「物事をありのままに考えるエホバの証人」より−2

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輸血は本当に聖書によって禁じられていますか―特に成分輸血のケースについて

輸血拒否の問題は、エホバの証人を特徴づけている教義の一つであり、エホバの 証人をカルト教団の一派とみなす根拠の一つともされています。従って、この問題 についての議論を避けてエホバの証人について語ることは難しいのではないかと 考えられます。今回は、この血の問題、特に輸血という医療処置とのかかわりの中 で生じる問題について考えてみたいと思います。 通常、エホバの証人の教えを詳細に知らない方が、エホバの証人の輸血拒否の 姿勢を知った時に示す反応は、「命を捨ててまで輸血拒否を貫く狂信的な集団」と いうものではないかと思います。さらに、詳細に調べてゆきますと、ものみの塔協 会の主張する「血に関する事柄」について、以下のような疑問に整理されると思い ます。    疑問1)聖書は本当に輸血することを禁じているのだろうか    疑問2)輸血はだめなのに、血液のうちある種の成分については受け入れら れるのは何故なのか    疑問3)臓器移植は受け入れられるが、輸血は受け入れないというのはどうし         てなのだろうか    疑問4)骨髄移植は個人の良心で決定できる事柄なのに、一方で輸血は決し て受け入れられないのはどうしてだろうか    疑問5)血液透析、人工心肺、血液希釈、術中血液回収あるいは術後血液         回収等については、個人の良心の判断に任されているが、これは         どうしてなのか といった点が挙げられると思います。 こうした点について、このウエブサイトで公開されている、血液拒否に対してものみ の塔協会指導部の方針に異議を唱えている、複数のエホバの証人の長老たちで 構成される人たち(「血液拒否改革エホバの証人連合」、以下AJWRBと略称)に よる血の問題に対する考え方は、参考になると思います。この点については、主 に、以下の2つの論文にまとめられています。    論文(1) 「エホバの証人の血の教えの歴史的発展とその現状」    論文(2) 「エホバの証人の血の教えの歴史的根拠とその考察」 論文(1)はエホバの証人の血の教えが形成されてきた歴史的過程をたどったもの であり、医学全般に対するものみの塔協会の考え方の変遷、一例として予防接種 に対して、どのような態度をとってきたか、そうした中で、血を避けるという教えが どのように形成され発展してきたか、さらに、最近の医療技術の進歩によって臓器 移植、骨髄移植などの問題が生じてきているが、そうした点に対するものみの塔 協会の対応と血の教えとの関係などについて詳細に考察しています。 一方、論文(2)は、エホバの証人の血の教えの聖書的な根拠を    1)ノアの時代    2)モーセの時代    3)使徒たちの時代 に分けて聖書が言及している個所を詳細に考察していたものとなっています。 このウエブサイトには、エホバの証人に反対する人たちの意見に対して多くの反 論が寄せられているようですが、実際、この血の問題に対する内部告発的な提言 に対して、真正面から論駁しようという意見はほとんど見当たりません。 他のウエブサイト(http://www.geocities.co.jp)で、匿名氏が多少の反論を行なっ ていますが、非常に詳細にわたる分析を行なっている上記論文に対して、枝葉 末節の2つの項目について、コメントしているに過ぎません。それは以下の通り です。    1)ノアの契約について:契約ではなくおきてであること、その点の不備は      1973年8月15日号の「ものみの塔」誌で訂正済みであること。    2)「使徒15:13−18に関連して、『血に関する命令を含む書き物に言      及しました』という記述があるが、聖書に書かれていない「書き物」を      持ち出している」という意見に対して反論を試みています。 こうした反論の内容の是非はここでは問わないことにしますが、少なくともここで 触れられている2点は、いずれも上記論文の中では、重要性の高くない、どちらか というと枝葉末節の事柄であり、肝心の「血を避ける」ということの是非という肝心 な事柄については、全く触れられておらず素通りしています。 他のウエブサイトも、私が調べた限りでは、この論文に対する真正面からの反論 は見当たりませんでした。ただし、これはエホバの証人に対する反対を目的とし てウエブサイトではありませんが、「踊る麻酔科最前線」という名称のウエブサイト (http://www.ceres.dti.ne.jp)で、麻酔医療に携わる現役の医師の方が意見を述 べており、色々な話題の中の一つの項目として「エホバの証人」問題が取り上げ られており、その中で、輸血の問題が論じられていました。明らかに上記論文に 影響を受けたと思われる記述がみられ、実際に、エホバの証人の輸血拒否が 聖書的な根拠を持たないものあると結論づけています。 AJWRBの結成は1996年と述べられています。これらの長老による上記2つの 論文が、いつ頃からウエブ上で公開されたのか私は知りませんが、上記のように、 その影響はある程度浸透しているように思えます。ですから、ものみの塔協会が 本当に輸血が聖書に基づいているものであると考えるなら、これに対して何らかの 反論を行なうことが必要であると考えます。放置しておくことは、前述のような匿名 氏のような中途半端な「反論」がインターネット上に流れることになり、かえって、 エホバの証人の反論能力が疑われる結果になるのではないでしょうか。また、私 たち末端のエホバの証人が混乱するだけにとどまらず、医療現場に携わる医師 の方々にも混乱が生じる可能性が大きいからです。 なお、私自身の考えはどうかと問われれば、血を避けるという聖書の教えについ て、正直な比較をした場合、聖書的に輸血が認められるか認められないかどうか という問題は、大変微妙な問題であり、相当厳密な論議をする必要があると感じ ています。ものみの塔協会が輸血をしないという決定をした理由も、ある程度 理解できますし、AJWRBの言い分も、大変道理にかなったものであると考えら れます。つまり、最初に挙げた疑問1)については、もう少し考える必要があると みています。しかし、疑問2)から疑問5)については、ものみの塔協会の主張に はかなり無理があり、その言い分は、かなり苦しいのではないかと考えています。 詳細は、AJWRBの論文に詳述されていますから、私としては、ここで、一つの 点だけを取り上げてみたいと思います。 「ものみの塔」1990年6月1日号の「読者からの質問」欄で「エホバの証人は免 疫グロブリンやアルブミンなど血液分画の注射を受けますか」という質問が取りあ げられていました。これに対するものみの塔協会の答えは論理性に乏しく、結果 的に輸血拒否といっても、成分によって受け入れることのできる場合と、できない 場合があることについては、説得力のある説明がなされていません。以下、この 点について、調べてみたいと思います。 以下に、「ものみの塔」誌に掲載された質門と、それに対するものみの塔協会の 回答の全文を示しながら、各部について論じてゆきたいと思います。 質問:エホバの証人は免疫グロブリンやアルブミンなど血液分画の注射を受け     ますか    答え:受ける人もいます。それらの人は,聖書は血液から抽出された微小な分画    もしくは成分の注射を受けることを明確には禁じていない,と考えています。 もともと聖書が書かれた時代には、輸血という医療処理が存在しないわけですし、 血液成分に関する知識も当然のことながらほとんどないわけですから、「血液から 抽出された微小な分画もしくは成分」に関する禁止事項などあろうはずがありませ ん。そうした理由で微小分画を受け入れることができるなら、ものみの塔協会が 明確に禁じている赤血球も、白血球も、血小板も受け入れることができることにな ります。何故なら、そうした成分を受け入れてはならないという聖書の記述はない からです。「そうした成分は微小分画ではない」というのは、今度は、何をもって微 小分画と定義するのかという別の問題に発展してゆきます。まして「微小分画なら 血を受け入れてもよい」という記述が聖書のどこに書かれているというのでしょう か。    創造者は,血を取り入れないようにする義務を初めから全人類に課し,「生き    ている動く生き物はすべてあなた方のための食物としてよい。……ただし,    その魂つまりその血を伴う肉を食べてはならない」と言われました。(創世記    9:3,4)血は神聖なので,犠牲としてでなければ用いることはできませんでし    た。そのような仕方で用いるのでない場合は,地面に注いで処分されるべき    でした。―レビ記 17:13,14。申命記12:15,16。 「創造者は血を取り入れないようにする義務を初めから全人類に課し」という部分 は、一見聖書から取られた記述のようで、実際には、聖書に書かれている事柄を 超えています。聖書には、上にも書かれているように「血を伴う肉を食べてはなら ない」と書かれているだけで、「血を取り入れる」という表現はものみの塔協会が 独自に考案したものです。    これはユダヤ人に対する単なる一時的な制限ではありませんでした。血を    避けていなければならないことはクリスチャンに対して再び述べられました。    (使徒21:25)ローマ帝国内の彼らの周囲では,一般に神の律法は無視されて    いました。人々は,血を混ぜて作った食物を食べていたのです。神の律法    が“医療上の”理由で無視されることもありました。テルトゥリアヌスが伝え    るところによれば,一部の人々はてんかんが治ると考えて血を取り入れまし    た。『彼らは闘技場で殺された罪人の血をむさぼり飲んだ』のです。テルトゥ    リアヌスはさらに,「クリスチャンの前であなた方の非道なやり方を恥じよ。    クリスチャンは食事のさい動物の血を食べることさえしない」と述べました。    今日のエホバの証人も同じように,血を混ぜて作った食物を食べることが    どれほど一般化していようとも,神の律法を犯さない決意をしています。    1940年代になって輸血が広く行なわれるようになりましたが,証人たちは,    神に従うには,たとえ医師から強く勧められても輸血を避ける必要がある,    と判断しました。    当初ほとんどの輸血は全血輸血でした。後に,研究者たちは血液を幾つか    の主要成分に分離するようになりました。というのは,医師たちの下した結論    によると,ある患者にとっては血液の主要な部分すべてが必要なわけではな    いからです。患者に与えるのが一つの成分だけであれば,患者にとって危険    は少なくなり,医師は入手できる血液をもっと有効に使えるというわけです。    人間の血液は,暗色調の細胞成分と黄色調の液体(血漿,もしくは血清)に分    離できます。細胞の部分(全量の45%)は一般に赤血球,白血球,および血小    板と呼ばれるものから成っており,残りの55%は血漿です。血漿の90%は水    で,そのほかに少量ながら多くの種類のたんぱく質,ホルモン,塩類,酵素など    が含まれています。今日,献血された血液の多くは,それらの主要成分に分離    されます。ショック状態の治療のため,患者の血管に血漿(恐らく,FFPと略さ    れる新鮮凍結血漿)を注入することがあります。しかし,貧血症の患者には,    濃厚赤血球を投与するかもしれません。つまり,貯蔵しておいた赤血球を液    体の中に入れて注入するのです。血小板や白血球も注入されますが,赤血    球の投与ほど頻繁には行なわれません。    聖書時代には,そのような血液成分を使う技術は知られていませんでした。    神は,『血を避けていなさい』とお命じになっただけです。(使徒 15:28,29)    しかし,血液が全血かそれらの成分に分離されているかによって違いが生じ    る,と考えてよい理由があるでしょうか。