「物事をありのままに考えるエホバの証人」より−3

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エホバの証人の成長軌道に陰りが見え始めた今、ものみの塔協会が採用した道は?

2000年4月、小渕首相の突然の病気によって、政権交代があわただしく行なわれました。
ラジオでは、新たに首相指名を受けた森総理大臣が、国会で各党派の代表からの質問を受け
て答弁する様子が実況されています。私は、無味乾燥な国会答弁を聞きながら、過ぎ去った
巡回訪問を振り返りつつ、やり場のない虚脱感を振り払うことができずに、車を走らせてい
ました。その瞬間、キラッと何かが光って、理解したのです。巡回訪問のなぞが解けた瞬間
でした。

巡回訪問というのは、エホバの証人の末端組織である「会衆」を支部の指示を受けた巡回監
督が年に2回訪問する取決のことです。巡回監督は約1週間ほど会衆に留まって、集会や野
外奉仕を共に行ない、演壇から話をしたりします。そして、会衆の成員を励ますと共に、支
部の指示を末端の会衆にまで徹底させます。

さて、ラジオから聞こえてくる国会中継ですが、与党の質問は身内の総理に対するものです
から、何か、丁丁発止の意気を合わせた演出が感じられます。一方、野党はというと、当然
のことながら、舌鋒鋭く現下の政府の施策に対する是非を問うてきます。

ラジオから流れるこのやりとりを聞きながら、私は思わず最近の会衆をめぐる環境の変化に
重ね合わせている自分に気がつきました。ここ1〜2年、日本のエホバの証人の激変ぶりは
大変なものでした。これまでずっと続いてきた伝道者の増加が途絶え、集会や大会に出席す
る人数の減少、記念式の出席者の減少、聖書研究生の減少、などなど。・・・・・・それに
しても、最近の会衆の様子は何か変でした。いつもは楽しい巡回訪問も、最近はやたら厳し
いことを言っていく監督が増えてきているし、何か変なのです。

ところで、こうしたエホバの証人の組織のあらゆる面における減少傾向に対して、不思議な
ことに、これまで日本支部は、目立った動きを示してきませんでした。普通、長年続いた上
昇傾向が頭打ちになって、減少に転じたならば、あわてて何か手を打つのが普通です。それ
に対して、支部は恐ろしいほどに沈黙を守ってきました。・・・・・・と思っていたのは、
私だけで、実は着々と手を打っていたということが、今はっきりと理解できたのです。



ところで、エホバの証人の組織は、明確な階級社会を構成しています。その命令系統は以下
のようになっており、これを覆すことは不可能です。とりわけ、聖書の教理の解明、人事権、
宣べ伝える活動の指示という3点については、この矢印を逆行することはありえません。

   統治体→支部→地域監督→巡回監督→会衆の長老→会衆の成員

ですから、組織の意志は、必ずこの矢印の方向に沿って動くことになります。例えば、会衆
における物事の進展や取決は、通常は、手紙という形で支部から指示されることになります。
この点では、ここ数年、際立った変化はありませんでした。伝道者の増加が止まり、集会の
出席率が下がっても、何か劇薬のような指示が処方されることはありませんでした。

しかし、それ以外に会衆は、先ほど説明した「巡回訪問」という儀式を通じて、支部からの
指示を受けることになります。年に2度の巡回監督の訪問を受け、会衆内の様々な問題点が
検討されます。これが、実は、これまではまったくの「与党質問」だったのです。つまり、
当り障りのない事柄を扱って、当り障りのない「助言」を残して、巡回監督も役目を果たし、
会衆の長老たちも役目を果たしてきたのです。乱暴な言い方をすれば、新潟県警を監察した
警察幹部のそれに近いものだったわけです。

それでも、組織が上昇カーブにあるときには、ある程度の役割を果たすことができました。
いえ、それで十分だったのです。でも、そうした「傷には触れない」指導の仕方は、組織の
低迷を前にして終止符を打つことになりました。

ここ2年くらいでしょうか? 巡回訪問は突然「野党質問」に豹変したのです。最初、私は、
巡回監督がおかしくなったのではないかと考えたり、この人は巡回訪問を行なう資格がない
のではないかとかいろいろ考えましたが、どうも、あちこちの会衆の様子を聞くと、2年ぐ
らい前から、ほぼ一斉に巡回監督の訪問は「容赦のない厳しい」ものに変化していることが
分かりました。これが、低迷する組織を立て直すために採用した統治体の方針だったのです。
それにしても、もう少し親切に「これからは傷をなめあうような甘い訪問ではなく、ビシビ
シといくよ!」ぐらいのサインをくれてもよさそうなのに、まったくの沈黙のうちに、そう
した方針の転換がなされていたのです。

恐らく、このような方針転換によって一番戸惑っているのは、いわゆる古参のエホバの証人
たちでしょう。古い人ほど、自分流のやり方を持っており、それに固執するものだからです。
ところが、巡回監督は、基本に立ち返ってすべての物事を洗いなおすように今、会衆で指導
していますから、恐らく多くの古参証人たちは、これらの指導とぶつかることは必然です。

ある医療委員に聞いたことですが、「最近、医療委員たちは、どの巡回監督にも嫌われてい
るようだ」といった愚痴が、医療委員たちからよく聞かれるそうです。そうした事実も、こ
の推理を裏付けています。結局、医療委員のような重責を担える証人は、古参証人ですから、
何かと厳しい指示を受けている巡回監督たちとぶつかることになるわけです。



以上、私の全くの独断と偏見による推理ですが、もし、この推理が正しいとすれば、これか
ら生じる事柄を、ある程度見通すことができます。これから、組織が低迷を続ければ続ける
ほど、会衆の長老たちにしわ寄せがゆくことになります。これは、かなりのストレスを長老
たちにもたらすことになり、恐らく、「長老をやめたい」という人たちが増えることは確実
でしょう。長老たちは、仕事を持ち、家族を養いながら、その合間に奉仕を行ない、個人研
究も行ない、家族との研究も行ない、会衆の集会を組織し、会衆の成員の中に文字通りの病
気の人がいれば見舞い、霊的な病気の人には気遣いを示し、若者たちへ気を使い、姉妹たち
に気を使い、・・・・・・これでは、身がもたないでしょう。それでも、その苦労が報われ、
お褒めの言葉の一つもいただけるなら、疲れも吹っ飛ぶというものですが、巡回監督からは、
「何をしているんだ! バカ者!」ぐらいのことしか言われないんじゃ、全く割に合わない
仕事としか言いようがありません。

これで、これからのエホバの証人の組織の展望が見えてきました。結論はこうです。支部
(もちろん、そのバックには統治体がいるわけですが)は、現在のエホバの証人の組織の危
機を、会衆の長老たちを締め付けることによって乗り切ろうとしていますが、会衆の長老た
ちは、ただでさえ疲れているのに、おそらく、こうした仕打ちに耐えられないでしょう。特
に、古参長老と巡回監督がぶつかりあうことによって、生まれるのは、上昇へのエネルギー
ではなく、下向きのベクトルだけかもしれません。

何故、エホバの証人の組織の拡大が伸び悩む結果になったのか、最も真剣に考えているのは、
むしろ、末端の部隊長である長老たちではないでしょうか? ただ、長老たちには十分な知
恵が不足していることもあるので、そうした点で、支部や巡回監督が応援してくれるならば、
今、組織が直面している問題の解決策も見えてくるというものですが、真摯に悩んでいる長
老たちを締め付けるという形でいじめても、決して前向きなエネルギーは生まれてこないこ
とでしょう。密室での議論の結果もたらされたものが「魔の巡回訪問」では、本当にこの組
織に救いを見出すことができるのでしょうか? 私の疑問は深まるばかりです。



2000年4月12日

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エホバの証人の組織に関する現状分析と将来展望

今回は、頭打ち傾向を強めているエホバの証人の組織の現状を分析し、今後の将来を展望して
みたいと思います。


日本のエホバの証人の組織の伸び悩み傾向が、ここ数年顕著になってきたのは何故なのでしょ
うか? まずは、その要因分析から行なってみたいと思います。以下のような事柄を挙げるこ
とができます。

  1)すでにエホバの証人の組織は十分に成長しており成熟期に入っている
  2)社会に宗教全般に対する逆風が吹いている
  3)経済情勢の悪化
  4)エホバの証人の教えに対する魅力が失われている
  5)若者たちの離反傾向が強まっている
  6)エホバの証人の野外奉仕の報告制度の変更の影響


上記の点について、順次考えてみたいと思います。

1)すでにエホバの証人の組織は十分に成長しており成熟期に入っている

戦後、日本でほとんどゼロからスタートしたエホバの証人の組織は、現在は、約22万人の信
者を擁する大きな組織に成長しました。日本の全人口に対するエホバの証人の比率は約500
対1となっています。つまり、日本人の500人に1人は、エホバの証人というわけです。

日本よりもエホバの証人の人口比率が高い欧米諸国の先例をみても分かる通り、エホバの証人
の人口比率がある程度まで行きつくと、ほぼ飽和状態に達することは証明済みとなっています。
22万人という数字は、キリスト教的な素養が乏しい日本という社会土壌においては、一つの
節目になっているのかもしれません。

まだオウム事件が起きる前でしたが、文部省の宗教法人担当者と話したことがありました。こ
の人は、職業柄、ものみの塔協会が発行するすべての書籍・文書類を読んでいるということで
した。その人によりますと、「エホバの証人が20万人に到達したことにより、当局は、従来
よりも1ランク上の警戒監視態勢を敷くことになろう。エホバの証人が社会にとって危険であ
るかどうかに関わりなく、監視体制は間違いなく強化される」と述べていました。支部では、
その頃、情報管理の一環で、「伝道者の情報をコンピュータに入力しないように」という通達
を出したことがありました。これは、情報がもれた時に、信者のデータが当局に渡って、組織
が一網打尽にならないための施策かもしれません。しかし、日本の優秀な警察機構は、おそら
く、日本のすべての長老の詳細な情報をすでに入手しているということでしょう。そして、一
般信者に関しても、住所、氏名、年齢などの基本的なな情報程度はほぼ完璧に入手済みのよう
です。

