幾つかの特権を与えられていることに気づく」と述べています。「旧約
   聖書」という学術雑誌にはこう書かれています。「一つの変化が生じた。流刑からの帰還後,彼ら[異
   国の者たち]はもはや神殿の奴隷ではなく神殿の奉仕者とみなされ,神殿で職務を果たしていたそれら
   他のグループの身分と同様の身分を与えられた」。―「変化した身分」という囲み記事をご覧くださ
   い。

   17 もちろん,ネティニムは祭司やレビ人と同等の者になったわけではありません。祭司やレビ人は,
   非イスラエル人に取って代わられることのない,エホバご自身によって選ばれたイスラエル人でした。
   しかし,聖書が示すところによると,レビ人の人数が減少していたため,ネティニムは神への奉仕にお
   いてより多くの仕事を与えられました。彼らは神殿に近い住まいを割り当てられました。ネヘミヤの
   時代には,祭司と共に働いて,神殿の近くの城壁を修理しました。(ネヘミヤ 3:22-26)また,ペルシ
   ャの王は,神殿での奉仕のゆえにネティニムはレビ人と同様に税金を免除されるという布告を出しま
   した。(エズラ 7:24)このようなことから分かるのは,これら「与えられた者たち」(レビ人とネテ
   ィニム)が霊的な事柄において当時どれほど密接に結ばれていたか,また,ネティニムは決してレビ人
   とはみなされなかったものの,必要に応じてネティニムの割り当てがどのように増えたかという点で
   す。その後,帰還する流刑者をエズラが集めた時,当初その中にレビ人は一人もいませんでした。それ
   でエズラは何人かを集めようと一層の努力を傾けました。その結果,レビ人38人とネティニム220人が,
   『わたしたちの神の家のための奉仕者』として仕えるために帰還しました。―エズラ 8:15-20。
 
   18 特に名前を挙げられている2番目の非イスラエル人のグループは,ソロモンの僕たちの子らです。
   聖書には彼らについての詳細な点がほとんど述べられていません。何人かは「ソフェレトの子ら」で
   した。エズラはソフェレトという名前に定冠詞を付けてハッソフェレトとしており,それは多分「書
   記」を意味します。(エズラ 2:55。ネヘミヤ 7:57)ですから,彼らは書記あるいは写字生の一人,恐
   らくは神殿の書記または行政上の書記の一人だったのでしょう。ソロモンの僕たちの子らは異国の出
   ではありましたが,エホバの崇拝の回復にあずかるためにバビロンを後にして帰還することにより,エ
   ホバに対する専心を実証しました。

   今日,自分自身を与える

   19 現代において神は,清い崇拝の先頭に立って良いたよりを宣明する点で,油そそがれた残りの者を
   力強く用いてこられました。(マルコ 13:10)それら残りの者は,何万,何十万,そして何百万という
   ほかの羊が崇拝において加わってきたのを目にして,大いに歓んでいます。そして,残りの者とほかの
   羊の間には何と喜ばしい協力関係があるのでしょう。―ヨハネ 10:16。

   20 古代バビロンでの流刑から帰還した非イスラエル人すべては,今日霊的イスラエルの残りの者と共
   に仕えているほかの羊に類似しています。しかし,聖書がネティニムとソロモンの僕たちの子らの名
   前を特に挙げているという事実に関してはどうでしょうか。型となっていたものの場合,ネティニム
   とソロモンの僕たちの子らには他の非イスラエル人の帰還者よりも多くの特権が与えられました。こ
   のことは,今日神がほかの羊の中の円熟した進んで物事を行なう人たちに,特権や付け加えられた務め
   を差し伸べてこられたことを予表していた,と十分に考えられます。

   21 ネティニムの付け加えられた特権は霊的な活動と直結していました。ソロモンの僕たちの子らは
   行政上の責任を与えられたようです。同様に,今日エホバはご自分の民に,彼らの必要を顧みるための
   「人々の賜物」を祝福として与えておられます。(エフェソス 4:8,11,12)この備えの中には,巡回・
   地域監督として,またものみの塔協会の98の支部の支部委員会の一員として奉仕し,『羊の群れを牧す
   こと』にあずかっている,何百人もの円熟し経験を積んだ兄弟たちが含まれます。(イザヤ 61:5)同
   協会の世界本部では,「忠実な家令」とその統治体の指導のもとで,有能な男子が,霊的な食糧を備え
   る面で手助けをするための訓練を受けています。(ルカ 12:42)そのほかにも,長い経験を持つ献身
   した自発奉仕者の中には,ベテル・ホームや工場を運営する訓練,また新しい支部施設やクリスチャン
   の崇拝のための集会場の世界的な建設計画を監督する訓練を受けてきた人たちがいます。彼らは,王
   なる祭司の一部を構成している油そそがれた残りの者の親密な助け手として,優れた奉仕を行なって
   きました。―コリント第一 4:17; 14:40; ペテロ第一 2:9と比較してください。