ある人々は血を飲みましたが,クリス    チャンは,たとえ死ぬことになろうとも血を飲むことを拒みました。だれかが,    血を集め,それを分離させ,それからその血漿だけ,あるいは凝固した部分だ    けをソーセージに混ぜるなどして差し出したなら,それらのクリスチャンは    違った反応を示しただろうとあなたは思いますか。そのようなことは全く考え    られません。そのようなわけで,エホバの証人は,全血輸血や,同様の目的を    達成するために用いられる,血液の主要成分(赤血球,白血球,血小板,あるい    は血漿)の注入を受け入れません。 ここで、前述の「微小分画」と対照させて「主要成分」という言い方が出てきます。 つまり、血液の中でも、赤血球、白血球、血小板、血漿は主要成分であるという 主張ですが、私は医学の専門家ではありませんので、そうした主張が正しいのか どうか分かりませんが、血液が前述のように、細胞成分と血漿に分けられ、細胞 成分が、赤血球、白血球、血小板から成り、血漿が水やタンパク質、ホルモン、 その他の成分から成り立つのであれば、ここで述べている主要成分=赤血球、 白血球、血小板、血漿というのは、すなわち血液すべてを指すことになるのでは ないでしょうか。一方で、血漿は主要成分といいながら、血漿の一部をなす免疫 グロブリンやアルブミンは微小分画であるという言い方は、矛盾しているのでは ないでしょうか。何を根拠にそのような主張をしているのでしょうか分かりません。 先をみてみましょう。    しかし,冒頭の質問に示唆されているように,科学者たちは特殊化させた血液    分画やその使用法について学んできました。よく持ち上がる問題は,グロブリ    ン,アルブミン,およびフィブリノーゲンといった血漿たんぱくに関連した問題    です。恐らく,その種のものの内で治療上最も広く用いられているのは,免疫    グロブリンの注射でしょう。その注射が行なわれるのはなぜでしょうか。人の    体は,特定の病気に対して抗体を作り出し,能動免疫を獲得します。小児麻痺,    おたふく風邪,風疹,ジフテリア-破傷風-百日咳,腸チフスなどに対し,事前の    ワクチン(変性毒素)接種を行なうのは,人体にそうした機能があるからで    す。しかし医師は,重い病気にかかって間もない人に,即時受動免疫を得させ    る血清(抗毒素)の注射を勧めるかもしれません。最近までそのような注射    薬は,すでに免疫になっている人から,抗体を含んでいる免疫グロブリンを抽    出することによって作られてきました。 その注射によって得られた受動免疫    は恒久的なものではありません。注入された抗体はやがて消失してしまうか    らです。 免疫グロブリンの役割については、よく分かりましたが、ここで筆者は何を言いた いのでしょうか。免疫グロブリンの役割が重要であることを言いたいのでしょうか。 あるいは、その効果が一時的なものであることを強調したいのでしょうか。つまり、 「注入された抗体はやがて消失してしまう」という点を強調したいのでしょうか。 先をみてみましょう。    中には,免疫グロブリン(免疫たんぱく)は血液分画にすぎないとしても,『血    を避けていなさい』と命じられているのだから,その注射を受けるべきではな    いと考えてきたクリスチャンもいます。それらのクリスチャンの立場は単純    明快です。血液成分はどんな形態のものであれどれほどの量であれ,一切    受けつけないのです。他方,献血者の血漿のごく微小な分画しか含まず,病気    に対する防御機能を高めるために用いられる,免疫グロブリンのような血清    (抗毒素)は,命を支える輸血と同じではない,と考えてきた人もいます。それ    で,そのような人たちの良心は,免疫グロブリンやそれに類似した血液分画を    取り入れることを禁じないかもしれません。彼らは,自分たちの決定はおもに,    他人の血液から生成された注射薬に関連する何らかの健康上の危険を受    け入れる気持ちがあるかどうかにかかっている,と結論するかもしれません。 ここで、こうした成分の如何にかかわらず、血のどんな成分も受け入れないという 考え方は、それが正しいか正しくないかは別として、考え方としては大変明快です。 ところが、「他方,献血者の血漿のごく微小な分画しか含まず,病気に対する防御 機能を高めるために用いられる,免疫グロブリンのような血清(抗毒素)は,命を 支える輸血と同じではない、と考えてきた人もいます。」と微妙な言い方をしてい ます。まず、「と考えてきた人もいます」という言い方をすることによって、これ が、ものみの塔協会の正式な考えではなく、個人的な見解であることを匂わせて います。これによっては、この件は、あくまでも、個人の良心の決定ということにな るのですが、実際上、ものみの塔協会が、「ものみの塔」誌上で、こうした見解を 明らかにすることによって、免疫グロブリンやアルブミンは信者の間では「解禁」 されることになるのです。ですから、これは、ものみの塔協会の巧妙な逃れ道探し ととられてもしかたないでしょう。それほどものみの塔協会の見解は、信者には 影響が大きいのです。「個人で決定してください」といっても、医学知識の乏しい 一般信者が輸血の問題に直面した時に、医者が「アルブミンはどうしますか?」 と問われたとするなら、何を根拠にして、それを受け入れるかどうかを判断する というのでしょうか。従って、協会の出版物が「良心で決めてよろしい」というの は、 事実上、「受け入れて構わない」ということを意味しているのです。 ところで、血液の「微小分画」成分を受け入れる人が理由として挙げられている のは次の2点です。    1)それが血漿の微小分画であること    2)病気に対する防御機能を高めるために用いられので、「命を支える      輸血」と同じではない という論理です。このうち理由1)は、先ほど矛盾することを述べました。理由2) は、まったく理解することができない点です。「命を支える輸血」は受け入れられ ないが、「病気に対する防御機能を高めるために用いられる」成分輸血は受け 入れられるという論理はまったく理解できない点です。もともと「命を支える輸血」 という概念がものみの塔協会によって創造された概念であることは、AJWRBの 論文に詳しく述べられていますが、いずれにしても、「命を支える輸血」と「病気に 対する防御機能を高める」成分輸血とは、どのように異なっているのか、それを 一方は受け入れず、一方は受け入れるという判断は、いかなる根拠によるもの なのか、まったく理解することができません。 さらに、不可解なのは、次の、「彼らは,自分たちの決定はおもに,他人の血液から 生成された注射薬に関連する何らかの健康上の危険を受け入れる気持ちがある かどうかにかかっている,と結論するかもしれません。」と述べられている点です。 輸血を受け入れるかどうかは、おもに、健康の問題ではなく、宗教上の信念の問 題であるということは、これまで、再三にわたって、ものみの塔協会が主張している 点です。それが、ここでは、「自分たちの決定はおもに、・・・・・・・・・健康上 の危険 を受け入れる気持ちがあるかどうかにかかっている」というのです。これは、従来の ものみの塔協会の見解と明らかに矛盾する内容になっています。    妊婦の循環系と胎児の循環系とが別々になっているのは重要なことです。    母と子の血液型は違う場合が多いからです。母親の血液は胎児の中へ流    れ込みません。母親の血液の有形成分(細胞)も血漿自体も,胎盤という障    壁を越えて胎児の血液の中へ入ることはありません。事実,もし何らかの損    傷によって母親の血液と胎児の血液が混ざると,後に健康上の問題(Rh因    子もしくはABO不適合)が生じかねません。しかし,血漿中のある種の物質は    胎児の循環系に入ります。免疫グロブリンやアルブミンなどの血漿たんぱく    は入るのでしょうか。確かに,入るものもあります。    妊婦には活発な機構があり,それによって母親の血液から幾らかの免疫グロ    ブリンが胎児の血液へ移動します。種々の抗体が胎児の中へ入るこの自然    な作用は妊娠期間中常に生じているので,新生児は特定の感染症を防ぐある    程度の免疫性をもって生まれます。    アルブミンについても同様です。医師は,ショック状態や他の特定の状態の治    療法としてアルブミンを処方することがあります。 研究者たちは,血漿中のア    ルブミンも,効率は低いものの,母親から胎盤を通過して胎児に伝わることを    証明しました。血漿中の幾らかのたんぱく分画が別の人(胎児)の血液系の    中へ現に自然に移動するということは,クリスチャンが免疫グロブリン,アルブ    ミンあるいは同様の血漿分画の注入を受け入れるかどうかを決める際に考    慮できる,いま一つの要素となるかもしれません。正しい良心を抱いてそれが    できると考える人もいれば,できないと結論する人もいるでしょう。これは各    自が神のみ前で個人的に決定しなければならない問題です。 では、ものみの塔協会にお聞きしたいと思います。今後、医学的な解明が進んで、 赤血球や白血球なども胎盤を通過することが判明したならば、こうした成分を輸血 することも許されるのでしょうか?  以上みてきたように、血液のある種の成分を受け入れて、ある種の成分は受け入 れないという考え方は大変苦しい立場に立たされています。恐らく、医学に携わる 方々はそうした矛盾を感じ取っているはずです。しかし、現実問題として、アルブミ ンなどを受け入れてくれることは、治療上好ましいので、歓迎しているのではない かと想像しています。 聖書が輸血処置を禁じているかどうかは別として、血を避ける決意が固く、一切の 輸血処置を受け入れないというのは、それはそれで筋が通ったことだと思います。 しかし、医学が進歩し、透析やら、人工心肺やら、アルブミンやら、いろいろな事柄 が理解できるようになり、いろいろな処置が行なえるようになると、医学的な選択 肢も広がってきています。それだけ、エホバの証人が医学的に複雑な場面に対処 しなければならなくなっているという現実があります。「輸血拒否」という信条が、 それをフォローするだけの聖書的な根拠がない事柄であるならば、ここは、すべて 良心の判断で任せるということが、もっとも穏当なやり方であると、私自身は思うの ですが、いかがなものでしょうか。 2000年2月17日 目次に戻る

神権的ニュース! 「エホバの証人の当地体は血の教えに関する新しい光を掲げる」