こうした事実はエホバの証人の組織が確かに巨大化したことを物語っています。要するに、エ
ホバの証人の組織もそれだけ影響力の大きなものになってきたということです。成長した組織
はやがて成熟期を経て、安定成長軌道に乗らなければなりません。結局、すべての人を信者に
することは不可能なのですから、成長という点でも、ある程度のところで、社会と妥協するこ
とは必要です。これまでは破竹の勢いで増加してきたかもしれませんが、今後は、成熟した組
織として安定した歩みを続けることが、求められることになるのは当然の帰結なのです。


ですから、1つ目の結論として、エホバの証人の組織は成熟期に入ったことにより、これまで
のような高成長時代は終焉し、今後は、安定成長路線を辿ることになるということが予想され
ます。

すべての組織には、幼年期があり、やがて壮年期を迎え、老年期に到達すると考えるならば、
エホバの証人がこれまでの急激な拡大を、永久に続けることができると考える方がむしろ不自
然であり、これからの成熟期に向けて、組織は必要な備えをすることが求められることになる
と考えられます。


2)社会に宗教全般に対する逆風が吹いている

2つ目の要因は、社会全体の風潮として、宗教に対する逆風が吹いていることが挙げられます。
1990年代に入って社会を震撼させた「オウム事件」を筆頭に、さまざまな宗教組織が起こ
した事件によって、人々は「宗教は恐ろしいものだ」、「宗教には関わらない方がよい」とい
う概念がかなり強く定着してしまいました。

その結果、エホバの証人の組織と一般社会との垣根はますます高いものとなってしまいました。
野外で行なう伝道に対する反応もますます悪くなり、聖書研究生も減少し、従って、バプテス
マを受けて新たに信者となる人の数も減少の一途を辿るようになっています。

今後、カルト的な宗教組織は、社会でますます増えることが予想されるため、宗教に対する一
般社会の評価はかなり厳しいものとなってゆくことが予想されます。従って、こうした面での
事態の好転は望みにくく、しばらくは宗教に対する風当たりの強い状況が継続するものと予想
されます。

エホバの証人としては、こうした状況に耐えるしか今のところ、方策は見つかりません。


3)経済情勢の悪化

1990年にバブルがはじけてから、一貫して日本の経済は低迷から脱することができないば
かりか、1990年代末期には、東南アジア諸国の通貨危機をきっかけに未曾有の金融不安を
引き起こし、現在は、雇用不安を招くまでに至っています。こうした経済基盤の激震は、世の
中のすベての人々に大きな影響を及ぼさずにはいません。少子高齢化社会の進行と相伴って、
これから日本の社会の活力はますます失われてゆくのではないかという 漠然として不安が多
くの人にのしかかっており、そうした不安が、人々の財布の紐を締め、生活全般に防衛的な行
動を取るように促しています。

こうした傾向が顕著になった結果、人々は仕事中心、お金中心の生活志向となってきており、
人生とは何か、人の生きる道とは何か、社会において自分はどんな貢献ができるのか等々とい
った高尚な事柄とは縁遠い生き方を選ぶようになっています。つまり、明日の哲学よりも、き
ょうが大事というわけです。

こうした社会全体の風潮にエホバの証人も影響を受けずに済ますことはできません。共働きの
パートタイマーの仕事のために平気で集会を休む人が、ここ数年顕著に目立ってきています。
これまででしたら、信仰において熱心なことで知られるエホバの証人が、こうしたささいな理
由で集会を休むということは、ほとんど考えられないことでした。目先の収入がまず大切であ
り、崇拝はそのあとで行なう事柄となっています。霊的な事柄よりも物質的な事柄が優先され
ているため、個人研究、集会、野外奉仕というエホバの証人としての基本的な型が、まさに崩
れ去ろうとしています。

こうしたことに危機感を強めた「ものみの塔協会」は、大きな影響を受けている開拓者制度の
崩壊を恐れて、要求時間の水準引き下げという妥協案を提案してきました。しかし、これが、
開拓者の増加どころか低迷を打破する妙薬にさえなっていないことは、すでにデータとしても
表われ始めています。「ものみの塔協会」では、「2000年4月をかつてない最高の月にす
るように」という特別なキャンペーンを現在推進していますが、近隣諸会衆からもれ聞こえて
くるのは、残念ながらため息ばかりです。


以上3つの点は、主に社会情勢の影響等によるものであり、必ずしもエホバの証人自身の努力
で解決することが難しい事柄であるため、当面は、事態の成り行きにまかせるしか方策はない
ものと考えられます。


4)エホバの証人の教えに対する魅力が失われている
  
こうした社会情勢が進展する中で、「ものみの塔協会」が打ち出した幾つかの教理上の変更は、
低迷するエホバの証人たちの活動を、ますます低迷させるのに一役買っています。

例えば、ここ数年で打ち出された新たな教理上およびその他の変更を列挙してみると、以下の
ようになります。

  ●高等教育の解禁
  ●「世代」に関する解釈の変更
  ●羊とやぎを分けることに関する解釈の変更
  ●1914年の年代計算主義の後退
  ●「嫌悪すべきものが立つ」時期に関する解釈の変更

こうした変更や修正は、それ自体は概ねリーズナナブルなものであると私は思いますが、それ
まで、そうした教会の主張をそのまま信じ、受け入れて従ってきた従順な信者たちにとっては、
ショックが大きかったことは確かです。彼らにとっては「ハルマゲドンは遠くへ行ってしまっ
た」ように思えたことでしょう。もちろん、そうした受け止め方は正しくないかもしれません
が、感情的にはそうなってしまうのも無理はありません。

こうしたことの結果、必然的に、「あすにでもハルマゲドンが来るかもしれない」という緊急
感は失われ、当面の目の前にある課題である、仕事やその他の事柄が優先されることになる結
果、エホバの証人の活動に身が入らなくなるわけです。

これは、現在のエホバの証人の組織的な低迷状態をもたらした大きな要因となっています。こ
の点で、教理を解明する権利を独占している統治体の責任は重大です。特に、教理面での変更
が、単に結果だけを伝えるもので、その理由に触れていないことには、多くの証人たちが不満
を感じていることでしょう。人は物事の奥に隠れている理由を知りたがるものです。ですから、
こうした教理の変更が行なわれる際に、「今まで採用したきた方針は、何故これまで採用され
ていたのか」、「それには必然的な理由があったのか」、そして、「何故、新たに変更が必要
になったのか」、また、「それによって、どんな益がもたらされるのか」等々を明確にしても
らえるならば、より納得しやすいのではないでしょうか。

そうした手続きが欠落しているのは、毎度のことながら「ものみの塔協会」の大きな欠陥にな
っているように思えます。例えば、「1975年に終わりが来る」という予想が外れたことに
対する総括が不十分なままに済まされ、それが今日まできちんと処理されていないことに代表
されるように、一般信者に対して事態をきちんと説明しないで済ます体質が、ここにきて問題
となっているわけです。

もし、こうした点を真摯に捉えて対応しないならば、「ものみの塔協会」に対する一般信者の
不信感はますます増幅され、拭い去れない不信感となり、組織的な基盤は大いにゆらぐことに
なるでしょう。


5)若者たちの離反傾向が強まっている

エホバの証人は、1980〜1990年にかけて大きく成長しましたが、仮に、1990年頃
に、35歳で入信した人は、現在45歳となっているわけです。恐らく子供は、20歳前後で
しょうか。こうしたいわゆるエホバの証人の家庭で育った2世たちが、今、重大な岐路に立た
されています。

彼らは、何でも許容する現代社会の気楽な生き方にかなりの程度の魅力を感じるようになって
います。彼らにとって、エホバの証人の社会のおきてはきゅうくつで魅力のないものに映りま
す。例えば、エホバの証人の世界では、「マスターベーションをすることを聖書は禁じている」
と教えます。聖書から、そうした事柄を想起させる聖句を引用して説明しますと、なるほどと
思える聖句は確かにあります。しかし、聖書がマスターベーションそのものの是非に言及して
いる箇所はありません。そして、何よりも年頃の若者たちに、そうした要求を課すこと自体、
かなり不自然で酷な事なのではないでしょうか? 恐らく、ほとんどの若者たちは、上記のお
きてを守っているとは到底考えられません。さすがに長老たちは、そうした事柄をいちいち若
者たちに問いただすということは行なっていませんが、奉仕の僕などの資格には影響してくる
ことになっています。まったく愚かな規則です。

こうした非現実的な押し付けなどもあって、若者たちの「ものみの塔協会」の教えに対する反
発はかなり強まっており、次々と離脱者が続出する事態となっています。自分の子供が聖書の
教えから離れることによって「親の責任」を追求された長老たちが立場を退くケースも目立っ
て増えてきており、かなり憂慮すべき事態であることは確かです。

エホバの証人は来るべき新秩序についてよく語ります。決して若者たちに迎合することを勧め
るわけではありませんが、未来を担う若者たちの心を捉えることができないで未来のビジョン
を語るのは何かとても不自然な感じがします。本当に魅力的な将来を提示することができるな
ら、若者たちの共感を得られないということがあるでしょうか。それがかなわないのは、何か
重大な事柄が欠落しているかどうか、もう一度振り返ってみる必要があるように感じます。


6)エホバの証人の野外奉仕の報告制度の変更の影響

これは、たいして重要な問題ではないのですが、これまで、日本支部は、統治体の取決にはな
いある制度をつくって、日本の奉仕者の人数を高いレベルに保つことに成功してきました。そ
れは、月の半ばでその月の奉仕報告の中間報告を提出するというものでした。

「エホバの証人の奉仕者の人数」というのは、文字通り、その月に何らかの形で野外奉仕に幾
ばくかでも参加した人の数を集計したものです。何らかの事情で、まったく野外奉仕に参加し
なかった人は、人数から除外されてしまいます。少なくとも当該月は「エホバの証人」ではな
かったということになります。

そこで、上記の「中間報告」において、もし、ゼロ時間という報告をする人がいるならば、長
老たちは、何とかして残る半月の間に1時間でも奉仕するように、強力に後押しすることにな
ります。不注意で奉仕しなかった人はいいとして、霊的に弱っていても、病気であっても、他
の人の聖書研究に参加するなどして、何とかして奉仕報告がゼロにならないように、取り計ら
うのが長い間の慣習となっていました。これによって、過去の高い数字が維持されていたので
す。

