『異邦人の時再考』 − 要旨と抄訳

カール・オロフ・ジョンソン・著|村本 治・抄訳

抄訳者のことば

カール・オロフ・ジョンソン著の『異邦人の時再考』は1983年に発行されました。その本の意図と大まかな内容は以下の著者の序文を読めばわかるでしょう。この本は、ものみの塔宗教の全ての教義の最も重要な基盤である、1914年に「異邦人の時」終わり、現代の「終わりの時」に入ったという教義の根本に、聖書学と歴史学の立場から、徹底的に検討を加えたものです。この本は1980年初頭に起こったものみの塔協会の造反、内紛の波の原動力となっりました。当然のことながらものみの塔協会にとっては猥褻本に匹敵するような発禁本と考えられています。この本は残念ながら未だに日本語に訳されておりません。

英語版は、1998年6月にコメンタリー・プレスから増補改訂第三版が出版されました。このウェブページではこの歴史的に重要な文書の一端を日本の方々に味わって頂きたく、抄訳と要旨を掲載することにしました。序と第一、第二章は第二版を元にしております。改訂第三版では、第二章が充実され、三つの章に分かれました。以下のこの抄訳では第三版第五章として、第二版第三章の内容を紹介します。


《 目次 》

第一章 聖書年代計算解釈の歴史

第二章 新バビロニア王朝の年代計算

第三版第五章 「バビロンで七十年」の計算法


 私はエホバの証人として、ものみの塔聖書冊子刊行協会に信頼をおいていた。しかし協会が、彼らの使っている年代計算を裏付ける事実を真剣に受け止めず、これを押し隠して何百万人の信者を欺き続けることが分かった時、私はこの事実を出版して多くの人々にこれを吟味してもらうことに踏み切らざるを得なかった。ルカ21:24の異邦人の時が紀元前607年に始まり、2520間続いて1914年に終わったと言う教えは、ものみの塔協会の教義の重要な要素である。1914年はまた、キリストの目に見えない形での再臨が始まった年としても、エホバの証人の教義にとって鍵となる年である。この教義はエホバの証人の「よい知らせ」の実体でもあり、この1914年という年に少しでも疑問を差し挟むことは、ものみの塔協会の教えの根幹をゆすぶることになるのである。

 この本に書かれている研究のきっかけは、1968年、私がエホバの証人の「開拓者」、すなわち全時間伝道者であった時、私が司会をつとめていた聖書研究の参加者が、バビロニアによるエルサレムの破壊が、紀元前607年であることの証拠を示すように私に挑戦してきたことであった。 彼は歴史家がみなこの年を紀元前587年か586年にしていることを指摘した。これがきっかけで私の歴史の研究が始まった。1975年には、私の研究結果は圧倒的に、ものみの塔協会の紀元前607年という年が根拠のないものであることを示していた。私はものみの塔協会の間違いを、不本意ながら認めざるを得なくなった。その後、私はこの研究結果を、何人かの研究志向の友人に示して批判を仰いだが、誰一人として協会の立場を擁護できる反論のできるものはいなかった。その時点で私はこの研究結果を、系統だった論文の形でまとめて、ニューヨーク・ブルックリンのものみの塔協会の統治体に提出することに決め、これは1977年に提出された。この本はこの論文を元にしている。

 この論文を提出した後、統治体は私に対して、この論文の内容を他のエホバの証人に知られないようにする要請の手紙を何度も送ってきた。それと同時に協会は、この論文を慎重に検討したいが時間がないとも書いてきた。私はこの統治体の対応を素直に受け入れ、待ち続けた。しかし、1978年になり、協会の態度は急変した。1978年9月2日、私はスウェーデンのものみの塔協会幹部に呼び出され、審理を受けた。そこで私は、ブルックリンの統治体の兄弟たちが、私の論文を気にしているので、絶対に他の証人にこのことを話さないように厳重に注意された。このことがきっかけとなって、私はエホバの証人の長老の職を辞退することになったが、その直後からスウェーデン中の証人の間に、私が協会の年代計算を否定したという噂が広まった。これがきっかけでスウェーデン中に私に対する非難、中傷の火の手があがった。私はこれに対し統治体のアルバート・シュレーダーに手紙を書き、私の論文に対する真摯な回答を出してその内容で反論することなく、このようにその著者の個人攻撃を協会が容認することは残念である旨を述べた。