時は西暦20××年、様々なカルト宗教が出没した21世紀のはじめの10年が 過ぎ去ろうとしている今、やはりカルトという汚名をそそぐために奮闘してきた ものみの塔聖書冊子協会も、ついに「輸血拒否」の看板を下ろすことになりまし た。次に紹介するのは「ものみの塔」誌に掲載された読者からの質問を引用した ものです。 「ものみの塔」20××年△△月○○日号:読者からの質問 質問: 『血を避けるように』というクリスチャンに与えられた命令は、現代の医学     で採用されている輸血のような処置にも適用されますか? 答え: 結論から述べるなら、聖書は、輸血という医療処置を明確には禁じてはい     ませんし、同様な趣旨についても述べられていません。したがって、個々の     クリスチャンが自分の体に対して、どのような医療処理を望むかは、クリス     チャン一人一人が各々決定すべき事柄であり、その中の選択肢の一つとし     て、ある場合には、輸血という方法を選択することも十分あり得ることで     す。     これまで協会は、長年にわたって、輸血処置については慎重な見方をして     きました。つまり、命を支えるために行なう輸血は、聖書で禁じられている     「血を取り入れる」行為に相当するとみなしてきました。それゆえに、クリ     スチャンはたとえ命を救うためには輸血をすることが必要であると唱えら     れる場合でも、輸血を行なうことができないと判断してきました。それは、     『血を避けるように』というクリスチャンに与えられた命令に忠実でありた     いという願いが、その根底にあったからでした。       しかし、聖書に書かれている事柄を詳細に調べ、特に、そこに書かれている     事柄の背後にあるエホバ神のお考えについて洞察することによって、より     正しい結論に導かれることが明らかになりました。     聖書の中で、血について書かれている個所は、おもに次の3箇所です。                1)創世記9:3−7                (創世記 9:3-7) 生きている動く生き物はすべてあなた方のための        食物としてよい。緑の草木の場合のように,わたしはそれを皆あなた        方に確かに与える。4 ただし,その魂つまりその血を伴う肉を食べて        はならない。5 さらにわたしは,あなた方の魂の血の返済を求める。        すべての生き物の手からわたしはその返済を求める。人の手から,        その兄弟である各人の手から,わたしは人の魂の返済を求める。        6 だれでも人の血を流す者は,人によって自分の血を流される。神は        自分の像に人を造ったからである。7 そしてあなた方は,子を生んで        多くなり,地に群がってそこに多くなれ」。     これは、人類共通の祖先であるノアに対して語られた言葉であり、ゆえに     人類全体に対して語られた事柄であると解釈することができます。そこに     述べられている事柄を要約すると、以下のようになるでしょう。        @動物を食用としてよい。しかし、血を伴う肉を食べてはならない        A殺人をしてはならない       上記の点について、詳しい解説は必要ないでしょう。書かれた通りに理解     することができます。すなわち、動物を食用としてよいが、その際に、血を     伴って食べてはならないということです。ここでは、殺人は、命の象徴であ     る血を流すことと関連付けられています。このようにして、神にとって、血     によって象徴されている命が、非常に貴重なものであることが、人類に示さ     れることになりました。        2)レビ記17:10−16        (レビ記 17:10-16) 「『だれでもイスラエルの家の者あるいはあな        た方の中に外国人として住んでいる外人居留者で,いかなるもので        あれ血を食べる者がいれば,わたしは必ず自分の顔を,血を食べて        いるその魂に敵して向け,その者を民の中からまさに断つであろう。        11 肉の魂は血にあるからであり,わたしは,あなた方が自分の魂のた        めに贖罪を行なうようにとそれを祭壇の上に置いたのである。血が,        [その内にある]魂によって贖罪を行なうからである。12 それゆえに        わたしはイスラエルの子らにこう言った。「あなた方のうちのいずれ        の魂も血を食べてはならない。あなた方の中に外国人として住んで        いる外人居留者も血を食べてはいけない」。 13 「『だれでもイスラ        エルの子らに属する者あるいはあなた方の中に外国人として住ん        でいる外人居留者で,食べてよい野獣または鳥を狩猟で捕らえた者        がいれば,その者はその血を注ぎ出して塵で覆わねばならない。        14 あらゆる肉なるものの魂はその血であり,魂がその内にあるから        である。そのためわたしはイスラエルの子らにこう言った。「あなた        方はいかなる肉なるものの血も食べてはならない。あらゆる肉なる        ものの魂はその血だからである。すべてそれを食べる者は断たれ        る」。15 [すでに]死体となっていたものあるいは野獣に引き裂かれ        たものを食べる魂がいれば,その地で生まれた者であれ外人居留者        であれ,その者は自分の衣を洗い,水を浴びなければならない。その        者は夕方までは汚れた者とされる。そののち清くなるのである。        16しかし,それを洗わず,その身に水を浴びないのであれば,その者は        自分のとがに対して責めを負わねばならない』」。     これはモーセの律法の下で、エホバが血すなわち命をどのようにご覧にな     っておられたかを、知る手がかりとなる聖句となっています。その内容を要     約すると、以下のようになるでしょう。        @イスラエル人は、外人居留者も含めて、血を伴う肉を食べてはなら         ない        A食べてよい野獣や鳥を捕獲した場合には、血抜きをしなければなら         ず、すでに死体となっていたものや野獣に引き裂かれたものを食べ         てはならない        Bその理由は、血は命を象徴しており贖罪に用いるものだからである        Cこの命令を犯した者は、水を浴びて清くならなければならない。そ         うしないなら、その魂は断たれることになる     ここで述べられている事柄も、血を伴う肉を食べること、すなわち贖罪とし     てしか用いることを許されなかった血を食べることが間違っていることが     強調されています。                  3)使徒15:22−29        (使徒 15:22-29) そこで,使徒や年長者たち,また全会衆は,自分た        ちの中から選んだ人々を,パウロおよびバルナバと共にアンティオ        キアに遣わすことがよいと考えた。すなわち,バルサバと呼ばれる        ユダとシラスで,兄弟たちの中で指導的な人たちであった。23 そして        彼らの手によってこう書き送った。「使徒や年長者の兄弟たちから,        アンティオキア,またシリア,キリキアにいる,諸国民からの兄弟たち        へ: あいさつを送ります。24 わたしたちの中から行ったある人たち        が,わたしたちが何の指示も与えなかったにもかかわらず,いろいろ        なことを言ってあなた方を煩わせ,あなた方の魂をかく乱しようとし        ていることを聞きましたので,25 わたしたちは全員一致のもとに,人        を選んで,わたしたちの愛するバルナバおよびパウロ,26 わたしたち        の主イエス・キリストの名のために自分の魂を引き渡した人たちと共        に,あなた方のもとに遣わすことがよいと考えました。27 このような        わけで,わたしたちはユダとシラスを派遣しますが,それはまた彼らが        同じことを言葉で伝えるためでもあります。28というのは,聖霊とわ        たしたちとは,次の必要な事柄のほかは,あなた方にそのうえ何の重        荷も加えないことがよいと考えたからです。29すなわち,偶像に犠牲        としてささげられた物と血と絞め殺されたものと淫行を避けているこ        とです。これらのものから注意深く身を守っていれば,あなた方は栄        えるでしょう。健やかにお過ごしください。         これは、使徒たちの時代の出来事です。当時、ユダヤ人のクリスチャンたち     の間には、かつてモーセの律法の下で守ることを要求された割礼を、異邦人     のクリスチャンにも守らせるべきであるという考え方をする人たちがいたよ     うです。それで、その際に、エルサレムにいた使徒たちや年長者たちが協議     して出した結論、それが上記の聖句の内容となっています。その内容を要約     しますと、以下のようになります。        @クリスチャンには割礼は必要ではなく、ただ            イ)偶像に犠牲としてささげられた物            ロ)血            ハ)絞め殺されたもの            ニ)淫行         を避けていることが求められている     というものでした。ここで述べられている事柄の要点は、文脈を考慮するな     らば、クリスチャンが陥る可能性のあった食べ物に関する教えを強調する     ことではなく、ユダヤ人も異邦人も共に守ることが容易であった事柄を示す     ことによって、お互いが反目せずに歩める妥協点を示すことにありました。     28節で「というのは,聖霊とわたしたちとは,次の必要な事柄のほかは,あな     た方にそのうえ何の重荷も加えないことがよいと考えたからです。」という     くだりがそのことを物語っています。実際、これらの内容は、古来から、イ     スラエル人もそして外人居留者たちも守ってきた共通の事柄だったからで     す(レビ記17,18章)。     また、ここでイ)、ロ)、ハ)は実質的に同じ内容の事柄を述べています。     つまり、偶像に犠牲としてささげられたものは、異教徒が扱ったものでした     から、適切な血抜きがされていない可能性が十分にありましたし、絞め殺     されたものは間違いなく血抜きがされていなかったでしょう。そして、さら     に念を押すように文字通りの「血」が挙げられています。これらは、血を伴     う肉を食べる時に、物理的に血を1滴も食べてはならないということを意図     しているものではなく、これまで考慮してきたように、本来、神のものであ     り、神聖なものである命に対する敬意を示す意味で、血を伴った肉を食べ     ないようにという神の律法に対する認識を示すことの重要性を強調する意     図が示されているに過ぎないことは明らかです。       実際、どんな肉にせよ、血抜きをしても、完璧に血を取り除くことが不可能     であることは言うまでもありません。ですから、ここで重要な事、つまり事     柄の本質は、物理的に血を取り入れるかどうかではなく、血という命の象     徴を通して、その本質である命そのもの、および命の与え主としての神の     お考えを尊重していることを、実際の態度によって明らかに示すことにあ     ったのです。        では、今日、医療処置として行なわれている輸血処置は、この点で、どのよ     うにみなすことができるでしょうか。現代医学では、輸血は、おもに出血や     病気によって失われた血液成分あるいは全血液を補充するという目的で     行われます。これは血液という臓器を移植する行為にほかなりません。     私たちは、血を避けるようにという神の命令の背後にある事柄を詳しく調べ     ることができました。それは、本質的に命を貴重なものとみなす神のお考え     に同意していることをまさに示す事柄でした。今日、医療処置として行なわ     れている輸血は、まさに命を救う目的で行なっている事柄であり、それゆ     え、輸血そのものが神の律法を冒すことになるとみなすことはできないでし     ょう。      もちろん、長年にわたってエホバの証人は輸血を断固として拒否してきまし     たので、エホバの証人の中には、こうした説明を聞いた後でも、引き続き     輸血をしたくないと感じる人も大勢おられることでしょう。それで、一つの     医療処置として輸血を受け入れるかどうかは、他の病気治療の選択と同     様、各人が個人的に決定すべき事柄であると言えます。それで、クリスチ     ャンは各自自分の良心で、どの医療処置を受け入れて、何を受け入れな     いかを決める権利があることは言うまでもないことでしょう。その際、他の     人は、ある人がどのような医療処置を望むかに関して、安易に批判したり     すべきではないでしょう。 と、ここまで読んだところで、目が覚めました。「なあんだ、夢か!」 2000年2月19日 目次に戻る

公正な神エホバの組織は本当に公正を反映しているでしょうか?

