「物事をありのままに考えるエホバの証人」より−1

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統治体の新しいメンバーの任命について

1月16日(日)の集会の際に、新しい「エホバの証人の年鑑」を受け取りました。
最近では、恒例になっている「統治体からの手紙」の末尾で、すでに「ものみの塔」
2000年1月1日号で発表されている新しい統治体のメンバーの任命に関して、
改めて触れられていました。それによりますと、新たに任命された4名の統治体
のメンバーは、全員が油そそがれた者であり、その平均年齢は57歳、また全時間
奉仕の平均年数は31年ということでした。

協会が新しい取決を行なう場合には、その取決の発表とほぼ同時に何らかの説明
があるのが通常ですから、これが、すでに「ものみの塔」で発表した統治体の任命
の「説明」なのだと理解できます。これ以上の説明は必要ないと統治体が判断した
ということだと思います。

しかし、この新しい任命は、「油そそがれた者とは何か」という点について、改めて
問題提起することになったと思います。このことには、たくさんの事柄が関係して
いますので、詳細に論じるには別途時間が必要と考えますが、とりあえず、
「速報」として、これまで協会が、油そそがれた者の人数が満たされてきたことに
ついて触れてきたこととの整合性について、簡単に考えてみたいと思います。

協会は、これまで、油そそがれた者が1935年頃に、ほぼその数が満たされて、
その後は、主に地上で永遠に生きる見込みを持つ「大群衆」を集めることに、
関心が向けられるようになったと述べています。「ものみの塔」1970年8月15
日号、510ページでは、「14万4000人の数は、1935年ごろから満たされ
たということを意味していますか。その通りです。」と述べられています。同時に、
「まだ地上にいるそれらの人々(筆者注:油そそがれた者たち)のだれかが
不忠実になれば、その人の立場は、だれか別の人によって補充されなければ
なりません。」とも述べており、何らかの補充がありえることを示唆しています。
個々の油そそがれた者がどの程度不忠実になるかは誰も分かりませんが、
油そそがれた者が「長年にわたって試練を経た人々であることを考えると、
それが大量なものであるとは考えにくいところです。

こうした考え方は、その後の「ものみの塔」において、ずっと追認されてきました。
むしろ、記念式において表象物にあずかることによって明らかになる油そそがれ
た者の人数が、年代を経るに従って一向に減少しないことに対する苛立ちが
あったと思います。それは、「ものみの塔」1991年3月15日号の「天への召し
を本当に受け入れているのはだれですか」という記事の中で、次のような表現
があることからうかがえます。「油そそぎが『願うものにでもなく走る者にでもな
く、ただ・・・・・・・・・神にかかっている』ことを全くわきまえていないため
に、間違って記念式の表象物にあずかる人がいるかもしれません。」。
こうして、注意深く自分の立場をわきまえることの重要性が強調されています。

そして、「ものみの塔」1995年2月1日号の「真の崇拝者の大群衆−どこから
来たか」という記事の中では、「今なお地上にいる小さな群れ(筆者注:油そそが
れた者と同義)の成員の大半は、もう70代、80代、ないし90代に達していま
す。」とあります。また、「ものみの塔」1996年8月15日号の「読者からの質
問」では、記念式で表象物にあずかる人数が増加している理由を問うていま
すが、その回答の中で、「14万4000人という油そそがれたクリスチャンの数は
数十年前にすべて満たされた、と信じるべき十分の理由があります。」、
「これまで幾十年にわたって観察された事実は、油そそがれた者たちの召しが
完了したこと・・・・・・を示しています」と述べられています。

こうした一連の記述から導きだされる結論は、油そそがれた者の選びは、いつ
完全に終了したかは不確かですが、現在では、ほぼ完了しているということです。
もちろん、「ものみの塔」の記事は注意深い書き方をしており、補充が絶無では
ないものの、その数は限定されたものであることが示唆されています。同時に、
90年代に入って、油そそがれた者の選びが1935年で終了したということは、
明言しなくなっており、「数十年前」にすべて満たされたという表現に微妙に
変化していることも分かります。

こうした見解と今回の統治体の任命を照らし合わせて考えてみたい思います。
まず、「任命」された兄弟たちのバプテスマがいつなのか不明なので厳密なこと
は分かりませんが、恐らく年齢的に1960年前後にバプテスマを受けたことが
予想されます。もちろん、油そそがれた者たちがバプテスマと同時に『自分は
油そそがれた者であると主張し始めるとは限らず、その後しばらく経ってから、
そのように振舞い始めるということもあるようですから、兄弟たちがいつ油そそ
がれた者として選ばれたのかは不明です。しかし、これまでの「ものみの塔」に
書かれている事柄の自然の流れから判断すると、今回の任命は、かなり唐突な
印象を受けることは確かです。不自然な感じを受けることは否めません。ただし、
この点は、ことの性質上、論証することはきわめて難しく、あくまでも「不自然な
感じ」ということでとどめなければなりません。今回、明確な説明がないことも、
統治体の兄弟たちが「説明不要」であると考えたためでしょう。

ところで、これまで統治体=老齢の兄弟たちというイメージが定着しており、
私たちも、集会の祈りなどで、よく「老齢にもかかわらず、精力的に働いて
おられる統治体の兄弟たち」に祝福を祈り求めることがよくあります。
これからは、こうした表現は必ずしも適切ではなくなりました。

実際、私たちは、統治体の兄弟たちが次第に老齢のために十分働くことができ
なくなることを心配していました。ですから、「ものみの塔」1992年4月15日
号で発表された大群衆の兄弟たちによる「統治体の委員会への援助」という
新たな取決を道理にかなったものとして歓迎しました。この取決が十分に機能
すれば、組織の運営は支障なく行なうことができるはずです。

こうして考えてきますと、今回の「任命」は、真理のきらめきが増し加わったため
(箴言4:18参照)というよりも、何か、世俗的なにおいがぷんぷんします。
つまり、組織を維持するために何が必要かという命題がまずあり、そのために
必要な事柄は何かということを捜し求めた結果、得られた帰結という感じが
します。もっとも、これも、あくまでも「感じ」であって証明できる事柄ではあり
ませんが、そうした疑念を払拭したいのであれば、何らの「説明」をするのが
親切なことなのではないでしょうか?