   22 古代においては,祭司とレビ人はユダヤ人の間で引き続き奉仕しました。(ヨハネ 1:19)しかし
   今日では,地上にいる霊的イスラエルの残りの者は減ってゆかねばなりません。(ヨハネ 3:30と対照
   してください。)大いなるバビロンが消滅した後,最終的に14万4,000人の『証印を押された者たち』
   全員が子羊の結婚のために天にいることになります。(啓示 7:1-3; 19:1-8)しかし今,ほかの羊は
   増し加わってゆかねばなりません。ほかの羊の中の,ネティニムやソロモンの僕たちの子らと類似点
   のある一部の人たちは,現在,油そそがれた残りの者の監督のもとで責任の重い割り当てを受けている
   からといって,せん越になったり,うぬぼれたりすることはありません。(ローマ 12:3)このことか
   らわたしたちは,神の民が「大患難から出て来る」時に,ほかの羊の間で率先する備えのできた,経験
   を積んだ男子―『君たち』―がいるということを確信できます。―啓示 7:14。イザヤ 32:1。使徒 
   6:2-7と比較してください。

   23 バビロンから帰還した人たちは皆,進んで一生懸命働いて,自分たちが思いと心の中でエホバの崇
   拝を第一にしていることを実証しました。今日でも同じです。油そそがれた残りの者と共に,「よそ
   からの者たちが実際に立って……羊の群れを牧し」ています。(イザヤ 61:5)ですから,わたしたち
   が神から与えられたどんな希望を持っていようと,またハルマゲドンにおけるエホバの立証の日の前
   に,霊によって任命された長老たちにどんな特権が差し伸べられようと,わたしたちすべては,無私の,
   健全な与える精神を培うようにしましょう。エホバが施してくださる大いなる恩恵すべてに対してお
   返しをすることは決してできないとはいえ,何であれエホバの組織の中で行なっている事柄に魂を込
   めたいものです。(詩編 116:12-14。コロサイ 3:23)そのようにしてわたしたちすべては,ほかの羊
   が,「地に対し王として支配する」よう定められている油そそがれた者たちと密接に奉仕する今,真の
   崇拝のために自分を与えることができるのです。―啓示 5:9,10。


特に、ここの最後の3節で展開されている説明を、そのまま拡大解釈してゆけば、今回の組織変更の説明は、
十分可能のようにも思えますがいかがなものでしょうか。


もう一つ2)の求心力の維持はかなり大きな課題になることが予想されます。統治体が消滅するわけではあ
りませんので、ある程度にらみを利かせることはできるにしても、今後、大幅な権限委譲が明らかになった
場合、事態はかなり流動化するものと思われます。日本の歴史を紐解いてみても、例えば、江戸時代におけ
る天皇と江戸幕府と関係なども、その時々の時代や社会情勢などによって、大きく振り子が傾くように揺さ
ぶられましたので、統治体の指導力が問われてゆくことになると思います。「ほかの羊」である「ものみの
塔協会」の幹部と「油そそがれた者」である非統治体成員の関係なども、かなり微妙なものになるような気
がします。老齢で実務をしていない人はいいのですが、現役バリバリの「油そそがれた者」も結構いるよう
ですから。


<とりあえずの結論>

まだ、今回の組織変更の本質が完全に明らかになっていない段階なので、先走っている部分もあろうかと思
いますが、視界不良の中でも、ある程度の見通しを明らかにすることには意味があると考えて、私なりの意
見を書いてみました。なにしろ、「ものみの塔協会」の決定伝達は、このインターネット時代にもかかわら
ず江戸時代並みの遅さですので。