このウエブサイトにはEnglish Versionがあることを最近まで知りませんでした。試し にのぞいてみるとAJWRB(Associated Jehovah's Witnesses for Reform on   Blood)によるNew Light on Bloodというサイトがあり、そこで、Rado Vleugel、Wayne  Rogers、Ray Hemmingという、それぞれオランダ、米国、英国の3人のエホバの証人が、 血の問題で「ものみの塔協会」と異なる立場を取ったために審理問題として取り上げられ、 排斥処置に至った経過が記されていました。(詳細については、どうぞご自分でお読みにな ってみてください)。 この3人の経験を読んで、私は涙が止まりませんでした。3人が気の毒であるということ 以上に、彼らに排斥処置という冷酷な仕打ちをすることしかできない「ものみの塔協会」 という組織のありよう(直接、排斥処置を下した審理委員会のメンバーの判断ということ ではなく、組織の仕組みとして、そうせざるを得ないという点)に、悲しみと怒りが混在 したような複雑な感情がこみ上げてくるのを抑えることができませんでした。 そこで、今回は「人を裁く」ことについて考えてみたいと思います。「裁く」といっても、 私的な事柄ではなく、エホバの証人の組織的な取決の一環として、つまり審理問題として 長老が他の人を裁くことについて考察してみたいと思います。 裁くということは司法制度として扱うことを意味します。司法とはどういう意味なのか辞 書で調べてみますと、 国家が既定の法律を特定の事柄に適用し、その適法性、違法性または権利関係を審判    する行為 となっていました。ここで取り上げるのは、もちろん国家ではなく、クリスチャン会衆とい う社会単位における司法制度ということになります。そして、この場合、既定の法律という のは聖書ということになります。 実際、裁きの根拠となるのは、どんな事柄なのでしょうか? エホバの証人が発行してい る「聖書に対する洞察」の「追放、追い出す」の項目の中には、次のような記述がありま す。    クリスチャン会衆からの排斥を招くことになるとがには,淫行,姦淫,同性愛,貪欲,    ゆすり取ること,盗み,偽ること,酩酊,ののしること,心霊術,殺人,偶像礼拝,背教,    会衆に分裂を生じさせることなどがあります。(コリ一 5:9-13; 6:9,10; テト    3:10,11; 啓 21:8) そして、エホバの律法を犯した人は、エホバの証人の裁判である「審理委員会」にかけら れることになります。そこで有罪となり、悔い改めが不十分と判断されれば、エホバの証人 のクリスチャン会衆から追放、つまり排斥処置となります。この点について、同じく「聖 書に対する洞察」の「追放」の項目では、次のように記述されています。 非行者を共同体もしくは組織における成員としての立場および交わりから裁定によ    って放逐する,すなわち排斥すること。宗教社会にあっては,これはその社会の本質    的な原則ならびに権利であり,国家や地方自治体が行使する,死刑や追放,除籍とい    った権限に類似しています。神の会衆においてこの権限は,組織の教理的,また道徳    的な浄さを維持するために行使されました。この権限の行使は,組織の存続に必要で    す。クリスチャン会衆の場合は特にそう言えます。神に用いていただくため,また神    を代表するために,会衆は清い状態を保ち,神の恵みを保持しなければなりません。    そうしなければ,神が会衆全体を追放される,つまり切り断たれることになります。    ―啓 2:5; コリ一 5:5,6。 こうして、クリスチャン会衆において、「組織の教理的、また道徳的な浄さを維持するため」 に審理委員会が組織され、必要とあれば、悪行者をクリスチャン会衆から追放することに なるわけです。 ここで、問題提起をしたいと思います。どのような共同体においても司法制度というもの が必要であるとしても、その司法制度が正しく機能するためには一定の前提条件が必要と なるのは言うまでもないでしょう。例えば、   @ その司法制度は公正に運営されているかどうか A その司法制度に携わっている人々には十分にその資格があるかどうか こうした点が保障されないならば、司法制度に名を借りた魔女狩り的な裁判が行なわれな いとも限りません。今回は、こうした点について、エホバの証人の司法制度となっている 「審理委員会」の開かれ方、審理問題の扱い方等について、考察してみることにしたいと 思います。 1)エホバの証人の司法制度はどのようなものか エホバ神は数々の優れた特性をお持ちです。その中の一つに「公正」という特質がありま す(申命記32:4)。私たちは、そうした神の特質を可能な範囲で体現したいと願ってい ますし、とりわけ、そうした点でイエスの模範に見倣いたいと思っています(マタイ12: 20)。 さて、エホバの証人の社会で行なわれている「司法制度」には、果たしてそうした事柄が 反映されているでしょうか? こうしたことを考える上で、エホバの証人の司法制度であ る審理委員会がいかなるものであるかを、まず明らかにしておかなければなりません。 エホバの証人の審理委員会は幾つかの点で、世の中で通常行なわれている裁判制度とは大 きく異なっています。そして、この点について、実際に裁きを行なう長老以外のエホバの 証人の間でも、ほとんど知られていないのが実情です。実際に、悪行を犯さなければ、そ うした裁判に出るように求められることはないわけですから、ほとんどのエホバの証人た ちがそうした事情を周知していないことも不思議ではありません。それで、その概要につ いて、まず触れておく必要があるでしょう。 1−1)審理委員会が開かれる前提条件 審理委員会そのものが開かれる前提としては、以下の点が確認される必要があります。 @ 対象となっている罪が、クリスチャン会衆からの排斥を招くことになり兼ねないと がであること(既述の「聖書に対する洞察」の説明を参照) A 悪行の実質的な証拠があること Aについては、悪行者本人の告白か、2人以上の証人が必要とされています。 こうした点で、証拠もないのに、でっち上げの裁判が行なわれたり、いわれのないとがの ために裁判にかけられるという事態は、エホバの証人の社会ではほとんど起きていないよ うに思えます。、もちろん、私の立場は一会衆の長老ですから、支部単位、あるいは世界的 なレベルでは、そうした事態が皆無ではないかもしれませんが、たとえあったとしても、 そうした事態がきわめて稀なケースであることは確かでしょう。 1−2)審理委員会の構成 エホバの証人の裁判所は、悪行者から必要な聴聞を行ない、裁きを行なう審理委員会と呼 ばれる組織です。審理委員会には、裁判官兼検察官である3人以上の長老たちから構成さ れる審理委員と、被告人である悪行の被疑者が出席します。これは、完全な秘密裁判であ り、会衆の他の成員たちは、自分たちの会衆において、現在、そうした裁判が進行してい ることすら、当事者でない限りまったく知ることができません。ただし、被疑者が未成年 の場合には、通常、証人である親が同席することが普通です。そして、悪行の被疑者が自 分から罪を告白しない場合には、証人たちが呼ばれて証言することになります。悪行の被 疑者には、いろいろな質問が審理委員からなされ、それに対して被疑者が応答します。十 分審理が尽くされたと判断された後に、被疑者に「判決」が言い渡されます。もちろん、 1回の聴聞で十分審理が尽くされていないと判断されるなら、こうした会合を何回か持つ こともあります。いずれにしても、「判決」は有罪か無罪かのどちらかしかありません。 1−3)審理委員会で考慮される事柄 審理委員会で審理される事柄は、主に以下の点となっています。 @ 被疑者が罪を犯したかどうか、そして、それはどのような罪であったか A 犯した罪に対して、本人は悔い改めているかどうか @については、本人が告白するか、2人以上の証人によって確認されるので、それほど難 しい作業ではないでしょう。 したがって、実際上、審理委員会が主に判断するのは、もっぱらAの点がほとんどなので す。もちろん、悔い改めの程度は、その罪の重大さと無関係ではありませんので、@で、 どんな事柄が、どのような状況のもとで、どのように犯されたのかという事実確認は大変 重要な事柄ではありますが、実際には、その罪に対して、本人がどう感じているのか、端 的に言えば、悔い改めてもう二度とそうした事柄を行ないたくないと感じているか、それ とも、悔い改めは不十分かということになります。 1−4)有罪か無罪かの判断 次の事柄によって有罪か無罪かが判断されます。 @ 罪は犯されたのか否か A その罪に対して悔い改めは十分か否か @について、罪が犯されていないということであれば、もちろん無罪となりますが、審理 委員会の開催の前提条件が実質的な罪が犯されたことを確認してから開かれるため、そう したことはめったに生じないことでしょう。 したがって、注目されるのはAの点です。クリスチャン会衆の裁判の場合、有罪の場合で も、処置が大きく異なる場合があり、その異なる処置が問題になるケースが多々あります。 有罪でも、本人が犯した罪に対して悔い改めていれば、その罪は許されます。本人には戒 めとし何らかの制限が加えられるかも知れませんが、クリスチャン会衆から排斥されると いうことはありませんし、必要でないなら、そうした罪が犯されたという事実も、会衆に は明らかにされません。 したがって、多くの人は、エホバの証人の裁判において、無罪=残留、有罪=排斥という ふうに理解しておられる人がいるかもしれませんが、そうではないのです。有罪、つまり 何らかの重大な悪行を犯しても、そのことを十分に悔い改めていれば、犯した罪の如何を 問わず、排斥されることはありません。 そこで、犯した罪に調和して、それにふさわしい悔い改めがなされているかどうかを判断 することがもっとも重要な鍵となります。しかし、これは、事実関係の単なる証明とは異 なり、大変難しい作業であることは容易に想像できることだと思います。 私たちは神と違って心を見ることができない(箴言17:3)ので、悪行者が悔い改めて いるかどうかをどうやって判断するのでしょうか? その点で、次の「ものみの塔」誌が 参考になります。 *** 塔95 1/1 27-31 弱さ,邪悪さ,および悔い改めを見極める ***    長老たちは次のような点を見極める必要があるかもしれません。その人は悔い改め ていますか。どんなことが原因で罪に陥ったのでしょうか。弱さのゆえにふと出来 心を起こしたためですか。罪は習わしにされていましたか。こうした点は必ずしも 簡単に,あるいははっきりと見極められるものではなく,それを見極めるには相当の 識別力が求められます。 弱さ,邪悪さ,および悔い改めを考量する 実際のところ,罪はすべて邪悪なものですが,罪人はすべて邪悪だというわけではあ りません。同じような罪でも,人によっては弱さの証拠である場合もあれば,邪悪さ の証拠である場合もあります。実際,罪をおかすということには普通,罪をおかす人 の側の弱さと邪悪さが両方,ある程度関係しています。決定的な要素の一つは,罪を おかした人が自分のしたことをどう考えているか,またそのことに関して何をしよ うと思っているかということです。その人は悔い改めていることを示す霊を表わし ていますか。長老たちにはそのことを見抜く識別力が必要です。 敬虔な原則を適用する 犯された悪事に対する責任を認めようとしない態度が見られますか。罪をおかした 人は,ほかならぬその問題に関して以前に与えられた助言をずうずうしく無視しま したか。重大な悪行は凝り固まって習わしになっていますか。その悪行者はエホバ の律法を臆面もなく無視する態度を示していますか。その人は抜け目のない仕方で 悪事を隠そうとし,もしかすると同時にほかの人たちを腐敗させていますか。(ユダ 4)その悪事が明るみに出ると,ますますそのような行動に走るでしょうか。その悪 行者はほかの人やエホバのみ名にもたらした害を完全に無視していますか。