それにしても、今回の「若い」油そそがれた兄弟たちの任命の意図は、どこに
あるのでしょうか? 従来の統治体の兄弟たちの老齢化を心配するなら、
実務としては援助者の取決で十分補えるはずです。しかし、それでも、今後
老齢となった統治体の兄弟たちが次々と地上の命を終えてゆく時、果たして、
組織の統制がこれまで通り安泰かというと不安があったのかもしれません。
それで、当分の安泰を保証するために「若い」油そそがれた者を任命する必要
があったのでしょうか? こうした事柄はすべて推測の域を出ません。

明らかに矛盾するわけではないものの、多くの誠実なエホバの証人は、今回の
出来事に多少なりとも衝撃を受けているはずです。日本の大群衆の中にも、
今回統治体に任命された兄弟たちと同じくらいの霊的キャリアがある人が
大勢いるからです。もちろん、油そそがれた者と霊的な能力との間には相関
関係はないというのが協会の公式見解ですから、こうした事柄も反証としては
不十分なのですが、感情的にはしっくりこない人が大勢出てくることは間違いない
でしょう。

こうした点を組織はどう考えているのでしょうか? 私は、最初、この点について、
支部に手紙を書くことを考慮しましたが、「ブラックリスト」に乗せられて、いやな
思いをしたくないので、今回はこういう形で意見表明させていただくことにしまし
た。

今回の統治体の「任命」について、エホバの証人、それ以外の人を含めて、
どんなことを考えているのか、ぜひ知りたいと思っています。

2000年1月17日

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情報の閉鎖性と公開性について

情報の公開性は、社会や組織の成熟度と密接に関係があるようです。近年、
とみに情報の公開性が叫ばれるようになってきており、役所、議会、学校、職場
など、さまざまな分野で情報の公開が急速に進んでいます。

エホバの証人に反対する人たちに関する限り、ものみの塔協会の情報公開は
まったく進んでいません。反対者と接触することはもちろん、そうした人たちが
書いた文書も読むことがないように強く勧められています。

例えば、これまで「ものみの塔」誌に書かれてきた事柄をピックアップしてみましょ
う。

   悪霊の食卓の上にある食物は有毒です。例えば,よこしまな奴隷級や背教
   者たちが配る食物のことを考えみてください。そうした食物は、人に滋養を
   与えることも人を築き上げることもありません。健全なものではないからで
   す。それは健全な食物にはなり得ません。なぜなら、背教者たちはエホバ
   の食卓で自分を養うことをやめているからです。(「ものみの塔」1994年
   7月1日号、10節)

   彼らの流す情報には四つの特徴があります。(1)気の利いた感じがする。
   ・・・・・・(2)得意気げに知性をひけらかしている。(3)愛に欠けてい
   る。(4)不正直であることが色々な面に表われている。(「ものみの塔」
   1994年7月1日号、13節)

   背教者は、指導の任に当たっている兄弟たちの間違いや表面上の失敗に
   つけ込みます。わたしたちの安全は、背教者の宣伝をあたかも毒であるか
   のように避けることにかかっています。(「ものみの塔」1992年7月15
   日号、19節)
  
   興味深いことに、フランスのある巡回監督は、「一部の兄弟たちは正確な
   知識を欠いているために欺かれている」と述べています。・・・・・・これ
   は、背教者の言うことに耳を貸したり、背教者の著作を徹底的に調査
   したりするという意味ではありません。むしろ、聖書と聖書に基づいた
   協会(筆者注記:ものみの塔協会のこと)の出版物の個人研究を勤勉に
   行なうことによって、「・・・・・・正確な知識」に至るという意味です。
   (「ものみの塔」1987年11月1日号、16節)

   好奇心をそそられ、背教者として知られる人の文書を読むことは、真の
   崇拝のその敵をまさしく家の中に招じ入れ、共に座ってその背教者の考え
   を語らせるのと同じことではないでしょうか。(「ものみの塔」1986年
   3月15日号、10節)

   反対者の偽りの主張や教えを論ばくするために、中傷と、一面だけの真理  
   を示す言葉が氾濫した本やパンフレットを読まなければならない、と結論
   する必要はありません。(「ものみの塔」1986年3月15日号、13節)

確かに、反対者の述べる事柄の多くには、偽りや不正確な情報に基づいた部分
が含まれているかもしれません。しかし、前述の引用文にもあるように、その中
には、「一面の真理」も含まれていることを、協会は認めています。

私は、こうした反対者の意見に、多くのエホバの証人たちが、時間を奪われない
ために、これまで情報をシャットダウンしたきた方針は、ある程度ややむを得ない
ことと考えています。組織の上層部がそうした反対者の述べることを分析し、
必要な反論や、含まれているかもしれない「一面の真理」を、前向きに検討する
ならば、何も、末端の信者がそれらにかき乱される必要は全くないでしょう。

これまでは、これで大丈夫でした。しかし、今やインターネットの時代となり、
反対者の意見はごくごく簡単に入手できるようになりました。これまでの情報
隔離方針は、もはや通用しないことは明らかです。現在の方針を改めて、
反対者の述べる事柄が間違っているなら、それをある程度オープンにして、
公に反論する必要がでてきたと、私は考えます。

このことは、次のようなたとえから納得してもらえると思います。性教育の必要性
は、多くの人が認めていることと思います。もし、適切な教育がなければ、思春期
の若者たちは、自分の友達、雑誌類などから仕入れた不確かで、不十分な知識
のまま成長してしまうかもしれません。そこで、親やその他の適切な人たちが、
正しい性教育を行なうことには、十分な意義があるでしょう。仮に、間違った情報
に影響されなようにと、一切の情報を遮断しようとしても、そうした情報は、必ず
どこかから入ってきてしまうものです。エホバの証人に対する反対者の意見に
ついても、同様のことが言えると思います。情報を遮断しようとしても、インター
ネット時代には、そうしたものを遮断することは不可能です。

では、どうしますか? ものみの塔協会とよく似た中央集権的な組織を持つ団体
として、日本共産党を挙げることができます。エホバの証人は共産主義を嫌って
いますので、組織が似ているというのは不愉快でしょうが、今、情報の公開性と
いうことだけについて、組織構造の点での類似性だけを取り上げてみたいと
思います。