それにしても、21世紀を目前にして、やはり、エホバの証人は大きな転換点にさしかかったようです。
これからは、組織の大幅な拡大は望めず、むしろ、どうやって、今の勢力を維持・強化してゆくかというこ
とが最大のポイントになってゆくものと思われます。そして、今回の組織変更がそうした情勢に対してどの
ように機能してゆくのか、しっかり見守ってゆきたいと思います。

恐らく、聖書で予告されていたように、終りの時には、内部分裂や背教などがかなり頻繁に起きてくるよう
になり、試みと篩い分けの時代に突入してゆくことが予想されます。果たして、その行く末には、最終的に
どんな事態が待ち受けているのでしょうか。


2000年11月7日

目次に戻る

速報:「ものみの塔協会」は輸血拒否の教理を変更する方向で静かに準備を開始した!?

先日受け取った「王国宣教」2000年1月号の「発表」欄に、以下のようなコメントが載っていたのを、
多くの証人たちはお気づきになったことと思います。それは以下のようなものでした。

  『毎年1月に更新している「医療上の事前の指示および免責証書」、および「医療に関する事前の指示
   および継続的委任状」に関するプログラムは、今年は3月の奉仕会で扱われます。それまでの間、
   「ものみの塔」誌、2000年6月15日号と2000年10月15日号に掲載されている「読者か
   らの質問」の内容に十分精通しておくことができるでしょう。』

ここで伝えられている事柄は以下の2点です。

   1)毎年1月に一斉に行なっている「医療カード」と「委任状」(と以下略称)の更新は、今年は3
     月に延期されることになった。
   2)それまでの間、2つの「ものみの塔」誌の「読者からの質問」に通じておくようにしなさい。

1)の延期の理由は定かではありません。たぶん、いろいろと準備があるのでしょう。2)の2つの「読者
からの質問」の記事については、ごく簡単に内容を要約すれば、以下のようになるようです。

   ●2000年 6月15日号:成分輸血についての解釈が拡大されている
   ●2000年10月15日号:自己血輸血の解釈が拡大されている

「なるようです」と表現したのは、単にこの記事をざっと読んだだけでは、必ずしもそのように理解できな
いのですが、色々な情報を重ね合わせてゆきますと、そうなるらしいということだからです。

2000年6月15日号の「読者からの質問」については、すでに、この「物事をありのままに考えるエホ
バの証人」シリーズの『15.「ものみの塔」誌2000年6月15日号「読者からの質問」の矛盾』で扱
いました。この「読者からの質問」の記事は、輸血の問題を総括的に扱っているように装っていますが、実
際には、成分輸血の解禁が最大の目的であることがしだいに明らかになってきています。上記記事の中でも
触れていますが、この記事を境に、ヘモグロビンという赤血球の主要成分について、「ものみの塔協会」は
事実上の解禁処置を行なっているようです。

ヘモグロビンというのは赤血球のまさに主要成分です。貧血状態を計測するのにヘマトクリットというヘモ
グロビンの量の多少で表示することは多くの人がご存知だと思います。こうして輸血拒否の教理は、大筋と
しては「骨抜き」される方向が強まっていると言えます。「ものみの塔協会」の指導部が、輸血拒否の矛盾
を抱えたまま、あえてそうした教理上の矛盾を表面化させるという危険を冒してまでも、成分輸血の解禁に
踏み切ったのは、やはり「輸血をすれば命が助かる」かもしれない場面に直面した信者の命を、無駄に奪う
ということができにくい社会情勢になってきていることを物語っています。そして、それは多くの信者の願
望でもあるのです。

今後、そうした動きに拍車がかかるのは、ほぼ間違いないでしょう。しかも、そのことを、あまり騒ぎ立て
ずに、静かに深く潜行しながら行なう巧みさは、「ものみの塔協会」の得意技となっています。いずれにし
ても、証人たちの無用な死を避けるために、「輸血拒否」の看板を静かに降ろす事自体、私も大いに賛成い
たします。


さて、もう一つの2000年10月15日号の「読者からの質問」、この記事の意味は、実は、これまで大
きな謎でした。私自身、この記事を何回読んでみても、一体何のために、この記事を執筆し出版したのか、
よく理解できませんでした。巡回監督に聞いても、「分かりません」という答えが返って来るだけでした。
医療委員に聞いても、やはり「分かりません」という答えでした。