その人 の態度はどうでしょうか。聖書からの穏やかな助言が与えられても,当人はごう慢な, あるいは尊大な態度を取っているでしょうか。悪事を繰り返すまいという心からの 願いが欠けているでしょうか。長老たちは,悔い改めていないことを強力に示唆する こうした点に気づいたなら,犯された罪は単なる肉の弱さというよりもむしろ邪悪 さの証拠であるという結論に達するかもしれません。 つまり、結局のところ、判断の最終的な規準は、この「ものみの塔」誌の記事の表題が示し ているように、犯された罪が弱さによるものなのか邪悪なものであるのかを判断すること になるわけです。主に弱さに起因するものであるならば、憐れみを示すことができますし、 またそうするように勧められています。そういう人の場合には、あえてクリスチャン会衆 から排斥する必要はないと判断されることでしょう。当然、その人は、クリスチャン会衆 に残留することができます。しかし、邪悪さがその人の行動の根底にある主要な要素であ ると判断されるならば、そうした邪悪な人をクリスチャン会衆から追放する、つまり排斥 処理にするのがふさわしということになります。そのような人を会衆に残しておくならば、 神を辱めることになりますし、会衆の他の成員に悪影響が及ぶことになるからです。 1−5)弁護人 審理委員会というエホバの証人の裁判において、悪行者を弁護する人はだれもいません。 もちろん、審理委員である長老たちは、いずれも円熟したクリスチャンであり、憐れみに 富むエホバ神の特質を反映した人たちであるという前提がありますので、それでも公正な 判断が保たれているとされています。 1−6)上訴 悪行者は決定に不服がある場合、上訴することができます。そうすると上訴委員会が組織 され、はじめの審理委員とは別のメンバーから成る上訴委員が選任され、上訴委員会が開 かれることになります。 ここで、悪行者が上訴するという場合には、次の2つのケースが考えられます。 @ 本人は悪行を犯していないのに有罪とされ排斥となった場合(悪行を犯していな いと主張する人は当然十分な悔い改めも示さないでしょう) A 悪行は犯したが、十分悔い改めていると悪行者が主張しているのに対し、審理委 員たちは悔い改めが不十分と判断し排斥となった場合 実際上、@のようなケースは稀なケースでしょう。通常はAの点が問題になります。しか し、ここで問題になるのは、あくまでもはじめの審理委員会の聴聞会における悪行者の態 度が判断の対象となるという点に注意しなければなりません。排斥を言い渡されてびっく りしてそれから悔い改めたという主張は認められません。そうなると、新たに設けられた 上訴委員会は大変難しい判断を求められることになります。自分たちは出席していなかっ たはじめの審理委員会における悪行者の態度がどのようなものであったかを判断する必要 があるからです。当然のこととして、排斥の判断を下した審理委員たちは、審理委員会に おいて悪行者が示した態度が悔い改め不十分なものであったことを力説するでしょうし、 悪行者はその場面において十分悔い改めを示したのに審理委員たちに理解してもらえなか ったということを力説するでしょう。しかし、その場にいなかった上訴委員たちに、はじ めの委員よりも十分な判断が行なえると期待するのはかなり難しいのではないかと考えら れます。せめてもの慰めは、上訴委員たちは、霊的により円熟した兄弟たちであり、より 優れた判断が下せるはずであるという期待だけでしょう。実際問題として、上訴委員たち は、どうしても、1人の悪行者の主張よりも3人以上のより円熟した長老たちの主張に傾 きやすいということは否めません。この上訴委員会においても悪行者には弁護人はいませ ん。したがって、3人以上の審理委員と対峙して、同じく3人以上の上訴委員を説得する ことが必要になります。こうした状況ですから、この上訴委員会は悪行者に圧倒的に不利 な条件における裁判であることは間違いありません。実際、上訴委員会ではじめの決定が 覆ることは非常に稀であると言えるでしょう。上訴委員会でも排斥が支持されると、排斥 処置が最終的に決定されることになります。 1−7)発表 決定は、排斥処理が取られる場合、および排斥処理は取られなくても多くの成員がその事 件に関係しており発表することがふさわしい場合には、会衆に結果を発表することになり ます。それ以外の場合には、会衆の他の成員は、そうした事件があったことも、そうした 裁判が行なわれたことすら、知らされないことになります。 排斥の発表がなされた時点で、排斥処置が効力を発揮することになります。それ以後、会 衆の成員たちは、排斥となった元エホバの証人とは交友関係を断つことになります。交友 関係を一切断つというのは、排斥された人にとっても、会衆にとっても大変重苦しい決定 となります。特に親族などの親しい人が関係している場合には、なおのことそう言えます。 そのような処置が取られる根拠となっている聖句は以下のようなものです。    (コリント第一 5:9-13) わたしは自分の手紙の中で,淫行の者との交友をやめるよ    うにとあなた方に書き送りましたが,10 それは,この世の淫行の者,あるいは貪欲な    者やゆすり取る者,また偶像を礼拝する者たちと全く[交わらないようにという意    味]ではありません。もしそうだとすると,あなた方は実際には世から出なければな    らないことになります。11 しかし今わたしは,兄弟と呼ばれる人で,淫行の者,貪欲    な者,偶像を礼拝する者,ののしる者,大酒飲み,あるいはゆすり取る者がいれば,交    友をやめ,そのような人とは共に食事をすることさえしないように,と書いているの    です。12 というのは,わたしは外部の人々を裁くことと何のかかわりがあるでしょ    うか。あなた方は内部の人々を裁き,13 外部の人々は神が裁かれるのではありませ    んか。「その邪悪な人をあなた方の中から除きなさい」とあります。    (ヨハネ第一 2:18-19) 幼子たちよ,今は終わりの時です。そして,あなた方が反キ    リストの来ることを聞いていたとおり,今でも多くの反キリストが現われています。    このことから,わたしたちは今が終わりの時であることを知ります。19 彼らはわた    したちから出て行きましたが,彼らはわたしたちの仲間ではありませんでした。わた    したちの仲間であったなら,わたしたちのもとにとどまっていたはずです。しかし    [彼らが出て行ったのは],すべての者がわたしたちの仲間なのではないことが明ら    かになるためです。    (ヨハネ第二 7-11) というのは,欺く者が多く世に出たからです。すなわち,イエ    ス・キリストが肉体で来られたことを告白しない者たちです。それは欺く者,反キリ    ストです。 8 わたしたちが働いて生み出したものを失わないよう,むしろ十分な報    いを得られるよう,自分自身によく気をつけなさい。9 先走って,キリストの教えに    とどまらない者は,だれも神を持っていません。この教えにとどまっている者は,父    も子も持っているのです。10 この教えを携えないであなた方のところにやって来る    人がいれば,決して家に迎え入れてはなりませんし,あいさつのことばをかけてもな    りません。11 その人にあいさつのことばをかける者は,その邪悪な業にあずかるこ    とになるからです。 2)エホバの証人の司法制度は公正さを反映しているか さて、ここまでエホバの証人の「司法制度」の実態についてみてきました。これは、エホ バ神の示す公正さを反映したものといえるでしょうか? 少なくとも以下のような問題点 があることを指摘しておきたいと思います。 @ 審理委員会とは何かという自覚が被疑者にないままに審理委員会が行なわれてい る実態があること: 裁く側の長老たちは日常的にいくつもの審理委員会を経験しているのに対し、通常悪行の 被疑者は審理委員会を初めて経験する人がほとんどであり、審理委員会というものがどの ように運営され、何が問われ、何が判断されるのかという点が十分知らされないまま開催 されているケースが多いため、結果的に被疑者の側の十分な準備がなされない(例えば、 審理委員会が求める悔い改めとは具体的にどういう事柄なのかよく理解していない等)ま まに審理委員会が開催され、被疑者が排斥を言い渡されてはじめて自分の身に降り掛かっ た事柄が重大であることに気付くということも珍しくありません。この点では、長老たち の側に悪意があるとは思えませんが、例えば、「審理委員会は、兄弟(姉妹)を裁くため ではなく、兄弟(姉妹)を助けるために開かれるので安心してください」などという、被 疑者を心理的にリラックスさせるために発せられた言葉が、結果的に審理委員会の重大さ を薄める役割を果たしているという事実があります。その結果、「そんなに早く決定が下 されるのは思わなかった」、「もっと長老兄弟たちが、色々と助けてくれると思った」と いう裏切られたような感情を引きずる事態が生じる可能性があります。上記の「助けてく れると思った」という言葉の中には、「審理委員会を通して単に事実関係を聞くだけでな く、聖書的な諭が与えられ、そうした中で、自分が悔い改め発揮してゆけばよい」という 思いがこめられているように思えますが、実際には、「助けるために開かれる」という言 葉とは裏腹に、審理委員会はかなり事務的に処理されているという実態があります。した がって、審理委員会とはどんな事柄を、どのように扱う会合なのかということを、あらか じめ十分に被疑者に説明し、そして十分な時間をかけて審理する必要があると考えます。 A 3対1の圧倒的に不利な裁判であること: 裁く側の長老たちは、通常、霊的に円熟しており、聖書に通じており、論理と説得という 点では被疑者は太刀打ちできないことでしょう。さらに、人数も3人以上と多いため、気 の弱い被疑者は多少なりとも圧倒され、十分自分の考えを述べられないことがあるかも知 れません。それが時には、自分の気持ちの説明が不十分な結果となり、「悔い改め不十分」 という結論に導かれることが多々あるのではないかと感じています。 B 弁護人がいない孤立無援の裁判であること: Aと同じような点ですが、被疑者には一切弁護人が備えられていない点は大きな不公正と 考えられます。これは、裁かれる側にとっては、圧倒的に不利な条件と言えるでしょう。 被疑者は、たった一人で、検察官兼裁判官の長老3人に対峙しなければならないのですから、 これは本当に大きな重圧となることでしょう。こうした取決がなされたいきさつは知りませ んが、察するに、@)被疑者のプライバシーを保護するためと、A)裁く側の長老たちが 聖書に基づいて公正に裁くということを前提にしているためと推測されます。@)の点につ いては、被疑者本人が望むならば、弁護人をつけることを許してもよいのではないでしょ うか。A)については、かなり問題があると考えられます。この点はCで考えます。    C 審理委員会を構成する長老たちの裁判官としての資質は十分か: 審理委員会を構成する委員たちが、いつでも被疑者と同じ会衆の長老というふうに、自動 的に決まるわけではないとはいえ、圧倒的に多くの場合において、被疑者と同じ会衆の長 老たちで構成されることは事実であり、大きな問題と言えます。審理委員の人数は3人以 上となっていますので、会衆の長老たちだけでは3人に満たない場合には、他の会衆から 応援してもらうことがありますが、最近では、日本における長老の数も1つの会衆におい て3人程度の長老を有するところが珍しくなくなりましたので、被疑者と同じ会衆の長老 たちだけで十分間に合うというケースが増えています。この取決は、被疑者について十分 熟知している地元の会衆の長老たちが行なうことがもっともふさわしいと判断されている ためと思われますが、かなり問題のある制度と考えられます。通常、世の中の裁判では、 司法制度を熟知し、見識豊かな専門家である裁判官が裁判を行ないます。法律面でも適任 と思われる人がそうした任を果たしているわけです。