日本共産党では、「民主集中制」という名のもとに、徹底的なトップダウンの方針が
貫かれています。大会などの決議ではほとんど満場一致で議決されることが
通常です。もちろん、その前にある程度の討議が行なわれ、執行部に対する
反対意見が述べられることはありますが、最終的な決議では多数意見に従う
ことによって一枚岩を保つようにしているのです。

こうした組織上の構造のゆえか、ある日突然、組織に公然と反旗を翻す人たちが
出てくることがあります。こうした人たちは、「反党分子」と決めつけられ、やがて
「除名処分」を受けて、組織から「追放」されるケースがあります。除名処分を受け
た元党員は、たとえ、党員時代に党の幹部であったとしても、手厳しく扱われ、
党員たちとの交友は絶たれることになります。

こうした点で、日本共産党の「除名処分」とエホバの証人の「排斥処分」は、ある
程度類似しています。共産党を除名された「反党分子」は、いろいろな宣伝媒体を
通じて、共産党に対する攻撃をしてくることがあります。それに対する共産党の
対応は、「徹底した反論」ということにつきます。情報をシャットアウトすることは
ありません。もともと、インテリ層の多い日本共産党では、反対者の述べることを
シャットアウトすることは不可能で、むしろ、それをオープンにして、徹底的に反論
することによって、反対者の述べることがいかに的外れであるかを、検証してゆく
のです。

これは、ものみの塔協会が学ぶことのできる点ではないかと考えます。宗教組織と
政党組織のやり方を比較することは、乱暴かもしれませんが、今のままの情報閉鎖
方針はやがて必ず破綻することは明らかです。むしろ、一方的な反対者の述べる
情報にかき乱されることになりかねません。もし、反対者の述べる事柄に、不正確
な点、偽り、誇張などがあるならば、その点を論理的に指摘し、正しい情報を伝える
ことが、ものみの塔協会の幹部たる統治体の使命なのではないかと考えます。

仮に、そうした方針に転換することによって、信者が一時的に減少したとしても、
それはある程度、仕方がないことです。もし、ものみの塔協会が正しいのに、
そのように判断する人がいたとしても、そう判断する人は、それだけの信仰しか
なかったのです。ものみの塔協会が多くを失うことはないはずです。むしろ、
強い信仰の人たちだけが残り、組織は強化されることになるのではないでしょうか。


2000年1月19日

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エホバの証人の開拓者制度について

私の経験から導き出された拙い持論に「30%の原則」というものがあります。おお
まかに言って、多かれ少なかれ、どんな組織でも、30%の先頭集団と30%の落ち
こぼれ集団、そして、その中間をゆく残りの集団がいるというものです。

エホバの証人の集団においても、この原則は概ね変わらないようです。エホバの
証人の場合、トップ集団は間違いなく開拓者です。日本では約30%が開拓者となっ
ています。因みに海外ではこの比率はもう少し下がります。エホバの証人の組織は
優秀なので、落ちこぼれ集団は3割はいないかもしれませんが、昨今では着実に
増加傾向にあるようです。

さて、エホバの証人の「開拓者」制度とはどんな制度なのでしょうか。そのことにつ
いては、「わたしたちの奉仕の務めを果たすための組織」のP114に、次のように
書かれています。

   「正規開拓奉仕者としての任命を受けるために、あなたは現在、一年に
   1000時間という野外奉仕の目標を達成できる立場にいなければなりませ
   ん。これは要求です。・・・・・・あなたが正規開拓者として任命を受けるよ
   う長老たちが推薦する以前に、あなたはバプテスマを受けて少なくとも6か月
   経過していなければならず、しっかりした道徳的生活を送り、模範的な伝道者
   であることを示していなければなりません。」

「王国宣教」1999年1月号によると、この要求時間が最近変更されました。変更
内容は、要求時間がこれまでの1000時間/年から840時間/年に緩められる
というものでした。変更の主な理由は経済的な事情が大きいようです。つまり、
エホバの証人は、世俗の仕事をしながら奉仕していますので、通常、開拓奉仕を
行なうためには、世俗の仕事をいくらか切り詰めなければなりませんが、昨今の
経済事情の悪化のため、そうしたことが難しくなりつつあるという現実があるようで
す。また、別の理由としては、要求時間を引き下げることによって、開拓奉仕者の減
少に
歯止めをかけると共に、むしろ、増加に転じさせたいという意図があるようです。
そのことは、「王国宣教」1999年8月号に『目標:7万人の正規開拓者』という
スローガンが掲げられたことからも分かります。しかし、その後の状況は、開拓者の
増加どころか、減少に歯止めがかかっていないことを示しています。

ものみの塔協会は、これまで、一貫して開拓奉仕を勧めてきました。例えば、「王国
宣教」1996年7月号には、
 
   パウロはわたしたちに、「主の業においてなすべき事を常にいっぱいに
   持(つ)」よう、熱心に勧めました。(コリント第一15:58) 多くの人
   にとって、これは開拓奉仕を始めることを意味します。

と述べられています。開拓者は、会衆の模範的な成員であり、会衆の活動の多くを
担う、一目置かれる存在でした。実際、開拓者は世界のエホバの証人全体のわずか
な部分を占めるに過ぎませんが、例えば、野外における活動の多くの部分を成し遂
げてきました。ですから、これまでの協会の歴史の中で、開拓者がいわば機関車と
して役割を果たして、先頭を走って来たことは確かなことです。もし、開拓者制度が
なければ、エホバの証人は今日あるような規模には、決して到達していなかった
ことは間違いないでしょう。

しかし、同時に、この開拓者制度が、さまざまな弊害をもたらしてきたことも事実です。

開拓者というのは、まさに一種の「特権」でしたから、それをとらえることは素晴らしい
ことであり、同時に、それを失うことは恥ずかしいことであるととらえる傾向が、組織
の内部に生じてしまいがちです。それは開拓者自身も感じることであり、周りの人も
感じることです。