何故か理由は定かではありませんが、2年ほど前から、この慣習がとりやめになったことと歩
調を合わせるように、伝道者数の伸び悩みが目立ち始めました。実際、会衆において奉仕を定
期的に行なっていない人(不定期者と呼ぶ)は、以前よりも増えてきたことは間違いありませ
ん。一つの会衆で不定期者が1人増えても、日本には3,700程度の会衆がありますから、
単純に3,700人の減少となってしまいますから、決して軽微な影響ではないのです。

実は、日本におけるエホバの証人の伝道者数がずっと増加してきたという点には、こうしたカ
ラクリも隠されていたのです。もっとも、最近は、前述のように、新しくバプテスマを受ける
人の数も最盛期の頃に比べて大分減ってきているので、上記の事柄はエホバの証人のマイナス
成長のきっかけをつくっただけで、もっと本質的な問題点が内包されていることは確かですが。



さて、ここまでで、最近のエホバの証人の組織的な低迷の要因について分析してきましたが、
結論として、日本のエホバの証人の組織は、すでに欧米先進諸国のそれが到達したように、成
熟期に突入し、今後は、大幅な増加は望めないと考えられます。外に向かって膨張するのでは
なく、内部を固める時代に突入したということが言えます。そうした状況を、まずは受け入れ
ることが大切です。増加するだけが良いことではないはずです。すでに信者になっている人の
救いがまずは大事なのではないでしょうか。現在の状況は特別異常な事態ではないという認識
が育てば、それなりの対処方法も見つけられることでしょう。

「昔の夢よ、もう一度」とばかりに、「かつての最高数を取り戻せ」と勇ましい掛け声をかけ
て叱咤激励する現在進行中の方針は、逆効果でしかないことを知るべきです。



2000年4月14日

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「生命−どのようにして存在するようになったか〜進化かそれとも創造か」の本にみられる不適切な引用

この随筆集の4回目で、「生命どのようにして存在するようになったか〜進化かそれとも創造か」の本
(以下「創造」と略称)について取りあげ、「進化論を確率論で扱うことの問題について」論じました。
これは、不自然な論議によって、科学的な事柄を論じ、進化と創造という事柄に関する次元の低い論議
を展開しようとしている「ものみの塔協会」のやり方に、私自身多少なりとも疑問を持っておりました
ので、日頃感じていた事柄をちょっと書き記したものでした。

その後、最近になって、本ウエブページの編集者である村本氏によって、「ものみの塔宗教と進化論」
という連載が始りました。氏によりますと、この本の問題点として、

  1)引用の乱用
  2)いい加減な権威
   3)科学用語と概念の混乱

などが挙げられております。また、すでにそれ以前にも、本ウエブページで、「ものみの塔協会の権威
者とは―第二部『生命』の引用をめぐって 」という記事があり、「いかがわしい権威と歪曲した引用」
がなされているという指摘がなされています。今回の「創造」の本に関する連載は、さらに、包括的に、
この本について分析しようというもののようです。

また、別のウエブサイト(http://www.meken.med.kyushu-u.ac.jp/~tosakai/index.html)ですが、進
化論と創造論〜科学と疑似科学の違い〜」(以下「進化論と創造論」と略称)というタイトルの一部に、
「エホバの証人の本に見られる『不完全な引用』」という項目があり、やはり、「創造」の本の中で、
権威者としての科学者の文献引用の仕方に疑問が投げかけられています。

 
こうした指摘は、もしそれが事実であるとするならば、ある意味で大変重要な問題を投げかけているこ
とになります。確かに、「ものみの塔協会」は、とかく、いろいろな問題で論議を巻き起こしています。
輸血をしない、国旗に敬礼しない、先祖崇拝を行なわない、異教に由来する祝祭日を祝わない、選挙を
しない、聖書で言うところの「終わりの日」は1914年に始った、等々。しかし、それらが正しいか
間違っているかは、今はとりあえず脇に置くとしても、ともかく、エホバの証人の指導部である統治体
では、このことを正しいと信じ、そのことを他の信者たちに教えているのだと思います。そして、そう
することが、良心的にも、聖書を正しく解き明かすことに貢献していると確信していることでしょう。
少なくとも、彼らは真剣かつ誠実に物事を扱ってきたと、私は信じてきました。

ところが、今回の「創造」の本に関する引用の問題は、これまでの論争とは明らかに性格が異なってい
ます。例えば、上記のように展開されている引用の問題一つを取り上げても、もし、それらの指摘が正
しいとすれば、明らかに、そこには『作為』が認められることになります。つまり、権威者の語ってい
る事柄を、その著者の意図しているところをあえてゆがめて伝えることによって、進化論を論駁しよう
という自分たちの論議の展開を有利に進めようとしたことになるからです。それは明らかに公正な事柄
ではありません。公正の神エホバを愛し、「エホバの証人」を標榜する人が、こうした事柄を行なうこ
とは決して許されないことだと思います。


そこで、今回は、この重大な問題、つまり「創造」の本の引用が正しく著者の見解を伝えるものとなっ
ているのかどうかについて、考えてみたいと思います。特に、この「創造」の本は、徹底した引用によ
って、進化論の誤りを論駁した書物という定評があるわけですから、そうした意味でも、このことは重
要となっています。


さきほど紹介した「進化論と創造論」の著者は、その内容をウエブサイトで公開した理由について、次
のように述べています。

    このページを作った目的は進化論に対する誤解を解き、創造「科学」の誤りを指摘することで
    す。そしてもう一つの深い目的は、進化論と創造「科学」を理解することで、科学と擬似科学
    の違いを見抜く力をつけることです。疑似科学の手法、例えば不完全な引用や、論敵の主張を
    誤解した上で否定する、間違いを正さない、批判に耳を貸さないという態度を知れば、他の疑
    似科学にも適切な対処ができるようになるでしょう。単に「創造論のここがおかしい」という
    種明かしだけでなく、なぜ創造論者はそういう間違いを犯したのか、そういう間違いを犯さな
    いにはどうすべきかということを示したつもりです。

こうした事柄の一環として、「エホバの証人の本に見られる『不完全な引用』」というタイトルの部分
を著しています。今回、その著者のご厚意により許諾をいただきましたので、そこで展開されている論
議を引用させていただきたいと思います。著者が、ものみの塔の引用として問題にしているのは以下の
3つの点です。

  1)ダーウィンの例
  2)ドーキンスの例
  3)クリックの例

では、以下にその部分を引用します。

    1)ダーウィンの例

    ダーウィン自身も自然選択による進化がばかげたものと認めている証拠として、エホバの証人
    の本に限らず、反ダーウィニストに引用される有名な一節があります。種の起源のその前後を
    読みさえすれば、それが不完全な引用であることは明らかです。まず創造論者を引用しましょ
    う。

      進化論の難問の一つは、見たり、聞いたり、考えたりすることがなされるために、それら
      の器官のすべての部分がいっせいに作動しなければならない、という点です。個々の部分
      すべてが完成するまで、そのような器官は役立たないでしょう。それで、疑問が生じます。
      進化の推進力と考えられる、方向づけのない偶然の要素が、それらの部分すべてをそのふ
      さわしい時に結合させ、それによって、このような精巧な仕組みが作り出されたのでしょ
      うか。
 
      ダーウィンもこれが難問であることを認めていました。例えば彼はこう書いています。
      「目が[進化]によって形成されたとするのは、率直に告白すれば、極めてばかげた考えに
      思える」。以来1世紀以上がたちました。その難問は解決されましたか。(「創造」の本
       P18)

    種の起源から該当個所を引用しましょう。

      完璧で複雑な器官といえば、たとえば目がそうだ。さまざまな距離に焦点を合わせ、さま
      ざまな量の光を受容し、光の球面収差や色収差を補正するといった比類なき機能をそなえ
      た目が、自然選択によってつくられたのだろうと考えるのは、率直にいって、このうえな
      くばかげていると思える。だが、太陽が動いているのではなく、地球のほうが太陽の周囲
      をまわっているのだと最初にいわれたとき、われわれの常識はその説を誤りだと断じたも
      のだ。(チャールズ・ダーウィン著 リチャード・リーキー編 1997.新版図説 種の起
      源 東京書籍 P108)

    そのあとダーウィンは単純な目から複雑な目にいたるさまざまな段階の目を例にあげ、それぞ
    れの段階がその目の持ち主にとって有用であると示しています。また、ウォレスの言葉を引用
    して、目に関するすべての変化が同時に起こる必要がないことも示しました。ダーウィンの主
    張は、自然選択による進化がばかげているように見えるのは、かつて地動説がそう思われてい
    たのと同じく、見かけ上のものに過ぎないということです。

    ダーウィンが目を難問と認めていたのは事実ですが、1世紀を待つまでもなく、ダーウィン自身
    がその難問に対する説明を試みています。創造論者の主張は、1世紀前から進歩していないよう
    です。エホバの証人の本があげた、複雑な器官はすべての部分がいっせいに働かないといけな
    いという自然選択に対する疑問は、とっくにダーウィン自身によって解答が与えられています。
    その部分はなぜ引用しないのでしょうか。

    1世紀前にとっくに反論された疑問をあげ、さらにその進化論者の反論には言及せず、その代
    わりに文脈を無視した引用を行い、あたかもダーウィン自身が自然選択による進化をばかげた
    ものとみなしているかのようにみせかける手法は公正なものではありません。


    2)ドーキンスの例
 
    動物行動学者のドーキンスは著書「利己的な遺伝子」(エホバの証人の本では、ひとりよがり
    の遺伝子と訳されている)の中で、生命の起源についてふれました。ドーキンスの偶然に自己
    を複製する分子が生じ、細胞に進化したという主張に対して、エホバの証人の本は、この時点
    で、
    
      「本書[注:利己的な遺伝子]はおおむね空想科学小説を読むような気持ちで読むべきもの
      である」という、その本の前書きにあるドーキンス自身の注釈の意味を理解しはじめる読
      者もいるかもしれません。(「創造」の本  P39)
 
    と述べました。確かに前書きでドーキンスはSFのように読んでほしいと書いてありますが、も
    のみの塔の引用者はその次の数行を見落としたのでしょう。「利己的な遺伝子」から引用して
    みましょう。