一方で、エホバの証人の世界では、 たまたま自分の所属する会衆の長老たちが、ほぼ自動的に裁判官を務めることになるわけ ですが、自分の会衆の長老たちが、裁判官としての資質において、もっとも適任であると いうことは可能性としては低いと考えられます。事実、そうした資質に乏しいと思われる 長老たちはたくさんいます。もちろん、建前としては、長老の資格には、そうした資質が 十分備わっっていることも含まれていますので、そうした点で大きな問題はないはずです が、それはあくまでも建前であって理想は現実とは程遠い状況と言えます。しかも、たま たま、被疑者がある長老との間に何らかの確執があって、感情的なしこりなどが残ってい たりしたら最悪です。しかし、同じ会衆にいて、いつも顔を合わせていれば、そういう可 能性も十分あり得ることです。もちろん、そうした問題があれば、長老は審理委員からは ずれ、別の長老に代わる方が好ましいという指針は協会から与えられていますが、あくま でも長老の自主的な判断でそうすることが勧められているだけで、被疑者の側からの忌避 権はありません。    D 3人の判断は本当に公正で多面的な意見を反映しているか: それでも1人ではなく3人の委員で判断するので、公正さが保たれ、多面的な意見を反映 させることができるという意見があることでしょう。しかし、必ずしもそう言えない状況 があります。会衆の長老たちは長老団を構成し、いずれの長老も立場に上下関係はないと されていますが、実際には霊的な年数や文字通りの年齢、さらに他の要因なども絡んで、 通常は主宰監督を中心にした上下関係が明らかに存在するのが普通となっています。つま り、主宰監督が無罪と言えば、あとは右へならえで無罪、主宰監督が有罪と言えば、同じ く右へならえで有罪という具合に、できるだけ多面的な判断がくだせるようにとせっかく 複数の長老たちで構成する審理委員会が、実際には、一部の長老たちだけの意見に左右さ れる場になりやすいという実態があります。もちろん、すべてそうなっているわけではあ りませんが、そういう事態を生じさせやすい土壌があることは確かでしょう。上訴委員会 の場合には、通常、他の会衆から委員を選任することになりますが、これを、最初の審理 委員会のメンバーから行なうならば、一層公正さが発揮されやすくなるのではないでしょ うか。    E 上訴委員会が形式的なものとなっていること: 上訴委員会ではじめの審理委員会の決定が覆る可能性がきわめて低いことは、すでに指摘 しました。つまり、これは極端に言うと形式上の上訴委員会であり、念には念を入れた公 正な裁判がなされているという格好を整えているに過ぎず、これをもっと実質のあるもの にする必要があるのではないでしょうか。 以上、エホバの証人の司法制度である審理委員会の制度を中心に論じてきました。結論と して、エホバの証人の司法制度たる審理問題に関係する諸制度は、必ずしも公正さが十分 反映されたものとはなっていないと結論せざるを得ないでしょう。 その他、こうした事柄と関連することとして、    ● 一切の交友関係を断ち切る「排斥処置」の是非 について論じられることも多いようです。この点については、次の機会に再び考えてみた いと思っています。 2000年3月4日 目次に戻る

排斥処置の妥当性について

前回の続きで、引き続き「排斥処置」について考えてみたいと思います。今回は特に、その 処置の妥当性に的を絞って考えます。 審理委員会によって排斥処置となった人は、クリスチャン会衆から「排斥」、つまり追放さ れることになります。そして、その人が、それまでクリスチャン仲間との間で培ってきた一 切の交友関係が断たれることになります。その点について論じた「ものみの塔」誌の一つの 記事を分析することによって、エホバの証人の排斥処置の妥当性を検討してみたいと思いま す。 その記事は、1981年11月15日号の「排斥―それに対する見方」というものです。や や古い記事ですが、ここで展開されている論議は、現在の会衆の取決においてほとんどその まま適用されています。 以下、その記事の要点となる部分を挙げて、それに対するコメントを述べてゆきたいと思い ます。    *** 塔81 11/15 20-5 排斥―それに対する見方 ***    5 使徒パウロは次のように助言しています。「分派を助長する者については,一度,    またもう一度訓戒したのち,これを退けなさい。あなたが知るとおり,そのような者    は道から外れて罪を犯し,自責の念をいだいているのです」。(テトス 3:10,11)    そうです,テトスのような霊的な長老たちは,まず悪行者を親切に助けようとします。    もしその人が長老たちの援助に応ぜず,『罪を犯す』道をかたくなに歩み続けるなら,    長老たちには,「団体の成員を裁く」ために長老たちの委員会を招集する権限があり    ます。(コリント第一 5:12,今日の英語聖書)神を愛し,その民が清くあることを願    うなら,「団体」すなわち会衆の中の人々は,その人を退けなければなりません。    6 西暦1世紀に,この種の悪行者が幾人か現われました。ヒメナオとアレクサンデルは    その部類に属する者で,「自分の信仰に関して破船を経験しました」。「冒とくすべ    きでないことを懲らしめによって学ぶよう,わたしは彼らをサタンに渡しました」と    パウロは述べています。(テモテ第一 1:19,20)この二人の追放は厳しい懲罰,つま    り懲らしめ,また罰でしたが,それは,神聖な生ける神を冒とくすべきでないことを    学ばせるものとなったでしょう。(ルカ 23:16と比較してください。そこではしばし    ば「懲らしめ」と訳される基本となるギリシャ語が用いられています。)これらの冒    とく者たちがサタンの権威に渡され,サタンの影響力の下にある世の暗やみの中に    投げ込まれるのはふさわしいことでした。―コリント第二 4:4。エフェソス 4:17-19。    ヨハネ第一 5:19。使徒 26:18と比較してください。    追放された人々を扱う方法    7 しかし,以前のメンバーで排斥された人々をどのように扱うべきかについて,疑問    も幾つか生じるでしょう。感謝すべきことに,神はそのみ言葉聖書の中に,完全で義    にかない,公正であると確信できる答えと指示を与えてくださっています。―エレ    ミヤ 17:10。申命 32:4。    8 コリント会衆にいたある人は,一時期不道徳を行なっていました。そしてそのこと    を悔い改めていなかったようです。パウロはこの男を,『彼らの中から取り去るべき    である』と書きました。その人は,固まり全体を発酵させ,あるいは腐敗させる可能    性のある小さなパン種のようだったからです。(コリント第一 5:1,2,6)しかし,い    ったん追放された人は,クリスチャンが近所で,あるいは普段の生活で出会う,世の    普通の人であるかのように扱われるべきでしたか。パウロの述べたことに注目して    ください。 ここで、8節の最後の方で述べられている点、つまり、「いったん追放された人は,クリス チャンが近所で,あるいは普段の生活で出会う,世の普通の人であるかのように扱われるべき でしたか。」これが問題となる点です。次の論議の展開を見てみましょう。    9「わたしは,……淫行の者と交わるのをやめるようにとあなたがたに書き送りまし    たが,それは,この世の淫行の者,あるいは貪欲な者やゆすり取る者,また偶像を礼拝    する者たちと全く交わらないようにという意味ではありません。もしそうだとする    と,あなたがたは実際には世から出なければならないことになります」。(コリント    第一 5:9,10)パウロはこのように述べて,わたしたちが日常の営みの中で接触する    人々の大部分が,神の道を全く知らず,それに従ってもいないという,現実に即した認    識を示しました。彼らは淫行の者,ゆすり取る者,偶像を礼拝する者であるかもしれ    ません。ですからクリスチャンがいつも親しく交わろうとする人々ではありません。    それでもわたしたちはこの地上の人類の中で生活しており,そういう人々の近くにい    なければならないかもしれず,職場で,学校で,隣り近所でそういう人々と話をしなけ    ればならないかもしれません。    10 次の節でパウロは,この状況と,クリスチャン「兄弟」だったにもかかわらず悪行    ゆえに会衆から追放された人に対するクリスチャンの振る舞い方と対照させていま    す。「しかし今わたしは,兄弟と呼ばれる者で,淫行の者,貪欲な者,偶像を礼拝する者,    ののしる者,大酒飲み,あるいはゆすり取る者がいれば,交わるのをやめ,そのような    人とはともに食事をすることさえしないように,と書いているのです」―コリント第    一 5:11。    11 追放された人は,神を知らず,敬虔な生き方を追い求めてもいない世の普通の人    ではありません。その人は真理と義の道を知っていたのにその道を離れ,悔い改めな    いで追放されるところまで罪を追い求めたのです。ですからその人は異なった仕方    で扱われるべきです。 ペテロはこうした元クリスチャンが,普通の“一般人”とど    う違うかについて注解しています。同使徒はこう述べました。「主また救い主なるイ    エス・キリストについての正確な知識によって世の汚れから逃れたのち,再びその同    じ事がらに巻き込まれて打ち負かされるなら,そうした者たちにとって,最終的な状    態は最初より悪くなっているのです。……真実のことわざの述べる次のことが彼ら    の身に生じました。『犬は自分の吐いたものに戻り,豚は洗われてもまたどろの中で    転げ回る』」―ペテロ第二 2:20-22。コリント第一 6:11。 さて、この「ものみの塔」誌の論議では、コリント第一の5章と6章を根拠にして、神の道 を知らない諸国民がどんな事柄を行なおうと、それはクリスチャンには関わりのない事で すが、かつてのクリスチャン兄弟がそういう事柄を慣わしにしてクリスチャン会衆から追 放されたなら、交友関係を断つように聖書が述べていると論じています。 しかし、この点についての「ものみの塔」誌の論議は、コリント第一の5章や6章が部分的 に引用されているため、そこで述べられているパウロの論議が正しく伝えられていません。 そこで、やや長くなりますが、コリント第一の5章全体を把握するために、あえて、ここに 全体を引用してみます。    (コリント第一 5:1-13) 現に,あなた方の間では淫行のことが伝えられています。    しかも,諸国民の間にさえないほどの淫行で,ある人が[自分の]父の妻を有している    とのことです。2 それなのにあなた方は思い上がっているのですか。むしろ嘆き悲    しんで,この行ないをした人があなた方の中から取り除かれるようにしなかったの    ですか。3 わたしとしては,体ではそこにいなくても,霊においてはそこにおり,あた    かもそこにいるかのように,このようなことをした人をすでにきっぱりと裁きまし    た。4 わたしたちの主イエスの名において,あなた方が共に集まるとき,わたしの霊    もわたしたちの主イエスの力と共に[そこにあり],5 あなた方がそのような人を肉    の滅びのためにサタンに引き渡し,こうして主の日に霊が救われるようにするため    です。 6 あなた方が誇りにしている事柄は良くありません。あなた方は,少しのパ    ン種が固まり全体を発酵させることを知らないのですか。7 古いパン種を除き去り    なさい。あなた方は酵母を持たない者なのですから,それにふさわしく新しい固まり    となるためです。実際,わたしたちの過ぎ越しであるキリストは犠牲にされたのです。    8 ですから,古いパン種や悪と邪悪のパン種を用いず,誠実さと真実さの無酵母パン    を用いて祭りを行なおうではありませんか。 