こうした傾向は、やがて、開拓奉仕そのものが目的化するという落とし穴に陥りやすく
します。どういう落とし穴かというと、それは、エホバの証人はみなエホバに献身した
はずなのに、いつのまにか「時間」に献身している自分を見出すということになりかね
ません。1年間で840時間という時間を達成することがもっとも重要な目標となり、
無意味に野外で時間を過ごして、「時間をいれる」という作業をすることに陥ってしま
いかねません。実際、この「時間をいれる」という言葉を何気なく用いている開拓者が
なんと多いことでしょう。その結果、エホバに仕えるのではなく、時間の奴隷となって
しまうのです。すべての開拓者がそうではないにしても、少なからぬ開拓者がこうした
状況に直面していると考えられます。

上記のことを物語る状況が、「1999年11月1日付け協会から開拓者への手紙」
(協会は毎年11月1日付けで開拓者全員に手紙を送る習慣がある)に垣間見ること
ができます。その書き出しは、以下の通りです。

   「『本当に、本当に、ありがとうございます』。1999奉仕年度のはじめ
   近くに発表された、正規開拓者の要求時間のかなりの調整に関して、
   このような感謝の言葉で始まる手紙が多くの開拓者たちから寄せられ
   ました。皆さんがこの変更について共通にお感じになった事柄が、ひし
   ひしと伝わってきました。この調整が自分の祈りに対する答えであった、
   と述べた人も少なくありません。ナイジェリアのある開拓者は、「何と優
   しい配慮なのでしょう」と書いています。皆さんも、その知らせについて
   同じようにお感じになったのではないでしょうか。

この手紙を読んで、私は、「はた」と考えてしまいました。何故、「ありがとう」なの
だろうか? もともと、自発的に行なっている開拓奉仕です。それが救いに不可欠
であると言われているわけでもありません。経済的な問題等で開拓奉仕を続ける
ことが難しくなったら、一時的にやめることもできるでしょう。また、再び機会が開か
れれば、再開したってよいわけです。経済的な理由でやめたとしても、模範的な
エホバの証人でなくなったわけではありません。ですから、要求時間を満たすことが
むずかしくなったら、それを手放すことに何を躊躇する必要があるでしょうか。
しかし、多くのエホバの証人はそうは考えないのです。開拓奉仕を手放すことは、
まるで、落ちこぼれであるかのようにみなす傾向があるからです。

ですから、何が何でも、多少無理してでも、一度とらえた開拓奉仕を手放すまいという
涙ぐましい努力を払うことになるのです。それでも、昨今の経済状況の中で、これ
以上続けることはもはや限界と思っていた人も多かったことでしょう。それが、
「『本当に、本当に、ありがとうございます』という言葉になったのでしょう。やめたく
ても容易にはやめられないという心理メカニズムがここには働いているのです。

このような開拓者制度を、これ以上続けることに大きな意味があるとは思えません。
エホバではなく、時間に仕えることを奨励する制度は、少なくとも個々のエホバの
証人の信仰を鼓舞することにはならないことでしょう。エホバの証人全体の組織
拡大には、これまで大いに貢献してきましたし、今後も貢献することでしょう。
もし、今、この制度を廃止したら、間違いなく、エホバの証人の組織はその規模を
縮小することは間違いありません。

しかし、エホバの証人一人一人が、本当に聖書をじっくり読み、黙想して、考える
時間を持つことのほうが、ずっと大切なことのように感じるのです。

2000年1月22日

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進化論を確率論で扱うことの問題について

今回は進化論を取り上げてみることにしました。

進化論はエホバの証人がもっとも嫌う「サタンの考え方」を反映した「科学的粉飾」
を伴った偽りの所産であるとされています。それで、これまで、様々な出版物で
進化論の「欺瞞」が暴かれてきました。

例えば、1985年に出版された「生命−どのように存在するようになったか 進化
か、それとも創造か」(筆者注:以下「生命」の本と略称させていただきます)は、
その中でも力作として評価されているものの一つだと思います。その後も、1998
年には、「あなたのことを気づかう創造者がおられますか」という書籍が発表され、
宇宙、生命、人間(特にその脳)に絞ったより専門的な考察がなされています。
それ以外にも、繰り返し、「ものみの塔」誌や「目ざめよ!」誌で、こうしたテーマ
が取り上げられています。

そうした中で、エホバの証人が進化論を批判するために用いる常套手段としては
要約すると次のような論理になります。

   私たちの身近なもの、時計とかコンピュータなどは、一定の優れた働きを成し
   遂げます。しかし、そうしたものが何かの偶然で生じたと考える人はいないで
   しょう。では、それよりもはるかに畏怖の念を抱かせる宇宙や、人間の脳が
   偶然の所産で生じたということがありえるでしょうか? それらのものの背後
   に「設計者」がいることは明らかです。それは神です。

というものです。

また、進化論では、生命が偶然に発生したという仮定の元に成り立っているとして、
その偶然性の確率を論じて、それはありえないという結論を導き出します。例えば、
「生命」の本の42〜44ページでは、その点が次のように展開されています。

    しかし、進化論がぶつかる別の手ごわい問題があります。アミノ酸は100
   種類以上ありますが、生物体のタンパク質のために必要なのは、そのうち
   の20種類だけであることを思い出してください。さらに、アミノ酸には二つ
   の型があります。すなわち、ある分子は「右手型」であり、ある分子は
   「左手型」です。
                   ・・・・・・・・・・・・
   ところが、生物体のタンパク質を構成するために用いられている20種類の
   アミノ酸は、すべて左手型なのです。
                   ・・・・・・・・・・・・
   適切なアミノ酸だけが集まってタンパク質分子を形成する可能性はどれほどで
   しょうか。赤い豆と白い豆を同じ数だけ取り、それをよく混ぜて大きな山にし
   たとしましょう。その上、それらは100種類以上の豆の集まりなのです。
   今、この山に小さなスコップを突き入れたとしましょう。どんな豆つぶをすく
   えると思いますか。タンパク質の基本的な構成成分に相当する豆を得る
   ためには、赤い豆だけをすくわなければなりません。白い豆は一粒も入っては
   なりません。 しかも、そのスコップは赤い豆のうちの決まった20種類だけ
   を載せていなければならず、その一粒一粒は、スコップ上の、あらかじめ
   決められた特定の場所に位置していなければなりません。タンパク質の
   世界では、これらの条件のいずれかがどこかで一つ狂うだけでも、結果
   として生じるタンパク質の正常な働きは阻害されることになるのです。
   この仮想上の豆の山をかき混ぜたり、スコップで何度もすくってみたりする
   ことによって、ちょうどふさわしい豆の組み合わせを得ることができるでしょ
   うか。いいえ。では、仮想されている有機物のスープ中で、どうして
   そのような事が起きるでしょうか。
                         