      この本はほぼサイエンス・フィクションのように読んでもらいたい。イマジネーションに
      訴えるように書かれているからである。けれどこの本は、サイエンス・フィクションでは
      ない。それは科学である。(リチャード・ドーキンス 1991 利己的な遺伝子 紀伊國屋
      書店 P4)

    ここで問題としているのは、引用が適切かどうかです。ドーキンスの主張がSFに過ぎないと言
    いたいのであれば、ドーキンス自身の言葉を引用すべきではありません。


    3)クリックの例

    フランシス・クリックは、DNAの二重らせん構造を発見した、今日もっとも有名な科学者のう
    ちの一人です。クリックは、生命の起源に関してあるユニークな説を提唱しました。地球上の
    生命の起源は、他の天体で高度に発達した生物が意図的に送り込んだもので、送り込まれたの
    は細菌のような単純な生物であり、地球上の全生物はその子孫だというのです。この説は意図
    的パンスペルミア(汎宇宙胞子)説と呼ばれています。意図的パンスペルミア説は現在の技術
    では検証が困難であるので、あまり議論の対象とはなってはいませんが、生命の起源を説明す
    る説の一つとして認められています。意図的パンスペルミア説は、あらゆる進化の証拠と矛盾
    しません。

    エホバの証人の本では、生命の起源に関する、進化論者たちの過去と現在の見解の一つとして、
    クリックの意図的パンスペルミア説を主張する本「生命 この宇宙なるもの」から、次のよう
    に引用しています。

      「我々が現在知りうるかぎりの知識を備えた正直な人であれば、生命の起源は、現時点で
      は、ある意味でほとんど奇跡のように思える、ということをただ認めざるをえないであろ
      う。」-生物学者フランシス・クリック-(「創造」の本  P52)

    該当個所をクリックの本からもうちょっと長く引用してみましょう。

      正直のところ、現在の知識を総動員して言えることは、生命誕生のために満たされるべき
      条件は非常に多いので、現時点では生命の起源はまず奇跡としか思えない、ということだ。
      しかしこれを、通常の科学反応が理屈通りの順序で起こっただけでは地球上に生命は発生
      できなかったと言えるだけの理由があるという意味に受けとってはいけない。(フランシ
      ス・クリック 1989.生命 この宇宙なるもの 思索社 P88)

    要するに、クリックは生命の起源は奇跡であると言いたい訳ではなく、現時点ではよくわかっ
    ていないという、すべての科学者が同意することを述べているにすぎません。

私自身も、文献を取り寄せて調べてみましたが、この著者の主張に誤りや誇張はありませんでした。
「ものみの塔協会の権威者とは―第二部『生命』の引用をめぐって 」の著者が主張する「いかがわし
い権威と歪曲した引用」のうち、少なくとも「歪曲した引用」は的を射ていると言わざるを得ません。

本当に残念なことです。どうしてこうしたことが起きてしまったのでしょうか? こうした事実につい
て「ものみの塔協会」の指導部はどこまで知っているのでしょうか? 進化論を完膚なきまでにやっつ
けたいという熱意が著者の勇み足を招いただけなのでしょうか?


ところで、私たち末端にいる会衆の長老たちは、演壇で話をして一般信者を教えたりする機会が多いわ
けですが、その一つである「公開講演」に関しても、協会から次のような指針が与えられています。

  *** 塔85 9/15 30-1  なぜ聖書講演をしたいと思うのですか ***

  三つの基本的な要素

  公開聖書講演を行なうということは,思いと心の関係している問題です。ですから,クリスチャンの
  講演者は正しい態度を持っているだけでなく,話すだけの価値のある事柄を持ち合わせていなければ
  なりません。そのためには,三つの基本的な要素を考えに入れなければなりません。それらの要素と
  は,聖書と事実と論理です。

  第一に覚えておくべきなのは,公開聖書講演の要旨は,当然のことながら,講演者の用いる聖句に支え
  られていなければならないということです。そのような講演を行なう特権があるなら,自分の話の論
  題について十分の知識を備えており,聖句を引用し,それらを上手に読み,正しく適用できなければな
  りません。西暦33年のペンテコステの日に,使徒ペテロは自分の述べる事柄を確証するために,繰り
  返し,聖句に言及しました。(使徒 2:14-41)ベレアの人々はパウロが聖書にしっかりと基づく事柄
  を述べたことに満足しました。(使徒 17:10,11)またアポロは,「イエスがキリスト」,すなわち待
  望久しいメシア「であることを聖書から論証し」ました。―使徒 18:28。

  言うまでもなく,公開講演の内容の聖書的な根拠は,ものみの塔協会の備えている筋書の中に示されて
  います。そうではあっても,講演者は付加的な聖句や並行する聖句を使うことができます。ただし,そ
  れらの聖句は同じほどよく当てはまらなければならず,またそうしたことは余りひんぱんに行なわな
  いようにしなければなりません。この点に関して,クリスチャンの奉仕者には増し加わる霊的な光に
  遅れずについてゆくよう注意しなければなりません。例えば,コリント第一 2章9節は神の知恵のより
  深い事柄に当てはまることが文脈(G>コリ一 2章G>7節と10節)から分かるのに,講演者が
  この聖句を誤って将来の地上の楽園に当てはめることがあるかもしれません。

  第二に,公開講演者が自分の述べる事柄を支持するために用いるさまざまな事実の問題があります。
  提出される論点が当を得た疑問や抗議の的にならないよう注意しなければなりません。特に論点が人
  々を驚かせるものと思われるときには,注意することが大切です。述べる事柄が本当に事実に基づい
  ているかどうかを確かめるのは賢明かつ肝要なことです。そのようなわけで,ある陳述に対して疑問
  が投げ掛けられた場合に信頼の置ける情報源を引き合いに出せるようにしておくのがいつでも最善
  です。ペンテコステの日に,ペテロはよく知られている事実を指摘しました。アテネのアレオパゴス,
  つまりマルスの丘で使徒パウロもやはりそうしました。―使徒 2:22; 17:22,23,28。

  第三に,論理がどうしても必要になります。クリスチャンの公開講演者は聴衆と共に推論しなければ
  なりません。そのようなわけで,パウロは「会堂でユダヤ人と,また神を崇拝するほかの人たちと,さ
  らには毎日,市の立つ広場でそこに居合わせる人々と論ずる[推論する]ようになった」と記されてい
  るのです。(使徒 17:17)公開講演の際の論議は,論理的,簡潔かつ明快で,容易についてゆけるもの
  でなければなりません。この点で大いに役立つのは,すでに述べられた事柄とそれに続く事柄を結び
  合わせる接続語を用いることです。

  公開講演者になる特権にあずかっているのであれば,聖書講演を行なうことに対して必ず正しい精神
  態度を抱くようにしてください。自分の心の中に,創造者と仲間の人間に対する愛を抱くようにしま
  す。聖句や事実を集め,論理的な仕方で提供します。そうすれば,「賢い者たちの舌は人をいやす」と
  いうこの箴言の言葉はあなたに当てはまるようになるでしょう。(箴言 12:18)その上,神に誉れを
  帰す立派な聖書講演をすることは,「自分と自分のことばを聴く人たちとを救う」一つの方法なので
  す。―テモテ第一 4:16。

ここで、公開講演をする上で基本的な要素として以下の3点が指摘されています。

  1)聖書に根ざした論議であること
  2)事実に立脚していること
  3)論理的であること

こうした事柄が求められるとしています。特に、今、2番目には「事実に立脚していること」とありま
す。末端の長老たちには、そうした事柄を求めておいて、指導部が事実をねじ曲げているとしたら、そ
れは一体どういう組織なのでしょうか? 

また、そうした指示に誠実に従って、事実に立脚した話をしているつもりが、その引用が間違っている
としたら全くとんだ道化話です。実際、公開講演の筋書きでは、多くの権威者とされる人からの言葉が
引用されていますので、そうしたことまで、私たちは心配しなければならないことになります。


ここで再び、「進化論と創造論」の著者の言葉を引用させていただきたいと思います。

    不完全な引用とは、引用元から文脈を無視して一部分だけを引用することで、オリジナルの文
    献とは違った結論を引き出すことです。例えば、不完全な引用によって、進化のメカニズムに
    ついて論争があるのに過ぎないのに、あたかも進化が起こったかどうかという論争があるかの
    ように見せかけることができます。不完全な引用は、引用者がオリジナルの文献を理解してい
    ないためになされることもあれば、読者をだますために意図的になされることもあるでしょう。
    どちらにしろ、健全な議論にはふさわしくありません。

    創造論者はしばしば不完全な引用を行いますが、ここでは特に、ものみの塔聖書冊子協会 19
    85.生命-どのように存在するようになったか 進化か、それとも創造か、について述べます。
    この本は多くの科学者の言葉を引用して、あたかも進化が起こったことを信じていない科学者
    がたくさんいるようにみせかけています。私が引用元にあたって調べたのはその極一部ですが、
    その引用の仕方を見れば、この本における引用が信頼できないことがわかるでしょう。少なく
    とも、引用元を確認するまでは、この本の引用を信じないほうがよさそうです。

こういう結論を導かれても、私には何も反論できません。自分もかつて、この本を用いて、多くの公開
講演を行ない、多くの研究生を育ててきたかと思うと、まったく恥ずかしい限りです。

しかし、「ものみの塔協会」の指導部は、これに対して明確な反論をすべきです。少なくとも「進化論
と創造論」の著者は、いわゆる「エホバの証人の反対者」でもありませんので、背教者の言葉に耳を傾
けてはならないという事柄も、ここでは当てはまらないと思います。反論を期待したいと思います。そ
うすることが、「創造」の本を著した者の責任であると思うからです。



2000年5月5日

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放射性炭素時計は本当にいい加減で信頼できないものなのでしょうか?