はて、では、この記事は、何ら新しい見解を伝えていないということなのでしょうか? それは、ちょっと、
考えにくいことです。この記事は全体として自己血輸血について触れたものですが、自己血輸血については、
これまで何度か「ものみの塔」誌でも触れられており、何ら新しい見解が含まれていないにもかかわらず、
こうしてページをさいて、わざわざ説明を加える必然性というものはないからです。従って、自己血輸血に
関して、何らかの見解の変更を「ものみの塔協会」は意図しており、そして、この記事のどこかに、そうし
た点が含まれているはずなのです。


それが、つい最近になって、やっと判明しました。まあ、いずれ、3月の「医療カード」と「委任状」の更
新の際には、明らかになることなのですが。やはり、情報はできるだけ早く知ることに価値があるというこ
とでお知らせしたいと思います。


以下、この点について、問題の「読者からの質問」の関係する部分だけを紹介しながら、触れてゆきたいと
思います。( )の数字は記事の節を表わします。


質問:血の正しい用い方に関する聖書の命令に照らして、エホバの証人は自分の血液を用いる医療処置をど
   うみなしますか。

答え:(1)クリスチャン各自は、個人的な好みや医学的に推奨されている事柄だけに基づいて決定するの
   ではなく、むしろ、聖書が述べている事柄を真剣に考慮すべきです。これは、その人とエホバとの問
   題です。

   (2)・・・・・
   (3)・・・・・
 
   (4)・・・・・        
   血は貯蔵すべきではありません。
      ・・・・・

   (5)一方、自己血を用いる処置や検査の中には、明文化された神の原則に反しているとは断言でき
   ないものもあります。
      ・・・・・

   (6)例えば、外科処置の際に、血液希釈という方法を用いて血液の一部を対外へ導き出すことがあ
   ります。患者の体内に残った血液は希釈されます。そして後ほど、対外の回路にある患者の血液を本
   人の体に戻して、血球値を正常に近い値に回復させます。それに似た方法として、傷口から流れ出る
   血液を回収してフィルターにかけ、赤血球を患者に戻ることも行なわれます。これは、セル・サルベ
   ージと呼ばれています。また、臓器(心臓、肺、腎臓など)の通常の機能を一時的に肩代わりする装
   置に血液を流す方法もあります。装置を通過した血液は患者に戻ります。さらに、別の方法では、血
   液をセパレーター(遠心分離機)に迂回させ、有害成分や不良成分を取り除きます。血液成分の一部
   を分離して体の他の部位で用いるためにそうすることもあります。さらに、ある種の検査では、血液
   を幾らか取り出し、標識物を付けたり、薬品を混ぜたりした後、患者の体に戻します。

   (7)詳細は異なるかもしれませんし、今後も新たな医療処理や治療法や検査法が開発されてゆくに
   違いありません。相違点を一つ一つ検討して決定を下すことは、本誌の役割ではありません。クリス
   チャンは、自分の血液が外科的処置、医療検査、および現行の治療においてどのように扱われるべき
   かを、自分で決定しなければなりません。事前に担当医師や技師から、医療処置の際に自分の血液が
   どのように用いられるのかに関する情報を得ておくことは大切です。その上で、自分の良心が許す事
   柄に沿って決定を下さなければなりません。

   (8)・・・・・


以上となっています。さて、この記事のどの部分が問題なのでしょうか。その前に、「自己血」に関する以
前の記事にも触れて、比較しておく必要があるでしょう。


   *** 塔89 3/1 30-1  読者からの質問 ***
    
質問:エホバの証人は,自分の血を蓄えておいてもらい,それを後に自分の体内に戻すといった,自己血の使
   用(自己輸血法)を許しますか。

答え:多くの場合,医療関係者は,同種血(他人から採られた血)と自己血(患者自身の血)とを区別します。
   エホバの証人が他の人から採られた血を受け入れないことは周知の事実です。しかし,幾つかの処置
   に関して用いられる語である自己血の使用についてはどうでしょうか。

   そういう処置の中には,明らかに聖書に反するため,クリスチャンにとって受け入れられないものもあ
   りますが,判断に迷うような処置もあります。言うまでもなく,聖書が書かれた時代には,輸血や他の
   そうした医療面での血の使用は知られていませんでした。それでも,神は,血の関係した特定の医療処
   置が神の不興を買うかどうか,ご自分の僕たちが判断できるようにするための指示をお与えになりま
   した。