   生命に必要なタンパク質は非常に複雑な分子構造を持っています。ほんの
   単純なタンパク質分子一つが有機物スープの中で無作為に形成される
   可能性はどれほどでしょうか。進化論者たちは、それがわずか10の113乗
   分の1にすぎないことを認めています。10の50乗に一度の可能性しかない
   ような事柄は、数学的に見て全く起こらないこととしてかたずけられるのが
   普通です。ここに関係している見込み、もしくは確率がどの程度のものかと
   いうことは、10の113乗という数字が、宇宙のすべての原子の推定合計数
   よりも大きい、という点からも理解できるでしょう。   

少し長くなりましたが、要するに、「ものみの塔」の主張は次のように要約できる
と思います。

  @進化論は偶然の所産である
  A偶然は理知ある設計を生み出さない
  B偶然から理知ある設計物を生み出す確率は気の遠くなるほど小さい

ここで、重要なことは@の前提条件が本当かどうかということです。もし、@の
前提が正しく、進化論が単なる無意味な試行錯誤の繰り返しの果てにたどり
着いたものだとすれば、Bの確率論から考えて、生命が誕生する確率は
恐ろしく低いものとなるでしょう。しかし、この前提条件は本当に確かなこと
なのでしょうか。私は生物学の専門家ではありませんので、詳しいことは分かり
ませんが、その前提条件が崩れてしまうならば、上記のような確率論は無意味
になってしまいます。

実際、確率計算を行なう際には、次のような事柄を仮定する必要があります。

  「事象が真に無作為であり、系が何か特別な仕方で振舞うような自然法則は
   ないということを仮定しなければならない」

こうした事柄は、次のような想定をすれば容易に理解できます。赤い豆と白い豆から
特定の豆を分類するたとえを「生命」の本では用いていましたが、例えば、赤い豆は
磁石に吸い付けられる性質があり、白い豆は磁石に反応しない場合であったなら
(つまり、ここで無作為の前提条件が崩れるわけですが)、赤い豆と白い豆が混ざっ
た山から赤い豆だけを選ぶことは、いとも簡単に成し遂げられてしまいます。
その山に強力な磁石を近づけるだけでよいのです。

これは一つのたとえですが、こうした選択的な事柄が生命活動において生じていれ
ば、いくら確率的に天文学的な数字であると主張しても、それは無意味なことに
なってしまいます。もし、そうした活動が、何らかの作用や仕組みによって、
「無作為」ではなく、「選択的」なものであるならば、上に述べた確率論から
「偶然によって生命は生まれない」とする「ものみの塔」の主張は根底から
崩れてしまうことになります。

生命がどのように生じたかについては、確かなことを断定的に述べることは大変
難しいことだと思います。まだ、科学的に未知の事柄も多いことでしょう。しかし、
明らかに現在の到達した科学的事実と矛盾した事柄を信じつづけることには
無理があります。もちろん、最終的には、人間の浅はかな知恵に頼るのではなく、
全能の神エホバの方を信じるべきかもしれませんが、それもある程度の論理性が
伴って初めて通用する事柄ではないかと思います。

ですから、確率論という「手品」ではなく、正々堂々と進化論の誤りを論理的に崩す
ことができなければ、やはりそれを退けることは簡単ではありません。

今回、生命の必要なタンパク質の合成を確率論から述べた「生命」の本の説得性
に疑問を呈しましたが、進化論に関しては、どうしても、「ものみの塔」の説明に
おいて、論理に飛躍が伴いがちなので、もう少し、論理的な物事の検証ということを
今後、行なう必要があると感じています。


2000年1月31日

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エホバの証人が誕生日を祝わない理由は聖書に基づいているか?

ある日の伝道における会話
 
   ○○ちゃん       :私、5歳になったの!
   長老           :へえ、きょうは○○ちゃんの誕生日なの。
   ○○ちゃん       :そう。きょうお父さん(注:未信者)がケーキ
                  買ってきてくれるの。
   ○○ちゃんのお母さん:主人は子供の誕生日にはケーキを欠かさないんです。
                 でも、主人の誕生日には何もしてあげられなく
                 て少し心が痛むんです。 
   長老           :・・・・・・・・・
   お母さん         :兄弟、クリスチャンは誕生日を祝ってはいけな
                  いんですよね。
   長老           :協会はそう言っていますね。でも、聖書に明確
                 に書いてあるわけではありませんが。
   お母さん         :確か、聖書中の誕生日に関する記述が悪い事柄
                  と結び付けられているからでしたね。
   長老           :そうでしたね。
   お母さん         :じゃ、楽園になったら、誕生日は祝えるかも
                 ね。            
   長老           :・・・・・・・・・

こんな会話がありました。

それにしても、ささやかな家族団らんの中で、すくすくと成長した我が子の誕生日を
祝うことが、本当に聖書の教えに反することなのでしょうか? 今回は、この点に
ついて検討したみたいと思います。

まず、ものみの塔協会が述べている事柄を確認しておきたいと思います。

   *** 塔80 10/15 30-1  読者からの質問 ***
   エホバの証人はなぜ誕生日を祝わないのですか。

   基本的に言って,エホバの証人は神の言葉に敬意を払い,その示唆するところ
   にこたえ応じることに深い関心を抱いているからです。

   まず言えるのは,聖書は愛する者に寛大に与えることを押しとどめるものでは
   ない,ということです。(創世 33:10,11。ルカ 15:22。コリント第二 8:19)
   また,宴会やパーティーを楽しむことも非としていません。適度の飲食は,生活
   を楽しむ方法として勧められているからです。(伝道 3:12,13)イエスは結婚
   の宴に参加されました。
  