久しぶりに「生命どのようにして存在するようになったか〜進化かそれとも創造か」の本(以下「「創
造」の本と略称)を開きましたので、ついでに、もう一つ、以前から気にかかっていた事柄について、
取り上げてみたいと思います。それは、考古学などで用いられている年代計算に対する「ものみの塔協
会」の見方についてです。

この点で、「創造」の本では、多くのページは費やされていませんが、7章の「『猿人』とは何ですか」
という章で、以下のように述べられています。なお、ここで、段落の最初の数字は節の番号を示してい
ます。

  *** 創 96-8  7「猿人」とは何ですか ***
  
  年代についてはどうか

  37 聖書に基づく年代計算は,人間が創造されてからの期間がおよそ6,000年であることを示していま
  す。では,人間として認められる化石に関してそれよりはるかに長い期間についてしばしば述べられ
  ているのはなぜでしょうか。

  38 聖書による年代計算は誤りである,と決めてしまう前に,放射能による年代測定の方法が幾人かの
  科学者たちから厳しい批判を受けていることについて考えてください。一科学雑誌は,「放射能の自
  然崩壊によって決定される年代が,ただの数年ではなく,幾けたも違ってくる」ことを示す研究結果
  について伝えました。同誌はこう述べました。「人間は地球の上を360万年も歩いてきたのではなく,
  登場してからわずか数千年しかたっていないのかもしれない」。

  39 放射性炭素による「時計」を例に取りましょう。放射性炭素によって年代を測定するこの方法は,
  世界中の科学者たちにより,20年ほどの期間をかけて開発されました。それは,人間の古代の歴史の
  遺物について,その年代を正確に測定する方法として広くもてはやされました。しかしその後,放射
  化学者,考古学者,地質学者などを含む,世界の専門家の会議がスウェーデンのウプサラで開かれて,
  種々の記録の交換が行なわれました。そして,その会議の報告は,この測定方法のよりどころとなる
  幾つかの基本的な仮定が多かれ少なかれ信頼できないものであることを示しました。例えば,放射性
  炭素が大気中に形成される比率は過去において決して一様ではなかったこと,そして紀元前2000年ご
  ろより前の物体の年代を測定するためには,この方法は頼りにならないことが明らかにされました。

  40 地上における人間の活動に関する真に信頼できる証拠は,幾百万年ではなく,数千年の昔にまでし
  かさかのぼりえないことを忘れないでください。例えば,「地球の運命」はこう記しています。「今
  からわずか六,七千年前に……文明は出現し,人間としての世界を構築できるようになった」。「最
  後の200万年」と題する本はこう述べています。「旧世界において,農耕革命における決定的な段階
  のほとんどすべては,紀元前5000年から1万年の間に起きた」。同書はさらにこう述べています。
  「人間が文字による記録を残しているのはわずかに過去5,000年に関してである」。56 化石の記録
  が現生人類の地上における突然の出現を示していること,および信頼できる歴史の記録が比較的に最
  近のものと認められていることは,地上の人間の生活に関する聖書の年代記述と調和しています。

  41 この点で,ノーベル賞を受けた核物理学者で,放射性炭素による年代測定法の開発者の一人である,
  W・F・リビーがサイエンス誌で述べた次のことに注目してください。「この年代測定技術を開発する
  ための調査は二つの段階から成っていた。つまり,歴史時代と先史時代の標本を別々に測定してみる
  ことである。アーノルド[協力者]とわたしが最初に衝撃を受けたのは,歴史はわずか5,000年しかさ
  かのぼれないことを,わたしたちの助言者が知らせてくれた時であった。……しかじかの社会もしく
  は考古学上の遺跡は2万年前のものである,といった主旨の陳述を目にすることであろう。こうした
  数字,こうした古い時代について正確には知られていないことを,わたしたちはむしろ急に知ったの
  である」。

  42 進化論に関するある本の書評を書いた際,英国の著述家マルコルム・マガリッジは,進化論の根拠
  がいかに不足しているかについて注解し,そうした中で突飛な憶測がさかんになされていることにつ
  いて述べました。次いで彼はこう書いています。「比較して見ると,創世記の記述は妥当なものに思
  えるし,少なくとも,人間や人間の行動に関して我々が知っている事柄としっかり結び付いている,と
  いう利点がある」。人間が幾百万年もかけて進化してきたという,根拠の不確かな主張,「また,頭が
  い骨から頭がい骨への突飛な飛躍,これらは,[進化論の]神話にとらわれていない者には,全くの空想
  にしか見えないであろう」と彼は述べました。マガリッジはこう結論しています。「このようにず
  さんで説得力の乏しい理論づけが20世紀の知能をこれほど簡単にとりこにし,これほど広くまた無思
  慮に応用されたことについて,後代の人々は必ずや驚くだろうし,またそのことを大いに面白がるだ
  ろう,とわたしは思う」。

ここで主張されている事柄をまとめますと、以下のようになると思います。

  1)聖書に基づく「ものみの塔協会」による年代計算は、人間が創造されてからの期間が6,000年であ
    ることを示しており、放射能による年代測定の方法とはかけ離れている。

  2)しかし、放射能による年代測定の方法は、幾人かの科学者たちから厳しい批判を受けている。
    例えば、放射性炭素によって年代を測定する方法は、その測定方法のよりどころとなる幾つか
    の基本的な仮定が信頼できないものであることが示されており、紀元前2000年ごろより前の物
    体の年代を測定するものとしては、頼りにならないものであることが明らかにされている。
    従って、地上における人間の活動に関する真に信頼できる証拠は、幾百万年ではなく、数千年
    の昔にまでしかさかのぼれない。

1)については、「ものみの塔協会」と一般の見解が、上記のように一致していないことは事実です。

2)については、放射性元素を用いた年代測定法の誤差に関して言及したものですが、そもそも、測
定誤差というものは、すべての測定につきものなのではないでしょうか? しかし、本当に、「創造」
の本が述べるような、大幅なつまり桁が違ってしまうような誤差が一般的なのでしょうか? ここで
も、その根拠として、科学文献からの引用がなされていますが、今は、引用の問題は置いておくとして、
実際の、放射性炭素による年代測定法は、本当に信頼の置けないものなのでしょうか? 


ここでは、それについて、考察する前に、「創造」の本では、比較的簡単にしか触れられていないこの
問題について、かつて、「ものみの塔協会」では、詳細に論じたことがありましたので、そちらを引用
しながら、検討してみたいと思います。以下、少し長くなりますが、「「目ざめよ!」誌1986年9月22日
号 21-6ページ 「 放射性炭素時計」と、同じ「目ざめよ!」誌の号 27ページ 「 疑問の余地のない,聖
書の年代の信頼性」から一部引用してみたいと思います。


  *** 目86 9/22 21-6  放射性炭素時計 ***

  この方法を用いて,かつて生きていた生物の遺物の年代を測定できます。それとも,実際には測定で
  きないのでしょうか。これまでに挙げた時計はすべて針の進み方が遅く,考古学的な問題を研究する
  にはほとんど,あるいは全く役に立ちません。人間の歴史の時の進み方に適した,もっと針が速く動
  くものが必要です。この必要は放射性炭素時計によって満たされてきました。

  普通の炭素12の放射性同位体である炭素14が最初に発見されたのは,イオン加速装置を使って粒子加
  速の実験をしているときでした。次いでこの物質は大気中からも発見されました。炭素14からは弱
  いベータ線が放出され,適切な装置を用いれば計測も可能です。炭素14の半減期はわずか5,700年で
  あり,人間の初期の歴史に関する事柄の年代測定にはうってつけです。

  これまで説明してきた他の放射性元素は地球の年齢に比べて寿命が長いため,地球が創造された時か
  ら現在までずっと存在してきました。しかし,放射性炭素の寿命は地球の年齢に比べて非常に短いの
  で,何らかの方法によって絶えず生成されなかったとすれば,今もそれが地上に存在するということ
  はあり得ません。その方法とは,大気が宇宙線の砲撃に遭い,窒素原子が放射性炭素に変化すること
  です。

  この炭素は,二酸化炭素の形で植物の光合成の過程で用いられ,生きた細胞の中であらゆる種類の有
  機化合物に変化します。動物も,そうです,わたしたち人間も,植物の組織を食べ,あらゆる生き物は
  空気中と同じ割合の放射性炭素を保持するようになります。放射性炭素は崩壊するので,生物が生き
  続ける限り,放射性炭素の補充は,それを新たに取り入れることによって行なわれます。しかし,木や
  動物が死ぬと,新たな放射性炭素の供給は断たれ,その中にあった放射性炭素の量は減少し始めます。
  一片の木炭,あるいは動物の骨が5,700年間保存された場合,その中に含まれる放射性炭素の量はそれ
  が生きていたときのわずか半分になります。ですから,かつて生きていた生物の中に残っている炭素
  14の割合を測定するなら,原則的に,その生物が死んでからどれくらい経過しているかが分かります。

  放射性炭素による方法は,初めは有機体であった広範な種類の物に用いることができます。この方法
  によって幾千幾万もの標本の年代が定められてきました。その魅惑的な多様性は次に挙げるわずか
  数例の中にも示唆されています。

    ●エジプトの王セオストリス3世の墓から発見された埋葬船の木材の年代は,西暦前1670年と算
     定された。

    ●伐採時の1874年には2,905年分の年輪が刻まれていた米国カリフォルニア州の大セコイアの心
     材は,西暦前760年のものと算定された。

    ●手書きの文字のスタイルから,西暦前1ないし2世紀のものと算定されていた,死海写本の亜麻
     布の包装材料は,放射性炭素の含有量から1,900年前のものと測定された。

    ●アララト山で発見され,ノアの箱船の一部ではないかと見る向きもあった木材の断片の年代は,
     わずか西暦700年であることが判明した。確かに古い木材ではあったが,大洪水以前の古さに
     は遠く及ばなかった。

    ●米国オレゴン州の洞くつの溶岩の中から掘り起こされた編み靴は,9,000年という年代を示し
     ている。

    ●シベリアの泥土の中で数千年前に凍結したマンモスの幼獣の肉は,4万年前のものであること
     が判明した。

  これらの年代はどれほど信頼できるものでしょうか。


  放射性炭素時計の誤り

  放射性炭素時計は初めて明らかにされた時,しごく簡単で直接的な方法に見えましたが,今では多く
  の誤りの生じやすいことが知られるようになりました。この方法が使われるようになって約20年後,
  放射性炭素年代学および関連した年代測定法に関する会議が1969年にスウェーデンのウプサラで開
  かれました。この方法を実際に用いている化学者と,その結果を活用している考古学者および地質
  学者との間で議論が繰り広げられ,年代の信頼性を損なうような多くの欠陥に光が投げ掛けられま
  した。それから17年たった現在,それらの欠点を正す面ではほとんど何も成し遂げられていません。