9 わたしは自分の手紙の中で,淫行の    者との交友をやめるようにとあなた方に書き送りましたが,10 それは,この世の淫    行の者,あるいは貪欲な者やゆすり取る者,また偶像を礼拝する者たちと全く[交わ    らないようにという意味]ではありません。もしそうだとすると,あなた方は実際に    は世から出なければならないことになります。11 しかし今わたしは,兄弟と呼ばれ    る人で,淫行の者,貪欲な者,偶像を礼拝する者,ののしる者,大酒飲み,あるいはゆす    り取る者がいれば,交友をやめ,そのような人とは共に食事をすることさえしないよ    うに,と書いているのです。12 というのは,わたしは外部の人々を裁くことと何のか    かわりがあるでしょうか。あなた方は内部の人々を裁き,13 外部の人々は神が裁か    れるのではありませんか。「その邪悪な人をあなた方の中から除きなさい」とあり    ます。 コリント第一の5章で述べられている事柄を要約すると次のようになります。    @ 会衆内に淫行が容認されている状態がみられること A それは悪いパン種であるので、除き去ることが望ましいこと B パウロは淫行の者との交友をやめるようにとかつて手紙で書き送ったが、それは     この世の淫行の者のことではなく、こうした会衆内にいる腐敗した者たちのこと     を指していること ここで問題となるのは、コリント第一の5:11の言葉です。    11 しかし今わたしは,兄弟と呼ばれる人で,淫行の者,貪欲な者,偶像を礼拝する者,    ののしる者,大酒飲み,あるいはゆすり取る者がいれば,交友をやめ,そのような人と    は共に食事をすることさえしないように,と書いているのです。 ここだけ取り出してみますと、確かに、「ものみの塔」誌が述べるように、かつて兄弟と 呼ばれた人で、神の言葉を踏みにじる人とは、食事などを含む交友を避けるようにと述べ られているようにも受け取れます。 しかし、ここでは「兄弟と呼ばれる人」と書かれているのであって、「兄弟と呼ばれた人」 という風に過去形で書かれているのではないことに、まず注目する必要があります。つま り、ここでの論議では、「かつて兄弟であった人」のことが扱われているのではなく、 「現在、兄弟である人」のことが述べられているのです。 さらに、文脈を考慮するならば、コリント第一の5章の論議が、10節で、この世の人で 神の言葉を無視する人のことを対象にしているのではないことを確認した後に、この11 節が述べられており、そして、さらに続き12節と13節に注目するならば、    12 というのは,わたしは外部の人々を裁くことと何のかかわりがあるでしょうか。    あなた方は内部の人々を裁き,13 外部の人々は神が裁かれるのではありませんか。    「その邪悪な人をあなた方の中から除きなさい」とあります。 とあるように、そうした兄弟と呼ばれる人で会衆内で通常の活動をしている人を、クリス チャン会衆から除き去るように述べています。 つまり、ここで重要なことは、当時のコリント会衆においては、淫行などのはなはだしい 罪を習わしにする人たちが大手を振って会衆内に存在することが許されていました。それ は明らかに不正常な状態でした。そこで、パウロはそうした事態を重大な問題ととらえて、 固まり全体である清いクリスチャン会衆を腐敗させかねないパン種のような人たちを、速 やかに除き去るようにと訴えているのです。会衆内に存在していたそうした腐敗分子は当 然、会衆内の他の人たちと色々な交わりを持っていたことでしょう。そこで、会衆から除 き去る、つまり、他の諸国民のようにすることを、「交友をやめ,そのような人とは共に食 事をすることさえしないように」という表現で明らかにしたのです。 当時のユダヤ人社会が、一般にユダヤ人以外の民族との親密な交渉を持たなかったことを 背景として理解するなら、11節で述べられている「交友をやめ,そのような人とは共に食 事をすることさえしないように」というクリスチャンに与えられた指示は、そうしたふさ わしくない兄弟たちを、この世の人以上に避けることを意味していたのではなく、この世 の人と同等のレベルの交友関係にまで引き下げることを述べていたに過ぎないことが理解 できるのです。 再び、「ものみの塔」誌の記述に戻りたいと思います。    12 そうです,聖書はクリスチャンが,会衆から追放された人と交際したり交わりを    持ったりしないように命じています。エホバの証人はこうした悔い改めない悪行者    を追放し,その後その人を遠ざけることを適切にも「排斥」(英語の字義通りの意味    は,交友を中止する)と呼んでいます。彼らが,霊的なレベルであれ親ぼくのレベル    であれ,追放された人との交友を一切拒むのは,神の規準に対する忠節と,コリント    第一 5章11,13節にある命令に対する従順を反映することです。この点,当時のユダ    ヤ人が「諸国民の者」を見ていたその見方でそうした人を見るように,とのイエスの    助言と一致します。使徒たちの死後しばらくは,クリスチャンであると公言する人々    は聖書的な手順に従っていたようです。 しかし,現在どれほどの教会が,この点に関    する神の明確な指示に従っているでしょうか。 ここで、コリント第一で展開されている論議が「会衆から追放された人を、・・・・・・ 当時のユダヤ人が『諸国民の者』を見ていたその見方でそうした人を見るように」という イエスの指示と一致していたという表現は、まさにその通りです。では、現代のクリスチャ ンも、諸国民の者、つまり、この世の人と同じように、追放された人を扱えばよいのではな いでしょうか? それは、現在、エホバの証人が採用している、「挨拶もしない、全くの交 友関係を断つ」という仕方ではないはずです。もちろん、親密で深い付き合いはしないかも しれませんが、ごく普通の市民として扱うことで、よいのではないでしょうか。明らかに、 この節の論議は、これまで展開してきた私の解釈を裏付ける結果になっています。先に進ん でみましょう。    自ら交わりを絶つ人々    13 神の言葉を定期的に勉強しないため,あるいは個人的な問題を抱えていたり迫害    に遭ったりしてクリスチャンが霊的に弱ってしまうことがあります。(コリント第一    11:30。ローマ 14:1)こうした人はクリスチャンの集会に出席することをやめるか    もしれません。何がなされるべきですか。思い起こしてください。イエスが逮捕さ    れた晩,使徒たちはイエスを見捨ててしまいました。それでもキリストはペテロに対    し「ひとたび立ち直ったなら,[やはりイエスを見捨てた]兄弟たちを強めなさい」と    勧められました。(ルカ 22:32)ですから,クリスチャンの長老や他の人々は,弱くな    り不活発になった人を愛の気持ちから訪問し,援助を与えるでしょう。(テサロニケ    第一 5:14。ローマ 15:1。ヘブライ 12:12,13)しかしながら,ある人がクリスチャ    ンであることを否認し,自ら交わりを絶つなら,それはまた別問題です。    14 真のクリスチャンであった人が,私はもう自分をエホバの証人とは考えていない,    あるいはエホバの証人として数えられることを望まないと言って,真理の道を放棄    するかもしれません。こうしたことはまれにしかありませんが,この場合,その人は    クリスチャンとしての自分の立場を放棄しているのであり,会衆との交わりを自ら    故意に絶っているのです。使徒ヨハネはこのように書きました。「彼らはわたしたち    から出て行きましたが,彼らはわたしたちの仲間ではありませんでした。わたしたち    の仲間であったなら,わたしたちのもとにとどまっていたはずです」―ヨハネ第一    2:19。    15 また,聖書と相反する目的を持つゆえにエホバ神の裁きの下にある組織の一員と    なるなどの行為によって,クリスチャン会衆内の自分の立場を放棄する人もいます。    (啓示 19:17-21; イザヤ 2:4と比較してください。)ですからクリスチャンであっ    た人が,神から是認されていない人々に加わることを選ぶなら,会衆は,その人が自    ら交わりを絶ち,もはやエホバの証人ではないことを簡単に発表し,そのことを認め    るとよいでしょう。    16 考えた上でエホバの証人の信仰と信条を退け,『わたしたちの仲間でなく』なる    人々は,当然ながら悪行ゆえに排斥された人と同じようにみなされ,同じように扱わ    れるべきです。 こうしたケースの場合は、エホバの証人の世界では「断絶」と呼ばれており、排斥と同等 に扱われています。つまり、すべての交友関係が閉ざされることになります。もちろん、 自分から信仰を放棄するわけですから、親しく交わる必要はないかもしれませんが、先ほ どのコリント第一の5章の論議から、排斥者と同じ扱いが求められるなら、特別扱いする 必要はなく、通常の世の人と同じ用に扱うことでよいことになるでしょう。ただし、後ほ どの論議と関係しますが、ここでは、断絶する動機が問題になるかもしれません。    会衆と協力する    17 クリスチャンは,兄弟たちや関心を持つ人々と聖書について話し合い,聖書を学    んで霊的な交友を持ちますが,罪を犯して追放された人(あるいはエホバの証人の信    仰と信条を放棄して自ら交わりを絶った人)とはそのような交友を持ちたいと思い    ません。追放された人々は「罪を犯し」たゆえに「退け」られており,『自責の念を    抱いています』。そして会衆内の人々も,神の裁きを受け入れ,それを擁護します。し    かし,排斥には霊的な交友を中止する以上の意味があります。―テトス 3:10,11。    18 パウロは,「交わるのをやめ,そのような人とはともに食事をすることさえしない    ように」と書きました。(コリント第一 5:11)食事はくつろぎと親ぼくの時です。    ですから聖書のこの部分は,追放された人を加えてピクニックに行ったり,パーティ    ーを開いたり,野球をしたり,海岸や劇場に出掛けたり,共に座って食事をしたりす    るような,親ぼくのための交友をも非としているのです。(親族が排斥されるという    特殊な問題については,次の記事で検討します。)    19 あるクリスチャンが,聖書のこの助言を無視させようとするかなりの圧力を感ず    る時があるかもしれません。自分自身の感情が原因で圧力が生じることもあれば,    知人から圧力を加えられることもあります。例えば,ある兄弟は,排斥された二人の    人の結婚式を執り行なうように圧力をかけられました。その務めは,単なる親切とし    て正当化できるものでしょうか。そう考える人もいるでしょう。しかし,町長や他の    結婚登録官ではなく,その人の務めが望まれたのはなぜですか。その人が神の奉仕者    という立場にあり,結婚に関する助言を神の言葉聖書から与え得る能力があったか    らではないでしょうか。そのような圧力に屈するなら,自らの不敬虔な行状ゆえに会    衆から追放されたその二人との交友に巻き込まれることになるでしょう。―コリン    ト第一 5:13。    20 仕事や雇用に関係して問題が生ずることもあります。会衆から追放された人に雇    われていたとか,雇っていた人が追放された場合などはどうですか。そのあとはどう    なるでしょうか。契約上,あるいは経済上の理由でしばらくは仕事上の関係を解消で    きないとき,あなたは排斥された人に対して,以前とは異なる態度を示すに違いあり    ません。仕事上の事柄をその人と話すことや職業上の接触が必要となるかもしれま    せんが,霊的な事柄についての話し合いや,親ぼくのための交友はすでに過去のもの    となります。そのようにして,神に対する従順を示すことができ,自分自身のために    も保護となる防壁を築くことができるのです。またこのことにより本人も,自分が罪    を犯したために様々な面でいかに多くの代価を払うことになったかを痛感させられ    るでしょう。―コリント第二 6:14,17。 コリント第一の5章の精神が、こうした事柄を求めていないことはすでに明らかにしました。 