   とはいえ,聖書はある程度の注意が必要であることを示唆しています。その
   由来や性質を無視し,どんな祝いにもやたらに参加することはふさわしくな
   かったからです。(出エジプト 32:1-6。ペテロ第一 4:3。コリント第一
   10:20,21)誕生日に注目し,それを祝うのはどうでしょうか。

   真の崇拝者の多くが誕生の日付の記録を保っていたことは明らかです。祭司
   その他の人々は自分の年齢を知っていました。それは当て推量に任されては
   いませんでした。(民数 1:2,3; 4:3; 8:23-25)しかし聖書の中には,真の崇
   拝者が毎年誕生日を祝っていたことを示すものは何一つありません。

理由:古代イスラエル人が誕生日を祝っていたという記録がない

   聖書の中には,誕生日を祝った記録は二つしかなく,いずれも真の神の僕で
   ない人が祝ったものです。

   わたしたちはこれら二つの誕生日の祝いをどうみなすべきでしょうか。このよ
   うな記録が残っており,いずれも神の是認を受けていない人々に関するもので
   あったことは,単なる偶然にすぎないのでしょうか。それともエホバは意図的
   にその詳細をご自分のみ言葉の中に記録させられたのでしょうか。そのみ言葉
   は,『教え,戒め,物事を正すのに有益である』,と神は述べておられます。(テ
   モテ第二 3:16)これら二つの記述から,少なくとも,誕生日の祝いは神から引
   き離された人々の習慣で,聖書的に悪いものである,と言うことができます。
   また神がイエスの誕生のはっきりした日付を記録されなかったことも注目に
   値します。神の僕が誕生日を祝うべきであるとすれば,当然それは最も重要な
   誕生日となるはずです。ところが,聖書はイエスの死んだ日に注意を向けて
   おり,その日を毎年記念日として祝うようクリスチャンに指示しています。
   (ルカ22:19。コリント第一 11:23-26)この点は,存命中に神のみ前で良い名
   を残したなら,人の死ぬ日は生まれた日より重大な意義を持つと聖書が述べ
   ている事実と調和します。―伝道 7:1,8。

理由:聖書中の誕生日の記録は、神の僕ではない人たちのものであった

   聖書の示唆するところと調和して,初期クリスチャンたちは誕生日を祝いませ
   んでした。「誕生日を祝うという考えは,この時期のクリスチャン一般の概念
   には無縁であった」―オーガスタス・ネアンダー著,「キリスト教およびキリ
   スト教会の初めの3世紀間の歴史」。

理由:初期クリスチャンは誕生日を祝っていなかった

   ですから聖書の中に誕生日の祝いを明確に非とする禁令はありませんが,
   エホバの証人は聖書の示唆するところにずっと以前から注目し,誕生日を祝い
   ませんでした。この点で,エホバの証人は初期クリスチャンの模範に倣ってい
   ます。また,クリスチャンの命日を毎年祝うことを正当化する聖書的な根拠は
   ありませんが,死の日はその生まれた日よりも優れているという点には同意
   できます。ですから,誕生日にではなく,キリストに見倣い,神の像を反映しつ
   つ一日一日に注意を集中しなければなりません。そうしていれば,たとえ死ぬ
   ことがあっても,自分の生き方により神の栄光を表わしたことになり,神は必ず
   わたしたちを覚えていてくださるでしょう。―ヘブライ 5:9; 11:6。フィリピ
   3:8-11。


   *** 目82 3/22 12-15  誕生日の祝い―どのように始まったか ***

   ウィリアム・S・ウォールシュは自著,「一般的風習にまつわる珍しい話」の中
   で次のように述べています。「個人の誕生を年ごとに祝う行為は古代の人々の
   間で風習となっていたが,クリスチャンからは当初,不快の念を持って見られて
   いた」。

   初期クリスチャンはどうして誕生日に対する嫌悪感を抱いていたのでしょう
   か。一つにはユダヤ人からそうした考えを受け継いでいました。「マクリント
   クとストロングの百科事典」は,「ユダヤ人の間で誕生日の祝いが行なわれた
   事例は聖書中に一つもない」ことを指摘し,さらにこう説明を加えています。
   「事実,少なくとも後代のユダヤ人は誕生日の祝いを偶像崇拝の一部とみな
   していた」。

   もちろん初期クリスチャンには誕生日を祝わない独自の理由がありました。
   今日あまり注意が向けられていませんが,当時の誕生日には異教との強い
   結び付きがありました。「誕生の日を祝う風習は……その実質において,
   特定の原始的宗教思想と関連がある」と「宗教・倫理の百科事典」は指摘して
   います。どんな宗教思想ですか。その一つは心霊術です。初期クリスチャンが
   誕生日を避けた別の理由は,それが占星術と結び付いていたことにあります。

理由:初期クリスチャンは誕生日を祝っていなかった。その理由は、それが
    異教の習慣と結びついていたためである
  
   リントンは誕生日が他の祝日と異なっている点を指摘し,その理由を次のよう
   に説明しています。「[誕生日には]すべての贈物と祝福の言葉が一人の人物
   に贈られる。色とりどりの糖衣と輝くロウソクで飾られたバースデーケーキは
   個人をたたえる贈物である。他の祝日は心を明るくするが,誕生日は自己本位
   にならせる」。「自己本位にならせる」祝いをクリスチャンが行なうのは好ま
   しいことでしょうか。イエスは,尊大なパリサイ人たちに言及して,「だれでも
   自分を高める者は低くされ,だれでも自分を低くする者は高められるのです」
   という警告を語られました。(マタイ 23:12)あまりに『自己本位になる』な
   ら,神のみ手によって卑しめられることになりかねません。『自己本位になる
   ことのないようにしましょう』と使徒パウロは諭しています。
   ―ガラテア5:26。

理由:誕生日の祝いは自己本位な風潮を助長する

   『だが,誕生日のようなささいなことまでなぜ問題にするのか』と異議を唱え
   る人がいるかもしれません。クリスチャンがそれを問題にするのは,「ごく
   小さな事に忠実な人は多くのことにも忠実であ(る)」という聖書の原則が
   ここに適用されることを知っているからです。―ルカ 16:10。