  分析される標本が現代の(生きた)炭素によっても,古代の(死んだ)炭素によっても決して汚染
  されないようにすることは,常に頭の痛い問題の一つでした。例えば,古い木の心から採取したわず
  かな量の木材には樹液の含まれていることがあります。あるいはそれが有機溶剤(死んだ石油から
  作られる)で抽出されたものならば,分析された物の中に少量の溶剤が残されている可能性もあり
  ます。地中に埋もれた古い石炭に,生きた植物の支根が侵入してくることもあります。また,取り除
  きにくい太古の瀝青に汚染されているかもしれません。炭酸塩を含む生きた貝が発見されています。
  その炭酸塩は,長期間埋もれていた鉱物から,あるいは数千年間海洋の深みにあったのを,そこから
  湧き出る海水を通して取り入れたのです。こうしたことがあると,標本の年代が実際よりも古く,あ
  るいは新しく見えることがあります。

  放射性炭素に基づく年代測定理論の最大の欠陥は,大気中の炭素14のレベルが現在と同様,常に一定
  だったという仮定です。そのレベルはまず第一に,宇宙線による炭素14の生成率に依存しています。
  宇宙線は地球の磁場の変化の影響を大きく受け,時折その強度が大幅に変化します。太陽の磁気あ
  らしによって,数時間のうちに宇宙線が千倍にもなることがあります。過去数千年,地球の磁場は強
  くなったり弱くなったりしてきました。そして核爆弾の爆発があってから,世界中の炭素14のレベ
  ルはかなり増えてきました。

  一方,その割合は空気中の安定した炭素の量の影響を受けます。火山の大爆発があれば,蓄積されて
  いる安定した二酸化炭素は相当量増し加えられ,放射性炭素は希薄にされます。前世紀に人間が化
  石燃料,特に石炭と石油をかつてなく多量に用いたため,大気中の二酸化炭素の量は恒常的に増加し
  ました。(炭素14時計におけるこの種の不確実な要素に関する詳細な点は,「目ざめよ!」誌1972
  年7月8日号に示されています。)


  年輪年代学―木の年輪による年代測定

  これらの基本的な弱点すべてに直面して,放射性炭素を支持する人々は,年輪,それも特に米国南西部
  に何百年も何千年も生育してきたブリスルコーンパイン(松の一種)の年輪を数えて年代が得られ
  た木の標本を助けにし,自分たちの割り出した年代を標準化することに心を向けてきました。この研
  究分野は年輪年代学と呼ばれています。

  したがって,放射性炭素時計はもはや絶対的な年代を算出するものではなく,相対的な年代のみを測
  定する方法とみなされています。正確な年代を得るためには,放射性炭素による年代を年輪年代学
  によって是正しなければなりません。したがって,放射性炭素による測定結果は“放射性炭素に基
  づく年代”と呼ばれています。これと,年輪に基づく検量線とを突き合わせることによって絶対的
  な年代が導き出されます。

  これは,ブリスルコーンパインの年輪が信頼できる期間に限って妥当な方法です。ところが,樹齢が
  知られている生きた樹木のうちで最も古いのはわずか西暦800年のものなので問題が生じています。
  科学者たちはものさしの長さを伸ばすため,付近にころがっている枯れ木の断片に見られる,幅の広
  い年輪と幅の狭い年輪の型に関する共通部分を見つけようとします。倒木の17の断片を継ぎ合わせ
  れば7,000年以上昔にさかのぼることができる,と科学者は主張します。

  ところが,年輪の基準だけではやはり耐えることができません。枯れ木の断片の一つを配置すべき場
  所について確信が抱けないときは,どうするのでしょうか。その断片に関する放射性炭素による測定
  を依頼し,それを導きとしてその断片のふさわしい場所を決定するのです。この方法は,1本しかない
  松葉杖の両側にいる足の不自由な二人の人が交互にそれを使い,一方が相手に寄り掛かっていたかと
  思うと今度は相手を支えて助けているといった様子を思い起こさせます。

  ばらばらになった木の断片が戸外でこれほど長く奇跡的に保存されたことについては疑念が生じる
  に違いありません。豪雨によって洗い流されたり,薪などに用いるため通行人に拾われたりした可能
  性もあるように思えます。腐敗したり虫に冒されたりしなかったのはなぜですか。生きた樹木が時
  と天候の荒波に耐え,たまに1,000年ないしはそれ以上生き延びることがあるのは確かです。しかし
  枯れ木が6,000年も生き延びるものでしょうか。そう考えるとこれを信頼することには無理がありま
  す。ところが,放射性炭素に基づく古いほうの年代はこの方法に立脚しているのです。

  それにもかかわらず,放射性炭素の専門家と年輪年代学者は,そのような疑念をあえて脇へ押しやり,
  欠陥と矛盾点を取り繕って,共に妥協的な考えに満足しています。では,彼らの客とも言える考古学
  者はどうでしょうか。考古学者は提出した標本の算定された年代に必ずしも満足していません。あ
  る人はウプサラ会議で次のような意見を表明しました。

  「炭素14による年代が我々の理論を支持しているとしたら,我々はそれを主要な本文の中に入れる。
  我々の理論と完全に矛盾しているのでなければ,脚注に入れる。さらに,全く“年代が合わない”と
  したら,破棄するしかない」。

  考古学者の中には,いまだにそのように考えている人がいます。ある人は,動物の家畜化が最初に行
  なわれた時をしるし付けると思われる,放射性炭素に基づく年代に関して,最近次のように書きまし
  た。

  「考古学者は,放射性炭素による年齢の決定は“科学的”な研究所から来たのだからそれだけで即
  座に有用となる,という見方を再考[しつつある]。どの方法,どの研究所,どの半減期の数値,どの検
  量線が最も信頼に値するかについて混乱の度が深まれば深まるほど,提出されるどんな“年代”を
  も疑念を抱かずにそのまま是非とも受け入れたいと思う考古学者の気持ちは薄らいでくる」。

  年代を提供した放射化学者は,「流行を追ったり感情的だったりする考古学ではなく,適正な測定に
  基づく事実を扱うことを我々は好む」と,反撃しました。

  古代の人間にまでさかのぼるこれらの年代の妥当性について科学者たちの間でこれほど大きな意見
  の相違があるのですから,この一連の記事の冒頭に引用したような科学的“権威”に基づくニュー
  ス報道に対して一般の人が懐疑的になるのは,理解しがたいことでしょうか。


  *** 目86 9/22 27  疑問の余地のない,聖書の年代の信頼性 ***

  科学的な年代測定法から得られる結果は,聖書に対するわたしたちの理解にどのような影響を及ぼす
  でしょうか。それはわたしたちの見方に依存しています。地球,太陽,月,星など―人類だけは例外―
  がすべて24時間を1日とするわずか六日間で創造されたという根本主義者の解釈を擁護してきたとし
  たら,科学的な証拠は信念を乱すものであることを認めなければなりません。

  一方,創世記に出てくる日が数千年に及ぶ長い期間であり,その前にも,地球を形造るために幾十億年
  もの期間が経過していることを理解すれば,問題はなくなります。

  それにしても,放射性炭素に基づく年代の中に,火を燃やし,道具を作り,家を建てる人間が6,000年以
  上前に存在していたことを示すものが幾つかあると,確かに論争が生じます。そのような年代は聖書
  の年代学と矛盾します。わたしたちはどちらを信じるべきでしょうか。

  聖書はアダムが創造された時以降,時を1年ずつ数えています。それが,約25世紀前の人間の信頼でき
  る歴史と結びつけられています。太陽が夏至から冬至に,そして再び夏至へと1年ごとに移動するこ
  とにより,年は区別されました。太陽は神がその目的のために空に置かれたしるしなのです。理知を
  持つ人間は継続的な年月の流れを,ある歴史的な出来事から別の出来事までを区切って記録しました。
  その記録は聖書の初めの書物に組み込まれ,その後はユダヤ人の神聖な宝の一部として,彼らが一国
  民として存続する限り保存されました。比類のない正確さと権威を備えたこの歴史は,人類が地上に
  存在し始めてからわずか6,000年しかたっていないことを示しています。

  この明確で確固たる権威に比べて,放射性炭素の理論はどうでしょう。その基盤となる仮定はすべて
  疑問視され,改訂され修正されてきました。その仮定の中には,今なお深刻な疑問に包まれているもの
  も少なくありません。その理論が,聖書の歴史的な年代学に本気で挑戦することなどどうしてできる
  でしょうか。

  では,どのような結論を下すことができますか。これまで見てきた通り,地質学者は放射性年代測定法
  を用い,地球の歴史に関する自らの理論の裏づけとなる概して正当な証拠を見いだしてきました。た
  だし,その年代の大半は,確実とはとても言えない状態にあります。

  古生物学者の大部分は,受けた教育により,また進化論を支持する仲間たちにより,偏見を抱かされて
  いますが,彼らはいわゆる“猿人”の化石が幾百万年もの古さを持つという主張の裏づけを放射性年
  代測定法に求め続けています。しかし,そのような努力はむなしいものです。

  一方,ウランとカリウムを用いた地質学的な時計は,進み方が非常に遅いためふさわしいものではあ
  りません。他方,わずか数千年前の時代まではかなりよく測定できる放射性炭素時計も,それより古
  いものを測定できないという困難に直面しており,そこから抜け出す道は全くありません。とはいえ,
  放射性炭素による測定結果の圧倒的大多数は,聖書に調和した6,000年の範囲内に収まっています。
  それよりも古い年代も幾つかあり,進化論者は必死でそれにしがみついていますが,それらはすべて
  推測の域を出ません。

  他の科学的年代測定法のうち,人間の創造に関する聖書の歴史を先頭に立って攻撃しているのはアミ
  ノ酸のラセミ化ですが,それらの測定法はすべて無残な敗北を被っています。