   神の決定によれば,血は命を表わしており,それゆえに神聖です。いかなる人間も血を取り入れること
   によって自分の命を支えてはならない,と神はお命じになりました。例えば神は,「生きている動く生
   き物はすべてあなた方のための食物としてよい。……ただし,その魂つまりその血を伴う肉を食べて
   はならない」と言われました。(創世記 9:3,4。レビ記 7:26,27)命の与え主によれば,血の使用が
   許されるのは,犠牲として用いられる場合だけでした。こう記されています。「肉の魂は血にあるか
   らであり,わたしは,あなた方が自分の魂のために贖罪を行なうようにとそれを祭壇の上に置いたので
   ある。血が,その内にある魂によって贖罪を行なうからである。それゆえにわたしはイスラエルの子
   らにこう言った。『あなた方のうちのいずれの魂も血を食べてはならない』」―レビ記 17:11,12。

   クリスチャンはモーセの律法下にはいませんが,聖書によれば,血を神聖なものとみなして『血を避け
   る』ことは「必要」です。(使徒 15:28,29)それはもっともなことです。律法下の犠牲は,わたした
   ちに永遠の命を得させるための神の手段である,キリストの血を予示していたからです。―ヘブライ
    9:11-15,22。

   律法下で,血は,犠牲として用いられない場合,どのように扱うべきだったでしょうか。猟師が食物に
   するため動物を殺したなら,「その者はその血を注ぎ出して塵で覆わねばならない」と書かれていま
   す。(レビ記 17:13,14。申命記 12:22-24)ですから,栄養の摂取その他の目的で血を用いてはなり
   ませんでした。生き物から抜き取った血は,犠牲として用いるのでなければ,神の足台である地の上で
   処分することになっていました。―イザヤ 66:1。エゼキエル 24:7,8と比較してください。

   その点からすると,自己血の一般的な一つの使用法,つまり患者自身の血を手術に先立って採取し,貯
   蔵し,後に注入することは,明らかに排除されます。そのような処置の場合,次のようなことが行なわ
   れます。緊急を要しない手術に先立って,当人の全血が何単位か貯蔵されます。あるいは赤血球を分
   離・凍結して蓄えます。その後,手術中か手術後に患者が血液を必要とするように思われる場合,患者
   自身の貯蔵血液を患者の体内に戻すことができます。現在は血液によって伝染する病気の心配がある
   ため,自己血のこのような使い方が普及しています。しかし,エホバの証人はこの処置を受け入れませ
   ん。わたしたちは以前から,そのようにして蓄えられた血液は既に決してその人の一部ではないとい
   うことを認めていました。その血液は当人の体から完全に取り除かれたのですから,「それを水のよ
   うに地面に注ぎ出すべきである」という神の律法に調和して処分すべきです。―申命記 12:24。

   方法は幾分異なりますが,自己血を患者から血液透析装置(人工腎臓)や人工心肺装置へ迂回させる
   場合があります。血液は管を通って人工器官へ流れ,その器官によって送り出され,ろ過(あるいは酸
   素を添加)されて,患者の循環系に戻ります。蓄えられた血液を前もってその装置に入れておくので
   ない限り,それは許されると考えたクリスチャンもいます。彼らはその外部の管を,人工器官に血液を
   通すための自分の循環系の延長とみなし,この閉鎖回路内の血液は依然として自分の一部であり,『注
   ぎ出す』必要はない,と考えました。

   しかし,そのような自己血の流れが短時間止まる場合,例えば,医師が冠状動脈バイパスの移植が完全
   かどうかを調べる間,人工心肺装置を止める場合などはどうでしょうか。

   実際のところ,聖書が強調しているのは,血液が連続して流れているかどうか,という問題ではありま
   せん。別に手術の時でなくても,人の心臓は短時間止まってから,再び動き出すことがあります。 心
   停止中に,血液の流れが止まったからといって,それだけで循環系から血を抜いたり,血を処分したり
   する必要はありません。ですから,自分の血を何らかの外部装置を通して迂回させることを許可する
   かどうか決めなければならないクリスチャンが注意を集中すべきなのは,おもに血液の流れのわずか
   な中断が起きるかどうかではなく,迂回する血液が依然として自分の循環系の一部であると良心的に
   感じるかどうか,ということです。―ガラテア 6:5。