 1980年2月28日になり、協会はついに私の論文に対する反論の一部を送ってきた。しかし、これは協会がすでに出版していた607年の根拠の繰り返しであり、私の論文の中ですでに根拠がないことが示されたことばかりであった。更に1981年に出版された「あなたの王国が来ますように」の付録の中でも、同じ議論が繰り返された。このことは、協会が、私が示した新しい事実を正面から真剣に受け止めようとする態度を、最終的に放棄したことを意味した。そして協会は、私やその他の協会の年代計算に疑問を差し挟む者たちの、口を塞ぐことに本格的に乗り出した。これは明らかに協会の意向が、大部分のエホバの証人に正確な情報を与えず、つんぼさじきにおくことであることを示していた。この時点で、私はこの「異邦人の時再考」を出版する決意をした。

 ものみの塔協会が私のように、協会の教義に反する議論をする者に対して、その口を塞ぐために使う議論は、「エホバは、キリストがすべての持ち物をつかさどらせた『忠実な思慮深い奴隷』を通して、真理を漸進的に明らかにされる。従ってわれわれは、『エホバにおいて待つ』、つまり組織が『新しい真理』を出版するまで待つ必要がある」ということである。組織の先を行く者は、『忠実な思慮深い奴隷』よりも多く知っているという、思い上がり者であるというのである。しかしこの協会の論理は、この今、問題となっている協会が使っている年代計算そのものが間違っていたら、崩れ去る議論なのである。なぜなら、キリストがすべての持ち物をつかさどらせた『忠実な思慮深い奴隷』が、今の統治体であるという教義は、ひとえにこのたとえ話の中の、主人に当たるキリストが、1914年に帰ってきて1919年に『忠実な思慮深い奴隷』を任命したという、教義にかかっているのである。つまり、もしこの論文で示されるように1914年に異邦人の時が終わらずに、キリストがその年に帰って来なかったなら、ものみの塔協会の指導部だけが『忠実な思慮深い奴隷』として、独占的に真理を出版するという教義も崩れ去るからである。

 クリスチャンにとって『エホバにおいて待つ』ことは確かに重要なことである。しかしものみの塔協会の歴史を見てみると、その最初から彼らは『エホバにおいて待つ』のではなく、常にエホバの先を行ってきた。彼らが1874年にキリストの再臨の時を決めて以来、数多くの年代設定が予言され、全てが外れた。これが彼らの言う『エホバにおいて待つ』態度とどうつながるのだろうか。本当に『エホバにおいて待つ』ことが重要と思う者は、今すぐものみの塔協会の時期尚早な年代推測から手を引くべきであろう。

 この本がエホバの証人の間に、不安を引き起こす可能性のあることは私も承知している。しかし真の信仰とは歴史と調和していなければならない。従って私はこの本が、真のクリスチャンにとっては、その平和と一致の妨げとはならないと確信している。真の一致の力は愛でなければならない。残念ながら愛による一致の他に、組織の指導者が自分たちの権威を守り、人々を支配するために、恐怖によって人を引きつける一致もある。このような一致においては組織の成員は、自由に考え表現する自由を、組織の権威者にあずけて放棄する。そのような組織では自分の目で確かめてみようと思う者は直ちに攻撃される。これがまさしくものみの塔の組織で起こることなのである。

 しかしそれでも、かなりの数のエホバの証人が、全てを犠牲にして一致をはかろうとする、組織の権威に対して、神から与えられた批判力を保つことができた。私がこの研究を始めた後、何人ものエホバの証人たちが独立に同じ疑問を持って、協会の年代計算を徹底的に研究し、私のこの論文と同じ結論に達した。この中には最初、協会の年代計算法を弁護するために一生懸命研究をした結果、協会の年代計算法の間違いを指摘せざるを得ない立場に至った者もいた。その最もよい例が協会の聖書辞典である「聖書理解の助け」の著者である、レモンド・フランズ氏であろう。この本の322ページから348ページの年代計算の記事は、協会が発行した年代計算に関する出版物の中では、最も優れたものである。しかしその著者自身は、広範な研究にもかかわらず、協会の紀元前607年という年を擁護することが出来ないことを見いだした。後に彼自身、この年を擁護することを完全に放棄し、更にこの年が鍵となっていたこの宗教のすべての教え放棄するに至ったのだった。

 結語として、私はこの論文に励ましと忠言を与えてくれた、世界中の多くの友人、その中には現役のエホバの証人も多数ふくまれるが、に感謝したい。しかし最大の感謝はエホバ神に対してである。この研究はエホバへの祈りとエホバの真理の言葉が常に基礎となっているからである。確かにある種の年代計算は偽りであるが、エホバの予言は歴史の中で繰り返し成就されていることが、この研究の中で確認された。この信仰を強めさせる発見は私とって大きな喜びであった。読者方々もこの同じ喜びを味わって頂きたい。

1982年12月
スウェーデン、パルティユにて
カール・オロフ・ジョンソン


第一章へ続く

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