  わたしたちは,確信を持って次の事実をより所とすることができます。聖書の年代学は科学的などん
  な年代測定法から見ても,疑問の余地のないものなのです。


ここで用いられている論点をまとめてみますと、以下のようになります。

  1)放射性炭素による年代測定法は、今では多くの誤りの生じやすい方法であることが知られるよ
    うになっている。その最大の欠陥は、大気中の炭素14のレベルが現在と同様、常に一定だった
    という仮定に基づいている点である。しかし、それは、さまざまな要因によって、実際は一定
    ではない。

  2)正確な年代を得るためには、放射性炭素による年代を年輪年代学によって是正しなければなら
    ない。しかし、年輪年代学に用いられる木の断片は保存状態が悪いために信頼性に乏しい。
    従って、こうした方法に立脚している放射性炭素年代測定法によって得られた結果は疑わしい
    ものである。

  3)放射性炭素の理論の基盤となる仮定はすべて疑問視されており、改訂され修正されてきた。そ
    の仮定の中には、今なお深刻な疑問に包まれているものも少なくない。そうしたいかがわしい
    理論が、聖書の歴史的な年代学に本気で挑戦することなど到底できない。

  4)結論として、地質学者は放射性年代測定法を用い、地球の歴史に関する自らの理論の裏づけと
    なる正当な証拠を見いだしてきたと主張するが、その年代の大半は、確実とはとても言えない
    状態にある。それらは推測の域を出ないものばかりである。従って、聖書の年代学は科学的な
    どんな年代測定法から見ても、疑問の余地のないものである。


これらの論点について、検証してみたいと思います。

1)については、放射性炭素年代測定法は、大気中の炭素14のレベルが一定であるという誤った仮定
に基づいているという主張ですが、この主張そのものは正しい指摘です。確かに、放射性炭素年代測定
法は、そうした仮定のもとに理論式が組み立てられているからです。しかし、そうした仮定が正しくな
いという認識はすでに定着しており、そうした点を補正する試みが専門家の間ではすでに始っています。

実際、放射性炭素の初期濃度の地域差や初期濃度の経年変化などが考慮されるようになってきています。
例えば、19〜20世紀の化石燃料の大量消費は、局地的な放射性炭素の濃度変化をもたらしていると考え
られていますし、陸上の地下水、河川水に含まれる炭素は、堆積物中の古い炭素の影響を受けています。
腐植質土壌で生じる二酸化炭素を溶かした地下水や石灰岩地域では、当然、炭素の溶出があると考えら
れます。この場合放射性炭素の濃度は、通常より低くなることが予想されます。

また、初期濃度の経年変化については、1980年代になって北米の樹木年輪を用いた放射性炭素初期濃度
が検討され、濃度が一定であったとする仮定が満たされていないことが明らかになっています。年輪年
代から遡って7500年前までにの過去の大気中の放射性炭素濃度には、数千年にわたる長周期変動と百年
前後の短周期変動がみられることも分かっています。これらは、太陽活動と地球磁場の変動により大気
圏に突入する宇宙線量の強度変化によるものと考えられています。


ここで、関連して、2)についても触れておく必要があるようです。ここで述べられている年輪年代測
定法は、次のようなものです。放射性炭素法は、どうしても数10−数100年の誤差は避けられませんが、
これに対し、年輪年代測定法ならどの年輪が紀元後、あるいは紀元前何年と特定できるという特徴があ
ります。原理は、年輪の幅が気温・降水・日照時間などの気象条件によって変動するのを利用するわけ
です。年代ごとに指紋のように異なるその変動の特徴を波形で表し、年代が確かな現在の切り株の年輪
と波形の合致するより古い年輪の木材を見つけ、順に波形をつないでいくと、年輪の年代がつかめると
いうものです。

もちろん、「目ざめよ!」誌が指摘するように、すべての測定が完璧に行なえるということは少ないかも
しれませんが、この方法は主に、放射性炭素年代測定法を補正するために採用するものであり、おおよ
その見当はすでに放射性炭素年代測定法で判明しているものについて、補助的に行なうものであること
を考えるならば、信頼性に乏しいと断定するのは、いかがなものでしょうか。私としては、「目ざめよ!」
誌が、放射性炭素年代測定法の権威を低めたいために、無理な議論をしているように思えてなりません。

実際、放射性炭素年代測定法による測定年代と、それに年輪年代測定法を加味して補正したデータ例を
以下に示します。[出所:放射性炭素年代測定の原理と暦年代への換算(群馬大学地学研究室)]

  C-14測定値  年輪補正値

    1000      900 
    2000      2000 
    3000      3300 
    4000      4500   
       5000        5700 
       6000        6800 
       7000        7800 
       8000     8700〜8900 
       9000       10000 
      10000    11000〜11500  

こうしてみると、年代の数値は確かにぴったりと一致するものではなく、ある程度あいまいさが含まれ
たものになるのは仕方がないとしても、「目ざめよ!」誌が述べるように、桁が異なったり、まったく
信頼できないものであるという指摘は、あてはまらないようです。


ここまで述べた議論により、3)も大げさな表現を用いて、聖書年代計算法に対して、放射性炭素年代
測定法がいかにもまがいものであるかという印象を強めようとしただけのもので、根拠に乏しい見解と
断定せざるを得ません。


4)は結論の部分ですが、「目ざめよ!」誌は、放射性炭素年代測定法が信頼性に乏しいという議論を
展開するならば、それがどの程度のものであるかを、定量的に読者に示す必要があると考えます。確か
に、考古学の分野における「測定」は、物理や化学などの分野における「測定」とは性格を異にするた
めに、ある程度のあいまいさが残ることは避けられないと考えられます。それを、大雑把ば議論で「確
実ではないから信頼できない」と断定するのは、誠実な論議と呼べるものではありません。


<結論>

放射性炭素年代測定法には、いろいろな弱点が確かにあります。ここでは、あえて指摘しなかった、そ
の他のさまざまな問題があります。例えば、試料の遺存環境、測定方式、14Cの半減期の問題(データ
の連続性を保持するために、実際の値と計算上の値が異なっている)等々。しかし、だからといって、
それを一刀両断に捨て去る根拠にはなりません。

科学的な証拠が聖書の内容が一致しないならば、それは、聖書が間違っているか、聖書の解釈が間違っ
ているか、科学が間違っているかのいずれかでしょう。しかし、科学という学問は、そもそも検証され
ることによって、正しいことが認められ、また、新たな知見によって修正されてゆく学問です。少なく
とも、現時点において到達し得た科学的な見地というものは、正直に評価すべきものだと思います。そ
れでも、それが絶対的な真実であると証明されたわけではないことは当然です。そうした科学と一致し
ない聖書の年代計算は、聖書が間違っているか、聖書の解釈が間違っているのです。

「ものみの塔協会」は聖書が間違っているとは考えられないこと、そして、自分たちの聖書の解釈にも
むやみに修正を加えたくないので、聖書の解釈と相容れない科学的事実を、不適切に低めようとしてい
るとしか思えません。聖書は、私も正しいものであると確信していますので、たぶん、「ものみの塔協
会」の聖書解釈が間違っているのでしょう。

「ものみの塔協会」が気にかけている事柄は、真実が明らかになることではなく、自分たちの説が正し
いと認められることなのです。その証拠に、自分たちの年代計算と一致しない「放射性元素に基づく年
代測定法」についてこきおろす一方、聖書の創世記に書かれた「創造の六日間」の各一日を文字通りの
24時間であるとする「特殊創造説」に対しては、協会は「聖書から論じる」の中で、次のように反論し
ています。 


  *** 論 292-3  創造 ***
  
  質問:すべての物質的創造は,過去6,000年から1万年ほど前に,六日間で行なわれたのですか?

  事実はそのような結論と一致していません。
  (1)北半球では,明るい夜にアンドロメダ星雲からの光を見ることができます。その光が地球に達
  するには約200万年かかり,宇宙が出来てから少なくとも数百万年たっていることを示しています。
  (2)地球の岩石における放射性崩壊の最終同位元素は,ある岩層が数十億年もの間かき乱されてい
  ないことを証ししています。

 
ですから、問題は、放射性元素による年代測定法の真偽ではないのです。自分たちの説をいかにして説
明するかという観点から、科学をいわば「おもちゃ」にしているに過ぎないことが、この説明から分か
るのです。



2000年5月6日

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「永遠に生きる」ことの意味

「永遠に生きる」。これこそ、人類の究極の夢である。単に命を長らえるだけではない、病気も死もな
い、文字通り、地上のパラダイスにおける「永遠の命」が得られるとしたら、果たしてそれを拒む人が
いるだろうか。聖書はそうした希望を人類に差し伸べていると、「ものみの塔協会」では説明している。

多くの人は、そうした希望を受け入れる段階においては、色々吟味することだろう。一体そんなことが
可能なのだろうか、どうしたら可能になるのだろうか、聖書が述べているといっても、聖書そのものは、
本当に信頼に値する書物なのだろうか等々、しかし、多くの人は、いったん、それ、つまり「人は永遠
に生きられる」という希望を受け入れてしまうと思考回路が麻痺してしまうようだ。その後は、ひたす
ら呪文のように唱えるばかりである。


今回は、この「永遠に生きる」ということの意味について、
 
  1)物理学的な側面
  2)生物学的な側面
  3)哲学的な側面

から、考察してみることにしたい。


1)物理学的な側面

「永遠に生きる」ということの意味を、もう一度考えてもらいたい。今のたかだか75年程度の命が
150年に伸びることではない。300年に伸びることでもない。1000年に伸びることでもない。
それは、1万年に限られるわけでもない。1億年、1兆年、1京年、・・・・・・・・・これらの数字
も「永遠」の前にはひれ伏してしまう。「永遠」ということは文字通り「永遠」なのだ。終りがないの
である。

ところで、私たちの身の回りの世界やさらに壮大な宇宙を取り上げても、そこには、真に「永遠」と呼
べるものは何一つ存在してしない。永遠の過去から永遠の未来に連綿と続いていると科学者によって考
えられていた時期があった宇宙も、150億円ほど昔にビッグバンと呼ばれる大爆発から生じたらしい
と、今では考えられている。そして、宇宙は、現在、すさまじい勢いで膨張を続けているようだ。これ
は、大昔のビッグバンの名残らしい。では、このまま宇宙は膨張を続けるのかというと、それは定かで
はないようだ。つまり、ビッグバンの名残で、膨張を続けている宇宙であるが、宇宙には膨張を止める
重力の作用も働いており、その重力の影響が十分大きい程度に、この宇宙に物質が存在すれば、つまり
十分な重力を発生する程度の十分な物質が存在していれば、やがて、その重力の影響で宇宙の膨張は止
まり、今度は反転して収縮に転じるというわけである。そうなれば、最初のビッグバンの状態に限りな
く近づいてゆくことになる。それは、金星の灼熱とは桁違いの灼熱状態への逆戻りである。当然、すべ
ての生物は死滅することになる。