理由:誕生日を祝うかどうかは些細なことかもしれないが、クリスチャンは、
    そうした些細な事柄に対しても忠実であることが必要である

   「あなたがたは世のものではなく,わたしが世から選び出したので(す)」と
   いうイエスの言葉を教会が退けてよいと述べる箇所は聖書のどこにもない
   のです。(ヨハネ 15:19)・・・・・・聖書のヤコブの手紙は厳しい語調でこ
   う述べています。「姦婦たちよ,あなたがたは世との交友が神との敵対である
   ことを知らないのですか。したがって,だれでも世の友になろうとする者は,
   自分を神の敵としているのです」。(ヤコブ 4:4)この言葉は教会が世のもの
   となってその儀式を採り入れ,世を救えることを示しているでしょうか。

理由:世のものとならないために、誕生日の祝いから離れているべきである

   子供の誕生は喜びの時ですが,聖書はそれを釣り合いの取れた位置に据えて
   次のような興味深い言葉を記しています。「名は良い油に,死ぬ日は生まれる
   日に勝る」。(伝道 7:1,新)どうしてそのように言えるのでしょうか。

   誕生の際,わたしたちすべては先祖であるアダムとエバから不完全性と罪を受
   け継いでいます。わたしたちは神の恵みから外れた状態で生み出され,その
   前途には苦難に満ちた短い人生と死が待ち受けています。―ヨブ 14:1-4。
   ローマ 5:12。わたしたちはすべて,いわば神の憤りのもとに生まれますが,希
   望のない状態に置かれているわけではありません。聖書筆記者ヨハネは次の
   ように述べています。「み子に信仰を働かせる者は永遠の命を持っている。
   み子に従わない者は命を見ず,神の憤りがその上にとどまっているのである」
   ―ヨハネ 3:36。

   ですから,わたしたちが誕生の時に有している不完全な命は,神の見地から
   すれば実際のところ命とはいえないのです。神のみ前における良い「名」が
   非常に重要な理由はそこにあります。そうした「名」を得るような人生を送っ
   てきた人については,その有意義な人生の終わりに至って,「死ぬ日は生まれ
   る日に勝る」と確かに言うことができます。その人には,復活させられてもう
   一度生きるという確かな希望があります。(イザヤ 26:19)誕生の日を祝うよ
   り,神との良い関係を求め,それに喜びを見いだすほうが勝ってはいないでしょ
   うか。結局のところ,神の見地からすれば,わたしたちは「少しのあいだ現われ
   ては消えてゆく霧」のようなものに過ぎないのです。―ヤコブ 4:14。

理由:誕生日よりも死ぬ日の方が勝っている


*** 塔94 7/15 25  誕生日の祝いは死のつめあとを残す ***
   
   今日,ほとんどの人は,誕生日の祝いを単なる無害な慣習とみなしています。
   しかし聖書は,この伝統に対して肯定的な見方をしていません。まず一つに,
   聖書には神の忠実な僕が誕生日を祝ったことを示す箇所は全くありません。
   聖書に2回だけ出てくる誕生日は,神の敵であった支配者たちのものです。
   それぞれの祝いでは処刑も行なわれ,招かれていた客人たちは,王の不興を
   買った人の死を満足げに眺めていました。最初の例では,エジプトの王ファラ
   オがパン焼き人の長を処刑しました。(創世記 40:2,3,20,22)このエジプト
   の支配者は,自分の僕に憤りを抱いていたので,宴が催されている最中に処刑
   に及んだのです。2番目の例では,ガリラヤの不道徳な支配者であったヘロデが
   宴会の席で踊りを踊って自分を喜ばせた少女に好意を示すため,バプテスマを
   施す人ヨハネの首を切り落とさせました。何と胸の悪くなるような光景でしょ
   う。―マタイ 14:6-11。

理由:聖書中の誕生日の記述は悪い事柄と結びついている

以上3つの記事から引用しましたが、整理してみますと、
理由(1):古代イスラエル人も初期クリスチャンは誕生日を祝っていなかった。
      その理由は、それが異教の習慣と結びついていたためである。
理由(2):誕生日の祝いは自己本位な風潮を助長する。
理由(3):誕生日を祝うかどうかは些細なことかもしれないが、クリスチャンは、
      そうした些細な事柄に対しても忠実であることが必要である。
理由(4):世の者とならないために、誕生日の祝いから離れているべきである。
理由(5):誕生日よりも死ぬ日の方が勝っている。
理由(6):聖書中の誕生日の記述は悪い事柄と結びついている。

ということになります。では、次に、こうした理由を検証してみたいと思います。

<理由(1)について>

答えは、ものみの塔協会の出版物が与えています。
  
   *** 塔92 9/1 30-1  読者からの質問 ***
   
   以前は宗教的な性質があった習慣でも,今では多くの場所でそのような性質を
   失っている場合があります。例えば結婚指輪は,以前は宗教的な意味を持って
   いましたが,今日ではほとんどの場所でそのような意味を失っています。その
   ため,結婚していることの証として結婚指輪をはめる,という土地の習慣を受け
   入れている真のクリスチャンは少なくありません。このような問題の場合に
   たいてい影響を与えるのは,ある慣行が現在偽りの宗教と結びつけられている
   かということです。

誕生日の祝いにどんな起源があったとしても、現在、普通に行なわれている誕生日
の祝いに異教の意味を持たせているものがあるとは到底考えられません。仮に、
そうしたものが残っていれば、そうした集いには参加しないという選択はできるで
しょう。しかし、そうした意味を失った家族団らんの誕生日の祝いに目くじらを立て
る必要がないことは明らかです。従って、上記の基準から考えると、現代のエホバ
の証人が誕生日を祝うことに、多少の注意をはらうことはあったとしても、何ら問題
がある事柄ではないことは明らかです。

理由(2)から(6)については、ほとんどこじつけに近いもので、理由になってい
ないのですが、あえてコメントすれば以下の通りです。

<理由(2)について>
誕生日の祝いが自己本位の精神を助長することが皆無とは断言できませんが、
少なくとも、家庭でささやかに営まれる誕生日の祝いにそうした事柄が深く影響して
いるとは考えにくいことです。たとえ、そうした事柄が皆無ではないにしても、自己
本位を助長するということだけで何かを禁止するということは、あまりにパリサイ人
的ではないでしょうか? 自己本位の精神を助長するものは、世の中に無数にあり、
そうしたものすべてをクリスチャンが避けるの賢明であるとしても、あえて「禁止」
するのは筋違いであり、クリスチャンの良心で判断できる事柄ではないでしょうか。