普通の市民として扱うならば、こうした点でのジレンマに悩む必要はないのです。    排斥された人,あるいは交わりを絶った人と話す?    21 神の義と排斥に関する神の取決めを擁護するということは,クリスチャンは追放    された人とひと言も話してはならない,「こんにちは」というあいさつさえできない    という意味でしょうか。『自分の兄弟たちだけにあいさつする』のではなく,敵を愛    するようにとのイエスの助言を考え,この点に疑問を抱いた人もいます。―マタイ    5:43-47。    22 神が,生じ得るあらゆる状況を取り上げようとされなかったことは,実際には神    の知恵の表われです。わたしたちに必要なのは,排斥された人々の取り扱いについて    エホバが述べておられる要点をつかむことです。そうすれば,神の見方を擁護するた    めに力を尽くせます。神は使徒ヨハネを通して次のように説明しておられます。    「先走って,キリストの教えにとどまらない者は,だれも神を持っていません。……    この教えを携えないであなたがたのところにやって来る者がいれば,決して自分の    家に迎え入れてはなりませんし,あいさつのことばをかけてもなりません。その者に    あいさつのことばをかける者は,その邪悪な業にあずかることになるからです」―ヨ    ハネ第二 9-11。    23 賢明なこの警告を与えた使徒はイエスと親しく,他の人へのあいさつについてキ    リストが言われたことをよく知っていました。この使徒はまた,当時の一般のあいさ    つが「平和」を意味することも知っていました。個人的な「敵」や,権威を持つ世の    人でクリスチャンに敵対する人とは異なり,独自の背教的な考えを助長し,正当化し    ようとする人,あるいはその不敬虔な行動を続ける人は確かにわたしたちが「平和」    を願うべき人ではありません。(テモテ第一 2:1,2)そして多年にわたる経験からわ    たしたちすべてが知っていることですが,「こんにちは」という簡単なあいさつがき    っかけとなって会話に発展したり,場合によっては友情に発展したりすることがあ    るものです。わたしたちは排斥された人に対し,そのようなきっかけを作りたいと思    うでしょうか。 「わたしたちに必要なのは,排斥された人々の取り扱いについてエホバが述べておられる 要点をつかむことです。」とありますが、まさにその通りです。神は、クリスチャン会衆 から追放される人は、クリスチャンとしての親密な交わりから遠ざけられること、つまり、 神を道を歩もうとしていないこの世の人と同じように扱うことが求められていることは、 すでに明らかにしました。 通常、クリスチャンは、この世の人に挨拶をしますか。近所の人などの知人にはそうする ことでしょう。では、かつてクリスチャンであった人にも、その程度のことをしても何ら 差し支えないのは当然ではないでしょうか。 「ものみの塔」誌は、ヨハネ第二の9−11節の言葉を引き合いにして、あいさつの言葉 をかけてはならないという根拠にしたいようですが、これは、明らかに別の事柄について 述べている聖句を間違って適用しようとする典型的な例と言えます。 この点についても、文脈を考慮すれば容易に明らかになります。それで、ヨハネ第二の1 ―11節全体を引用してみます。    (ヨハネ第二 1-13) 年長者から,選ばれた婦人とその子供たちへ,すなわち,わたし    が真実に愛し,また,わたしだけでなく,真理を知るようになった人々すべてが[愛す    る]者たちへ。2 それは,わたしたちのうちにとどまっている真理のゆえであり,その    [真理]は永久にわたしたちと共にあるのです。3 また,父なる神および父のみ子イエ    ス・キリストからの過分のご親切,憐れみ,[そして]平和も,真理と愛を伴ってわたし    たちと共にあるでしょう。 4 あなたの子供のうちのある者たちが,わたしたちが父    から受けたおきてのとおりに真理のうちを歩んでいるのを知って,わたしは非常に    歓んでいます。5 それで今,婦人よ,新しいおきてではなく,わたしたちが初めから持    っていた[おきて]を書き送る[者]として,あなたにお願いします。それは,わたした    ちが互いに愛し合うことです。6 そして,彼のおきてにしたがって歩んでゆくこと,    それがすなわち愛です。あなた方が初めから聞いているとおり,そのうちを歩んでゆ    くこと,それがおきてなのです。7 というのは,欺く者が多く世に出たからです。す    なわち,イエス・キリストが肉体で来られたことを告白しない者たちです。それは欺    く者,反キリストです。 8 わたしたちが働いて生み出したものを失わないよう,むし    ろ十分な報いを得られるよう,自分自身によく気をつけなさい。9 先走って,キリス    トの教えにとどまらない者は,だれも神を持っていません。この教えにとどまってい    る者は,父も子も持っているのです。10 この教えを携えないであなた方のところに    やって来る人がいれば,決して家に迎え入れてはなりませんし,あいさつのことばを    かけてもなりません。11 その人にあいさつのことばをかける者は,その邪悪な業に    あずかることになるからです。 12 わたしにはあなた方に書き送るべきことがたく    さんありますが,紙とインクによってそうしたいとは思いません。むしろ,あなた方    のところに行き,あなた方と向かい合って話すことを望んでいます。それによって,    あなた方の喜びが満ちたものとなるためです。 13 選ばれた者であるあなたの姉妹    の子供たちが,あなたにあいさつを送っています。 ここでの要点は以下の通りです。    @ 神の教えの真髄は愛である A 反キリストに気をつけなさい。それはキリストが肉体で来られたことを否定す     る者です B そうした反キリストの者については、家に迎え入れたり、あいさつの言葉をか     けてもなりません ここで論議の対象となっているのは、キリストを否定する者です。罪を犯して排斥処分に なる人の中には、そういう類の人も含まれているかもしれませんが、現実問題として、そ うではない人が圧倒的に多数であることは確かです。聖書は正しいと信じているけれど、 弱さに屈して罪に陥ってしまった人などが大半なのではないでしょうか。そうした事柄を 区別せずに十派一からげにして裁くのは正しくありません。先ほど考えた「断絶する人」 の場合にも、この点を考慮する必要があるでしょう。    24『でもその人が悔い改めているように見え,励ましを必要としている場合はどうで    しょうか』と尋ねる人もいるでしょう。こうした状況に対処するための規定があり    ます。会衆の監督は霊的な牧者,また羊の群れの保護者として仕えています。(ヘブ    ライ 13:17。ペテロ第一 5:2)排斥された,あるいは交わりを絶った人の求めがあれ    ば,またその人が神の恵みの下に帰りたいという願いを明確に示していれば,長老た    ちは当人と話すことができます。長老たちは,当人が行なう必要のあることを親切に    説明し,適切な訓戒を与えることでしょう。長老たちは本人の過去の罪と本人の態度    に関する事実に基づいて,その人を扱うことができます。会衆の他の人には,そうし    た情報が欠けています。ですから排斥された人,あるいは交わりを絶った人が「悔い    改めている」と感じられても,それは正確な情報というより,単なる印象に基づいた    判断ではないでしょうか。その人が悔い改めており,悔い改めの実を生み出している    と長老たちが確信するなら,その人は会衆に復帰することを許されるでしょう。それ    が許されてから会衆の他の人々は,コリントで復帰することを許された人に関して    パウロがコリント人に勧めたように,集会でその人を温かく歓迎し,許しを示し,慰    め,その人に対する愛を確証することができます。―コリント第二 2:5-8。 こうした取決は確かに現在でも機能しています。    邪悪な業にあずからない    25 すべての忠実なクリスチャンは,神がヨハネに霊感を与えて書かせた次の重大な    真理を心に銘記する必要があります。「[誤った教えを広め,不敬虔な行状をやめよ    うとしない,罪を犯して追放された人]にあいさつの言葉をかける者は,その邪悪な業    にあずかることになる(の)です」―ヨハネ第二 11。    26 キリスト教世界の注釈者の多くは,ヨハネ第二 11節に異議を唱えます。彼らは,    それが『我らの主の霊とは反対の,キリスト教らしからぬ助言である』とか,それは    狭量を助長するとか主張します。しかしそのような意見は,「その邪悪な人をあなた    がたの中から除きなさい」という神の命令を適用しない宗教組織,だれもが知ってい    る悪行者でさえも自分の教会から追放することなどまずしない組織から出ているの    です。(コリント第一 5:13)彼らの“寛大さ”こそ聖書的ではなく,クリスチャン    らしからぬものです。―マタイ 7:21-23; 25:24-30。ヨハネ 8:44。    27 しかし,聖書の神,義と公正の神に忠節であるのは間違ったことではありません。    神が『その聖なる山』に受け入れるのは,とがなく歩み,義を行ない,真実を語る人だ    けであると述べられています。(詩 15:1-5,新)しかし,神から退けられて排斥され    た人や自ら交わりを絶った人と進退を共にするつもりのクリスチャンは,『私も神の    聖なる山の中に居場所など欲しくない』と言っているも同然です。排斥された人と    定期的に交わりを持ち,そうした方向に歩んでいる人を見た長老たちは,親切にまた    辛抱強く,その人が再び神の見方を得られるよう援助しようとします。(マタイ    18:18。ガラテア 6:1)その人を訓戒し,また必要であれば『彼を厳しく戒めます』。    長老たちはその人が『神の聖なる山』にとどまれるよう助けることを願います。し    かし本人が排斥された人との交友をやめないなら,その人は自ら『その邪悪な業に    (それを支持したり行なったりして)あずかる者』となるのであって,会衆から除か れなければ,つまり追放されなければなりません。―テトス 1:13。ユダ 22,23。民    数 16:26と比較してください。 ここでも、単に罪を犯して悔い改めが不十分とみなされ排斥された人と、「反キリスト」 を区別しないで論議しているため、結論は誤った方向に導かれてしまっています。 確かに、現実にクリスチャン会衆における審理問題は秘密裁判であるため、ある人がクリ スチャン会衆から排斥される場合、それがどんな種類の罪であるかを他の人は知ることが できない仕組みとなっていますので、そうした審理問題の扱い方自体に改善の余地がある のかもしれません。 さて、ここまでで、「ものみの塔」誌の記事をベースにして、エホバの証人の会衆におけ る排斥問題について考えてきましたが、この問題は非常に単純で、結局コリント第一の5 章で述べられている「兄弟たち」がどんな状況にある人のことを指しているのかを正しく 認識でき、それに対してパウロが述べた事柄を正しく把握できれば、容易に正しい結論に 導かれることが明らかになりました。しかし、一度ボタンを掛け間違えてしまうと、次か ら次へ間違った結論が導き出されてしまうことになるのです。 排斥処理というのは、確かにクリスチャン会衆の清さを保つために不可欠の処置であると 考えられますが、公正さを保ち、何よりも聖書に書かれている事柄を超えない方法で扱う ことが大切であると考えます。そして、排斥処置による影響がクリスチャン会衆の本人や 周りの人々に与える影響の大きさを考えるなら、この点についての改善は急務であると言 えるでしょう。 2000年3月5日 「物事をありのままに考えるエホバの証人」より
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