もしかすると、この宇宙には、現在の膨張を止めるに足る十分な質量の物質が存在していないかもしれ
ない。少なくとも、光って見える星や銀河の質量だけでは、計算上足りないようだ。ただし、この宇宙
には光って見えないダークマターという物質の存在も想定されている。あるいは、ニュートリノという
電気的に中性なごくごく小さな微粒子が存在しており、この地球や私たちの体をも、毎日大量に貫通し
ているらしい。これは、これまでは質量がゼロであると考えられていたが、もし、この素粒子の一種に
質量が存在すれば、それだけでも、宇宙の膨張が止まるかどうかに決定的な影響力を及ぼす可能性があ
るらしい。こうして不確定要素がたくさんあるが、もし、こうした質量を考慮しても、膨張を止めるこ
とができないとなれば、この宇宙は、膨張を限りなく続けることになる。いずれにしても、この宇宙が
膨張からやがて収縮に転ずるか、膨張し続けるかは、かなり微妙なところにあるようであり、科学者の
間でもまだ結論は出ていないようだ。

こうした机上の計算ではなく、実際の観測によって、現在の宇宙の膨張速度の減速程度を測定し、その
将来予測を試みた科学者グループがいる。ところが、この結果は、まさに予想外の驚くべきものであっ
た。机上の計算では、膨張がやがてとまるかそのまま続くか微妙であるはずなのに、実際の観測では、
何とこの宇宙は膨張の速度を加速しているという観測結果が得られたらしい。まだ、初期段階の観測な
ので、最終的な結論は下されていないが、非常に興味深い観測結果である。

いずれにしても、もし、こうした観測結果通りにこの宇宙が膨張を続けたら、その将来像はどのような
ものになるのだろうか。収縮に転じた場合には、灼熱状態が待っているが、膨張を続ける宇宙の将来も
あまり気分のよいものではない。エントロピー増大の法則に従って、この宇宙は限りなく均一に冷えて
ゆき、やがて、すべての星も輝かなくなり、この宇宙は死の静寂状態を迎えることになる。


別に死んでしまうのは宇宙だけではない。私たちにとってなくてはならない太陽は、天然の核融合炉で
あり、水素原子核どうしが核融合反応によってヘリウムに変換されている。その際に放出される膨大な
エネルギーが太陽エネルギーの源である。当然、燃料となる水素は次第に消費されてゆくので、いつか
燃料切れになって輝かなくなる時を迎えることになる。科学者によるとわれわれの太陽の寿命は数十億
年という単位のようだ。石油資源のようにあと数十年で枯渇することが分かっている資源とは違い太陽
の寿命は桁違いに長いので、太陽の寿命について本気で心配する人は誰もいない。自分の生涯中には、
全く影響のないことだからである。しかし、「永遠に生きる」人にとっては、決して無視できない事柄
となる。いつか太陽が寿命をまっとうする時、赤色巨星となって地球を包み込もうとする時が訪れる時、
どうしたらようのだろう。その時、地球の命運も太陽の寿命と共に尽きることになる。地上の人類もそ
の影響を免れることはできない。

このように考えてみると、この大宇宙も、太陽も、地球も、決して永遠ではない。その宇宙の住人たる
人間が永遠性を保有するということは、通常なら無理なのである。コップが割れれば、その中の水は必
ずこぼれる。宇宙が永遠でないのに、人間だけが永遠に存在することは、物理的に不可能な相談なので
ある。


もちろん、宇宙を創造した全能の神の能力を、人間が獲得した微小な知識だけで判断することはできな
いのは当然である。宇宙の命運も、太陽の寿命の問題も、地球の運命も、科学者が予想したシナリオを
神は変えることができないと決め付けることはできない。しかし、この大宇宙のある一つの銀河のその
中の太陽系というちっぽけなグループの、その中の地球という惑星の住人のためだけに、そうした宇宙
の運命を変えることが神の意図するところなのだろうかと疑問が湧いてしまうのは私だけだろうか。

そこまで、地球の住人に関心を寄せながら、この広大な宇宙において、人類の生息範囲を地球だけに限
定し、そこに永遠に住まわせようというのは、どうしてなのだろうか、と思ってしまうのである。


私の結論はこうである。物理学的側面から検討すると、人類がこの宇宙において、しかも、太陽系第3
惑星の地球上という限定つきの「永遠の命」というものは、あまりにも荒唐無稽であり、物理学的には
納得できないものである。


2)生物学的な側面
  
今度は、生物学的な側面から考察してみたい。

この地球上で「永遠に生きる」ということは、一つの重要な事柄を放棄することを意味しているが、そ
のことの重要性について論じられたことはあまりなかったようだ。何を放棄するかというと、それは、
新しい命の誕生の放棄である。これは、永遠の命の獲得によって必然的に生じることとなる。少なくと
も、この地球に棲家を限定するならば、そうなることは容易に想像できる。たとえ、棲家を地球外に拡
大したとしても、当面の人口飽和は防げるかもしれないが、何しろ「永遠に生きる」のだから人口は増
える一方であることは確かで、理屈の上では必ず飽和してしまう。「永遠」の前には全てがひれ伏すの
である。

こうして、「永遠の命」を手に入れた人類は、新しい命の誕生を遅かれ早かれ放棄しなければならなく
なる。これは、本当に幸せなことなのだろうか、と私は考えてしまう。同じ顔ぶれのメンバーが永遠に
暮らす地球とは一体どんな様相になるのだろう。1000年ではない、1万年でもない、1億年でもな
い、1兆年でもない、1京年でもない、「永遠」なのである。


3)哲学的な側面

永遠に生きて何を行なうのだろうか。退屈はしないのだろうか? 「ものみの塔協会」の説明は簡明で
ある。例えば、地球上には無数の生物がおり、その一つ一つを調べても、時間はいくらあっても足りな
いぐらいである。十分な時間があることによって、意義深い仕事をいくらでも成し遂げることが可能と
なる、という具合である。これは、一見至極最もな議論に聞こえる。しかし、1000年や1万年ぐら
いの寿命なら何となく理解できるのであるが、なにしろ「永遠」となると、いささか事情が異なってく
る。100兆年たったら飽きてしまうかもしれない・・・とは考えないのだろうか。

もっとも、100兆年先のことなど今考える必要があるのかと問われれば、確かにどうでもよいことか
もしれない。人類が数十億年先の太陽の寿命のことなど気にかけないのと同様、私たちも、当面は、
1000年間程度、何を行なうか程度のことを考えていればよいのであり、その先のことは「神の御心
のままに」まかせていればよいのかもしれない。

実際、「永遠に生きる」能力を神からいただいた人類には、現在の人類とは全く異なる価値観が生まれ、
こうした心配は杞憂に終わるのかもしれないが。・・・


次に「時間」ということについて考えてみたい。「永遠」ということは時間が連綿と続くことだと普通
は理解されるが、少し視点を変えて、時間がなくなってしまうならば、「永遠性」を保有することにな
ると考えることもできるのではないだろうか。

もともと、時間とは空間も含めた物質宇宙と切り離して存在するものではないというのが、現代物理学
者が唱えるところである。文字通り、宇宙の始まり=ビッグバンと共に時間のストップウオッチのスイ
ッチが押されたと考えるのが妥当である。

従って、宇宙よりも先に存在していた神やみ使いたちは、もともと時間には制約されないので、「永遠
性」を保持しているのは当然である。「神に始まりもなく終りもないのは理解できない」という意見に
対する反論を「ものみの塔協会」では時折取り上げているが、もともと、時間には束縛されない存在で
ある神が「永遠性」を保持しており、始めも終りもないのは当然である。神はこの宇宙の外に存在して
いるのである。従って、神はこの宇宙の法則には束縛されない。それは、この宇宙の法則から決して逃
れられない人類にとって、神が「全能の持ち主」と映る一つの理由かもしれない。

例えば、2次元空間しか理解できない虫が今いたとしよう。その虫が二次元空間を移動していたところ、
いたずらな3次元生物がひょいとその虫をつかまえて取り上げたとしよう。それをみていた2次元虫の
仲間は、何事が行なったかを正確には理解できないであろう。まるで友達の虫が「神隠し」に遭ったと
して理解できないかもしれない。3次元生物にとってはたわいもないことが2次元生物にとっては、実
に不思議なことに映ってしまうのである。これと同様の事柄が、人間と神の間にも存在するのかもしれ
ない。

いずれにしても、人間が本当の意味で「永遠性」を保持するためには、神やみ使いと同等にならなけれ
ばならない。この宇宙、つまり時間からの制約を振りほどかなければならない。それが可能かどうかは
ともかく、そうでない限り、獲得した「永遠性」は、不十分なものとならざるを得ない。それは、本当
の意味での「永遠」ではなく、この宇宙の運命に依存した相対的な「永遠性」に過ぎない。最も、それ
でも現在の短い人生からみれば素晴らしいことには違いないのだが。

こうして、人類が真の意味で「永遠性」を獲得するには、文字通り、人類が「宇宙外生命」となること
が求められる。それは人類がみ使いのようになることを意味している。「ものみの塔協会」が説明して
いる14万4千人の油そそがれた者がこの体制での命を終えた後の姿は、この点でまさに理にかなって
いることになる。しかし、この地上で永遠に生きる「ほかの羊」については無理がある。


もっとも、聖書は、こうした遠い将来の事柄については、かなり限られた情報しか提供していないので、
こうした点もやがて明らかになり、徐々に理解の目が広げられてゆくのかしれない。それを待つのもそ
れほど難しいことではないが、「この地上で永遠に生きる」ということは、物理学的にも、生物学的に
も、哲学的にもかなり無理があるというのが、現在の私の見方である。

2000年6月9日
「物事をありのままに考えるエホバの証人」より

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