   誘導血液希釈についてはどうでしょうか。一部の医師は,手術中に患者の血液を薄めることには利点
   があると考えています。それで手術の始めに,患者の体外に設けた貯蔵用バッグに幾らかの血液を導
   き出し,代わりに無血性溶液を注入します。後にその血液は再びバッグから患者の体内に流れるよう
   にされます。クリスチャンは自分の血液を蓄えることをさせないので,ある医師たちは,患者の循環系
   に常時つながっている一つの回路に装置を設けて,この方法を採用しました。これを受け入れたクリ
   スチャンもいれば,拒絶したクリスチャンもいます。この場合もやはり,そのような血液希釈回路を迂
   回する血液を,人工心肺装置を流れる血液と同じようにみなすか,自分から離れた血液であるから処分
   されるべきであるとみなすか,各個人が決定しなければなりません。

   自己血の使用に関する最後の例は,手術中に血液を回収して再使用することに関係しています。傷口
   から流れる血液を吸引し,ポンプで送って(凝血塊や不用物を除くための)フィルターや(液体を除
   去するための)遠心分離機を通し,その後に患者の体内に戻す装置が用いられています。そのように
   して血液が回収される際に血液の流れがわずかでも中断するかどうか,その点を非常に心配するクリ
   スチャンは少なくありません。しかし,すでに述べたように,聖書的に一層心配すべきなのは,手術に
   よって傷口に流れ出る血液はなおその人の一部かどうかということです。血が循環系から傷口に流れ
   出たという事実は,レビ記 17章13節で述べられている血と同様,その血を『注ぎ出す』べきであると
   いうことを意味しているでしょうか。そう信じる人であれば,恐らくそのような血液回収を許可しな
   いでしょう。しかし,別のクリスチャン(やはり,血液を体外に流れさせ,しばらく蓄え,後に体内に戻
   すようなことをしない人)は,手術箇所から回収したあとに再注入が続く回路であれば,訓練された自
   分の良心に反しない,と結論するかもしれません。

   ご承知のとおり,自己血の関係した装置や技術の種類は増えています。一つ一つの違いについて論じ
   ることはできませんし,そうしようとは思いません。クリスチャンはこうした分野で問題に直面した
   なら,各自が医療関係者から詳しい情報を得たうえで,自分で決定する責任があります。

   ここでは医学的な面について多くのことが示されましたが,最も重要なのは宗教面の問題です。クリ
   スチャンとして,血の関係した医療処置について疑念や疑問がある場合,それを解決する際に優先させ
   るべきなのは,信仰を表わすこと,『血を避けなさい』という神の命令を重んじること,正しい良心を
   保つことであるべきです。なぜでしょうか。なぜなら,血によって命を救うことができる最も基本的
   な方法は,医療技術ではなく,キリストの血に関連した救いの力によっているからです。使徒パウロは,
   『わたしたちはこの方により,その血を通してなされた贖いによる釈放を得ているのです』と書きま
   した。(エフェソス 1:7。啓示 7:14,17)わたしたちは現代医学によって多少は命を延ばせるかもし
   れませんが,クリスチャンとしての良心に背いたり,命の与え主の不興を買ったりするようなことをし
   てまで今の命を延ばしたいとは思いません。―マタイ 16:25。テモテ第一 1:18,19。


ここから導き出せる結論としては、おおまか以下のようなものでしょう。

   ●自己血液をあらかじめ貯蔵して、しかるべき手術などの際に用いることは、聖書的に容認できない。
   ●血液希釈法、血液回収法、人工透析、人工心肺装置などさまざまな医療装置が開発されており、そ
    うした使用の際に、自分の血がどのように用いられるかは、自分の良心で決定することができる。

こうした結論は、今回の2000年10月15日号の「読者からの質問」の記事が述べている事柄と、表面
上は、何ら変わらないように見えます。その通りです。だから、巡回監督も、医療委員も、今回の新しい記
事の真意が理解できませんでした。そこが、実は「ものみの塔協会」のずるいところでもあるわけです。表
現では「教理が変更」したということを悟られずに、しかし、「実質は変更」してゆく。こうした方法を採
用していると、いつか、また、何か別の変更やあるいは教理の後戻りが生じたりした際に、いちいち別の記
事を出したり、訂正したりせずに、同じように運用面だけの違いだけで処理することが可能になるわけです。
今回は、まさにその典型的な例となりました。