<理由(3)について>
些細な事柄に忠実なのは大変結構ですが、これもあえて「禁止」するのは筋違いで
あり、個人で判断できる事柄の範疇です。こうした理由で「物事を禁止していった
ら、クリスチャンの生活は禁止項目だらけのものになってしまうでしょう。

<理由(4)について>
「世のものをならない」という理由で様々な事柄に注意を向けるのは良いとしても、
それらを軒並み禁止することは、律法を越えた行為ではないでしょうか。世のもの
とならないというのはクリスチャンとして重要な教えですから、一人一人が注意深く
あることは大切なことですが、これも、禁止理由にはなりえません。

<理由(5)について>
相対的に死ぬ日が勝っているからといって、誕生日を一切祝わない理由には
なりません。

<理由(6)について>
禁止の理由にはなりません。聖書中に悪い事柄と結びついている事柄をすべて
避ける必要があるとするならば、禁止しなければならない事柄もは無数に挙げな
ければならなくなるでしょう。


上記のように考えますと、誕生日を祝わないことには、聖書的な根拠がなく、無理に
クリスチャンに押し付けるべき事柄ではないことが明らかとなります。各人が良心で
決定すればよいことではないでしょうか。

誕生日の祝いにも、家族で行なうものから、もっと大規模に行なうパーティまで、
いろいろなものがあるでしょうから、そうした事柄を一人一人が吟味して決定すれば
よいことではないでしょうか。

実際、誕生日以外にも、私たちの周りには様々なレクリエーションがあり、エホバの
証人は、そうしたものを選ぶ際に注意深くあることが勧められています。それは妥当
なことでしょう。誕生日もその程度の扱いで十分なのではないでしょうか。

この点で、ものみの塔協会はパリサイ人のようになってはならないと思います。
次の記事を参考にすることができます。

   *** 塔96 9/1 8-13  キリスト以前の律法 ***

   西暦前200年までに,口伝律法がユダヤ人の生活に浸透しつつありました。
   当初,それらの律法は,成文律法と同等に扱われることがないよう,書き記され
   ないことになっていました。しかし,次第に人間の考えが神の考えに優先され
   るようになり,ついにはこの「垣」が,まさに保護するはずであった「園」を損
   なうに至りました。

   ラビたちは,トーラーすなわちモーセの律法は完全なものなのだから,生じ得る
   どんな疑問の答えも含んでいるに違いない,と推論しました。この考えは真に
   敬虔なものではありませんでした。実際には,それによってラビたちは都合よ
   く人間的な推論をする自由を得,私的な事であれ,ごくささいな点であれ,どん
   な問題についても,それに関する規則は神の言葉に基づいていると思わせる
   ことができました。

   特に悪評が高いのは,安息日の律法が口伝律法によって霊的な茶番とされて
   しまったことです。神はイスラエルに,週の七日目にはどんな仕事もしては
   ならない,という簡潔な命令をお与えになりました。(出エジプト記
    20:8-11)ところが,口伝律法は,ひもを結ぶ,もしくは結び目を解く,二針縫う,
   ヘブライ語の文字を二つ書き記すなど,してはいけない39ほどの異なった
   種類の仕事を規定するまでになりました。次いで,その各種類ごとに,さらに
   細かな規則が果てしなく加えられました。どういう結び方が禁じられ,どうい
   う結び方なら許されるのでしょうか。口伝律法はそれに答えて数々の専断的
   な規定を設けていました。病気を治すことも,してはならない仕事とみなされ
   るようになりました。例えば,安息日には骨接ぎをすることも禁じられまし
   た。歯が痛む人は,食べ物の味付けに酢を使うことはできましたが,歯の間から
   その酢を吸ってはなりませんでした。それによって歯の痛みをいやすことに
   なるかもしれないからです。

   こうして安息日の律法は,人間のこしらえた幾百もの規則の下に埋もれ,大半の
   ユダヤ人にとって霊的な意義が失われてしまいました。「安息日の主」である
   イエス・キリストが,安息日に,目覚ましい,心温まる奇跡を行なっても,書士や
   パリサイ人たちは感動しませんでした。自分たちの規定をイエスが無視して
   いるように思え,そのことだけを気にしたのです。―マタイ 12:8,10-14。

   ユダヤ教の指導者たちは,腐敗との闘いが心の中のものであって,律法書の
   紙面での闘いではないことを理解しませんでした。(エレミヤ 4:14)勝利の
   かぎは愛です。エホバと,エホバの律法と義の原則に対する愛です。そのよう
   な愛があれば,それに相応して,エホバの憎まれるものへの憎しみが生まれ
   ます。(詩編 97:10; 119:104)心がそのように愛で満ちている人は,この腐敗
   した世にあってもエホバの律法に忠実を保てます。ユダヤ人の宗教指導者
   たちには,民を教えてそのような愛を促し,鼓舞する大きな特権がありました。
   なぜそうしなかったのでしょうか。明らかに,信仰が欠けていたためです。
   (マタイ23:23,脚注)忠実な人間の心に働きかけるエホバの霊の力に信仰が
   あったなら,他の人たちの生活を厳重に統制する必要は感じなかったはず
   です。(イザヤ 59:1。エゼキエル 34:4)指導者たちは信仰が欠けていたため
   に,信仰を分け与えることができず,人間の作ったおきてで民に重荷を負わ
   せたのです。―マタイ 15:3,9; 23:4。

ものみの塔協会も、一人一人の成員を信頼しているなら、そうした人たちの生活を
厳重に統制するような規則を作ることは慎むべきでしょう。誕生日を祝ってはならな
いという規則は無害な楽しみを奪い取るものとなってしまいました。いまさら解禁す
るのはばつが悪いかもしれませんが、勇気をもって、正しい決定をくだすことが求め
られていると思います。


2000年2月3日
「物事をありのままに考えるエホバの証人」より

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