国語的な文章表現から、見解の違いを読み取ることは不可能ですが、「ものみの塔協会」の意図するところ
は以下のようなもののようです。

   ●良心的な決定をより徹底させ、良心で決定できる範囲を拡大する。

この点を説明する前に、この一連の記事の『16.短編オムニバス集−その1』の【HLC】の項目で述べ
た事例を、思い浮かべて比較していただきたいと思います。

あの時に、ある姉妹が手術を控えた際に、自己血の回収法を医師から提案され、それに対して、医学的な知
識の乏しい当事者は、それを何ら問題ないとして受け入れることに決定したとしても、派遣された医療委員
たちは、独自の判断基準を持っており、例えば、

   ●回収した血液の貯蔵時間が30分以内はシロ→採用できる→実際に採用するかどうかは本人の良心
                               で決定する 
   ●回収した血液の貯蔵時間が1時間以内は灰色→採用するかどうかは本人の良心で決定する
   ●回収した血液の貯蔵時間が1時間以上はクロ→採用できない

という具合に、基準を定めて「指導」していました。この「回収」の部分が、別の医療手段では、「回路の
中断」とか、他のさまざまなものに置き替わることがあり得るわけです。


こうした点を念頭に入れて、今回の2000年10月15日号の「読者からの質問」の記事を読みますと、

  『クリスチャン各自は、個人的な好みや医学的に推奨されている事柄だけに基づいて決定するのでは
   なく、むしろ、聖書が述べている事柄を真剣に考慮すべきです。これは、その人とエホバとの問題
   です。』

という具合に、微妙に「良心」の比重が高まっていることが表現としても伺えます。そうです。結局、上記
のような医療委員の介入は、不適切であり必要最小限にとどめようということに、今回なったようです。で
すから、今後、さまざまな自己血の用い方において、医療委員がこれはシロ、これは灰色、これはクロとい
う言い方をして、当事者の決定に口をはさむことはなくなるようです。そして、すべて証人である当事者自
身が、自らの責任で良心的に決定することになるようです。そうした「変更」が、今回の記事の真意であり、
そうした点を解説なしに読み取ることは困難なので、それなりの「解説」を、今準備しているところのよう
です。まあ、それが3月に延期された理由なのでしょう。


いずれにしても、こうした一連の決定は、何を明らかにしているでしょうか。

自己血に限らず、血液の使用法に関して、「ものみの塔協会」が個人の決定に必要以上に関与することには、
明らかに限界があり、今後、こうした「良心の決定」範囲は、徐々に広げられてゆく可能性があるというこ
とではないでしょうか。つまり、突き詰めてゆくと、血液の使用に関して、ある部分は「強制的に」禁止し、
ある部分は「良心で決定できる」事柄として事実上「解禁」してゆくということは、教理面では矛盾を抱え
ることに他ならないため、血液の使用に関する「ものみの塔協会」の教理は、今後、ますます「骨抜き」に
されてゆき、やがて完全な「輸血解禁」に至るのではないかと、私自身はひそかに期待しているのです。


私のこうした観測を、「個人的な意見」と断って、ある親しい証人に明かしたところ、彼は、『エホバの証
人から輸血拒否の信条を取り去ってしまったら、何のとりえが残るんだ』と言って嘆きました。確かに、こ
の世と異なっていることによって、その存在価値を示しつづけてきた「ものみの塔協会」が、今後、こうし
た看板路線を降ろした場合に、その存在価値そのものが失われてしまう恐れは十分あるに違いありません。
しかし、それが、もし聖書に基づいていない教理であり、それを信者に押し付けることによって、取り返し
のつかない過ちを犯しているのであるなら、やはり、その過ちは、できるだけ速やかに取り除くべきなので
はないでしょうか。

それにしても、採用されてから約半世紀に渡って「ものみの塔協会」の信者を縛り続けてきた「輸血拒否」
の教理は、果たしていつまで信者の上にのしかかり続けてゆくのでしょうか。それから完全に解放される日
を、多くの信者は望んでいることを、「ものみの塔協会」の指導部は、早く気がつくべきではないでしょう
か。いや、たぶん、賢明は指導部は、すでに問題の本質に気がついているのでしょう。そして、すでに手を
打ち始めたのかもしれません。

2000年12月8日
「物事をありのままに考えるエホバの証人」より

目次に戻る